10代から20代の時に書いた詩(11)
天川裕司
10代から20代の時に書いた詩(11)
「理想の人」
僕はこの世の人に、永遠なる不安を縋ったのだ。だけど、この世の人は、〝それは真実の不安じゃない〟と撥ね退(の)けた。僕は暫くして納得した。この世では僕の思っている幸せは荷が重過ぎるのだ。生まれて来た以上、自分勝手になるのは当然だ。欲がある以上、自分に得なものがあればそれを欲しがる。それ故僕は理想を愛した。この世で言う、いわゆる架空だ。架空等では生きて行けない、と言うがそれも人それぞれである。生きる勇気、死ぬ勇気、この場合、生きる事を勇気とは言わない。ただ、生かされているのだ。僕がこう思う理由はきっと天にある。天でなければその上か下にある。この世と僕はとてもマッチしている。このように思い描く事が出来たのだから。これも生きている人間なのだ。心の中で僕の理想の人は呟いた。〝素晴らしい〟と。
〝やったぜ、パパ!〟
今日、終止符を打った。いつになく寂しい思いだ。でも明日が来る事への思いは昨日と変わっていない。僕の道とはもう決まっているものなのか。〝考えちゃいけない〟って人と、〝考えちゃいけない〟って人がいる。〝高が人生〟などとは思えない時がある。愛情と欲情、その二つはワン・セットなのか。愛情に浸っていれば欲情も湧き出て来る。それへの罪悪感はどう肯・否すればいいのか。道は沢山ある。一つの動作で物事が変わる場合がある。ところで、恋人のいない人生というのは素晴らしいのかい?もしそれが素晴らしいなら2つの存在とは?我ながら恥ずかしい。
「影響」
彼は読書が好きだった。それも自分と気の合う本が好きなのである。結構哲学的で面白く、少し暗さを秘めた青年だった。今、彼が読んでいるのは、〝愛〟というものについて述べられている本である。そこには漢と女が写真で貼られてあって、その合間を縫って字を書いてるのである。しかし最近、彼はあるページまで読んだところで止まっていた。幾度か同じページを読んでいたのだ。
そこにはとても美しい顔をした女性の写真が貼られてあった。彼はいつものようなそれらに対する否定はせず、純情っぽくその写真を見ていた。いつも、一人で本を読んでいたのでその写真を見る時間も長かった。そして次ページにいき、又、今まで通り読んでいった。だがやはり気になって何回かさっきの写真付きのページまで戻るのである。一時(いっとき)は、もう前に進まなくてもいいか、等と思ってしまう事もあった。がしかし、彼は読書に憧れていて、哲学青年を美化していた。それでも先へと読んでいった。読んでいく内に、いやらしい文章の羅列があった。彼はそのままそこを読んでいった。すると、また段々とあの写真の女性の顔を見るようになっていった。そうして本を読んでいる途中で家のベルを鳴らす者がいた。友人だった。彼は読書をやめ、珈琲を入れて友人をもてなした。〝丁度暇だったから…〟などと文句を言い、友人との時間を楽しく過ごそうと試みた。そうして友人と話している内に、女の話になっていた。〝誰が好みだ〟の、〝こういう流行の女はどうの〟とか言うのである。彼はそこで途端にさっきまでの気持ちが変わった。『さっきまでの自分は一体何をしてたのか、そう、本を最後まできちんと読まなくては、感情が入るのは大いに結構な事だが、もう読まないでもいいか、などは絶対いけない…』哲学への憧れの心が友人の前に顔を出したのである。彼はその人と流行、女性関係について沢山話した。何時間かしてその友人は帰った。帰った後、一人で彼はさっきとは打って変わってさっきまでの読み掛けの本を読み始めた。今までに無い程の集中力で最後のページまで読んだ。そして最後のページをめくったその裏にさっき女性と、男の顔が二人一枚で映っていた。彼は即座に本を閉じ、読んだ感想を思い描こうとした。が、又あの女性の顔が散らついた。結局感想をノートに書いてみよう、と試みたが、沢山の言葉は出なかった。途中で止まって、同じページを読み過ぎていた所為だ、と彼は思っていた。
〝あの人に、暖めて貰いたい。あの人を、暖めてあげたい。〟
尤もな幸せは、充実感の中にある。その充実感を得る為には前向きなしんどさを乗り越えねばならない。生きて行く為に。
あの娘を思う事が、あとあとになって悪い事なら、早くこんな感情失くしたい。女を好きになる、男として当たり前の事?笑わせる。その為に犯罪も起きているんだ。俺は何度あの娘を心の中で殺したことか。俺にはキャスティング・ミスだ。ずっと天国に居たかった。この世に降りて、犯罪を心に見るのが堪らなく嫌だ。だからと言って身を引く気もない。あの娘にとっての幸せが、俺の居ない所にあるのなら、俺は居ない方がいい。何故に運命の人以外の人と出逢うのか。こんな事は何の意味も無い。道行く人を見て何になる。道行く人がどうであれ、俺の善・悪は変わりない。他人も同じだ。俺は唯、幸せが欲しいだけだ。暖かさが欲しいだけだ。それでも現実はまだ、俺の上に雨を降らせて行くのか。(笑)
理想の人はきっと、死んだ後、天国に住んでるんだ。―――では今とは?―――
―――――――ー現実は残念ながらそんな動きはしてない。本当に残念だ。
2つの顔を持つ1人の男さ。2つの顔を持つ男をお探しなさい。1888年
よく、眠る時間がない時に夜更かしをしてしまう。悪い事だ。
理想のあの女(ひと)を創りたい。この世で一番の人だ。その人が居れば僕は頑張れて、マイナス思考にも成らずに済む。生まれて生きて行く以上そうして生きて行きたい。
〝彼女〟
もう心の中で人を殺すのは沢山だ。嫌だ。純粋に楽しみたい。
「夢=理想の人」
周りの女はもう殆ど俺とは違う他の男を知っている。そして一時期、また永遠にそいつらのものだ。今更、そいつらに仲間入りで胡麻するなんては、プライドが許さない。そんな奴等カス共と一緒ではないのだ。愚かな事ばかりを繰り返している輩、俺のその愚かしさは少なくともそいつらとは別の所にある。プライドが許さない。どうしても人目を気にしてしまうのは、決してプライドが曇ったからではない。俺の理想は、俺の理想。この俺だけにしか見えなくて、そいつも俺しか見えない。俺の為だけに生まれて来た。俺も同じ。周りに見える女とは別なのだ。そいつが居てくれるから俺は狂わずに済む。俺は夢を信じられるのだ。
この世の中の愛は、一見力強そうに見えて、実は頼りない。
「唯創証論」
今更、この僕は恰好なんか付けようがない。愛に飢えているのか、と問えば日々の生活に嫌気が差す。何にも出来なくては生きて行けないのである。身長も一番低くて唄も下手で、恰好の悪い僕にはマイナス思考は命取りだ。他人はこの僕の事を〝幸福だ〟と言う。だが、僕もその対比している君と同じ個人なのだ。僕は僕でしか生きられない。多くの文学はそこから出発している。自分一人の悩みこそが、その人、人間である故の、平等の悩みなのだ。だがそれには限度がある。人は、その結果を見る。そのレベルの差に不幸を言うのは当たり前の事である。どれだけ何を言おうが、やはり他人(ひと)にはなれない。それならばと自分で生きる道を見付けるしかない。そこで〝神の居る道〟というのと、〝居ない道〟というのに別れてしまうのだ。人はそういう角を何度か通り過ぎている。〝後ろを振り返る事は先に立たず〟と、同じ人間の先輩方はこう語る。それなのに、〝今更…〟等と言っていていいのか。ある女の子が言った。〝寂しく、空しくなる時がなくなれば、その幸せに気付けない…〟と。だが、それで命を落とす者も多く居るのである。事実は事実だ。実に当たり前の事である。人生を楽しむ事を一歩間違えると、人間が変わる。その輩の善・悪が変わってしまう。人は年頃になって自論を持って生きて行くものである。その自論を崩されては、生きて行くのは困難になる。その崩そうとする人達を敵と見做す程の覚悟がなければ、負ける事がある。時に生きて行く事は一人の時があるのだ。自分の心を見て、部屋の中を見渡し、そしていつもの顔触れが電車の中に溢れ返る。この流行を見た。この僕は今更恰好の付けようが無かった。
考えなくていい、考えなくていい。生きる事はそれだけで実なのだ。善・悪など紙一重。しかし、目に見えて損をする罪は犯してはならない。男の俺は、ただ恰好良く生きればいい。男には女、俺にも女。時間は同じように過ぎて行く。どこに居ても同じ、何も自分から血塗れに成る事はない。生きて行くのを考えること自体、的外れだ。
自称・スーパースター。
舵を取るのは男。舵を取るのは俺。それしか無いから。
ここに書く字と、他の紙に書く字は違っている。他の目を意識するのか、面白いほど違う。上手・下手は失くして、そういうのを失くしてみたいものだ。
明日から生きなければならない。それを考えると、過去に嫌と言うほど考えて来た。細々した難事は考えられなくなる。僕の場合、生きて行く上で、どうしても2つ一遍には考えられないみたい。母親はその方がいい、と言う。
『思記』~「始まりの記(き)」より
すぐに誰かの足を引っ張ろうとする現代人、人間(何かで成功した人間を見れば尚更である)。賞賛されるのが自分じゃないからだ。成功するのが自分じゃないからである。それは傲慢と欲望の罪である。どれだけ欲深い生き物なのか、それが現代人にもよく分かるだろう。
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聖書の内容をどうして書くか。ユーチューブのシナリオに描くとき。面白おかしく書く。とにかく一人でも多くの人の心の中に残る様に書く。現代に置き換えて書く。
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作品創作。方言を使うと少しリアリティが出る。
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現代社会が求める価値観と俺は全く合わないのである。
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人間の世界だけに救われるのはもううんざりだ。全く救われなくて良い。神様に救われたい。その為に人間の世に救われるならそれも恵みである。人間だけでは罪に埋もれ、必ず救いは無いからである。
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イエス様を殺したあの当時の宗教家達は、「お前は神を冒涜して居る!」と言って蹂躙し、鞭で打ち、唾を吐き掛け、十字架を背負わせ、「自分の罪の為に死ね!!」とあの髑髏(されこうべ)の丘で、イエス様を葬った。悉く殺したのである。この宗教家達のこの時言った「神」とは、一体何の神なのか?これは現代の人間にも通じる。
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苦しい時にこそ、励みになる、救いになるものを、神様の御力に依り、書かせられたい。
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この世には暴力的な怖さがあるが、宗教による怖さは全く別のものである。その人を内側から変え、永遠の滅びを齎す事がある。同時に永遠の救いを齎す事がある。暴力による傷から人は逃げるが、宗教による傷には人から向かうのである。この宗教とは邪教の事である。
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漫画で出来るだけ長続きさせる為には、絵を出来るだけ簡素化する事である。簡単ならば次々量産する事が出来、ストーリーを先に考える事も出来、絵に掛ける負担が少なくなるから、長く描ける。心にも余裕が出来る。この心に余裕が出来る事が大事である。
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小さな事にも忠実であれ。小さな事に忠実な者は、大きな仕事にも忠実である。やがてその者は大きな仕事を任される。初めの言葉は、イエス様が全ての人に教えた言葉。硬派や義理人情という言葉がある。これはヤクザの専門用語の様に俺は憶えた。確かにそうだったのではなかろうか。日本にはこの言葉が息衝いて居る。けれど現代人は、硬派でも軟派でもなく、曖昧な土台を以て生かされて居る。それで自分が生きて居ると思って居るのだ。しかし怠慢や罪はその硬派も軟派も包括するもので、堕落した儘、その曖昧を人生のメインに持って来る。硬派なヤクザ、義理人情を押し通すヤクザ、その為には忠実である事、親分や義理を通す兄弟分に忠実。これを現代人は馬鹿にするのではなかろうか。いや特定の人がそうであろうと思うが、結構その特定の人が多いのではなかろうかと言う事。それだけ現代人は多くが堕落して居るのだ。今が楽しければそれで良い、硬派も何も無く、どちらかと言うと軟派に近い。一般人より、硬派な者達の方が忠実であり、神経質なほど細かな事に気を配る者達、忠実である者達の方が、信仰に依り神様に救われた後、又その信仰に忠実である。即ち、神様に忠実であると言う事。悪ければ悪かった分、救われたら良い方へ変えられる。これが本当に在るのだ。
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墓場鬼太郎が好きだったのは、現実模写に近かったから。ある日、突然不思議な世界へ入り込む。ミステリーゾーン・アウターゾーンに入り込む。あの前後のロマンスに堪らなく魅了されて居た。鬼太郎で仲間とわちゃわちゃするところも好きで、あっちの方が好きなところもあるけど、涼しくぬるいロマンスを感じられたのは、墓場鬼太郎の方だったかも知れない。
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人は独裁になり掛けると、それを極度に嫌う。
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現在と未来は繋がって居る。この様に喋った瞬間でも一秒二秒は過ぎて居る。過去の事は人の手により遮られる事がある。過去も繋がって居るのだが、人の手により変えられて、封印されて、繋がりを持たせない様にさせられる事がある。
イスラエルやイラン、ロシアやウクライナ、その他にも世界情勢に就いて、矢鱈と過去の事を持ち出して来て、それを論拠とし、正論を述べようとする者達が多い。考古学が好きな自分でもある為、過去の事に興味を持つのは良いと思うが、現在の事・未来の事の方が大事である。信仰に於いて今どう在るべきか、世界はどの様に動いて行くのか、これが聖書に全て書かれてある。聖書だけは他の書物・記録物とは違う。これはクリスチャン的な考え方で他人からは狂って見えるかも知れない。それを承知でこの様に記すのである。
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歌の中に笑い声を入れられる余裕、咳き込みや、日常の動作を声で表せる余裕、このゆとりが奥行きと、現代には殆ど見られなくなった魅力を醸すのである。
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選挙の投票にはやはり行かない。投票したいと思える人が居ないから。
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礼拝ブログをSNSで拡散する時、その礼拝がなされた年月日はそれほど重要ではない。だから最新日時のものを更新しなければ成らない等と懸念する必要は無く、何年前のものでもその儘アップすれば良い。聖書の教える処は一つだからである。それは変わらないからである。
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「婚礼の客は、花婿が一緒に居る間は、悲しんで居られようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう。誰も、真新しい布切れで、古い着物に継ぎを当てはしない。その継ぎ切れは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。誰も、新しい葡萄酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんな事をしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋も無駄になる。だから、新しい葡萄酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長持ちがするであろう。」(『マタイによる福音書』第九章一五節から一七節)…新しいものは、新しいものへ。新しく信仰に依り生まれ変わった人々は、イエス様が人々の間に遣わされ、その時から生まれた新約の信仰へ。
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これ等の事を彼らに話して居られると、そこに一人の会堂司が来て、イエスを拝して言った、「私の娘がただ今死にました。しかしおいでになって手をその上に置いてやって下さい。そうしたら、娘は生き返るでしょう」。そこで、イエスが立って彼に付いて行かれると、弟子達も一緒に行った。するとその時、十二年間も長血を患って居る女が近寄って来て、イエスの後ろから御衣の房に触った。御衣に触りさえすれば、治して頂けるだろう、と心の中で思って居たからである。イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、癒された。それからイエスは司の家に着き、笛吹き共や騒いで居る群衆を見て言われた。「あちらへ行って居なさい。少女は死んだのではない。眠って居るだけである」。すると人々はイエスを嘲笑った。しかし、群衆を外へ出した後(のち)、イエスは内へ入って、少女の手をお取りになると、少女は起き上がった。そして、その噂が地方全体に広まった(『マタイによる福音書』第九章一八節から二六節)。
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罪から離れたら、死ぬ事、詰り天に召される事が怖くなくなる。神様の恵みの方を、当然に、更に大きく感じる様に成るからだ。又、人がこの地上で限り有る者と知って居るからである。
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教会に来る人にもいろんな人が居る。熱心に聴こうとする人、真面目に聴こうとする人、何となくそこに居る人、誰かに連れて来られた人、又は出会いを求める人、その出会いにしても神様との出会いではなく、人との出会いを求める人。そうかと思えば神様とイエス様との出会いを求める人。何らかの利益を求めてそこに来るのである。その利益が何なのか。これが大事である。教会へ来る本来の目的は神様の事を知り、神様に近付く為である。初めから神様は全ての人の身近に居られる。上下、左右、その人を包み込む全ての内に居られる。その人の内に居られる。この事に気付く人もあれば気付かない人もある。教会へ来る本来の目的は何か?この事を何度も各自が自分に問う必要がある。本来の目的は、何度も言う通り、神様の事を知り、神様に更に近付き、イエス様に従い、御言葉を知り、その御言葉に従う為。詰り救われる為である。信仰に依り救われ、それ迄の人生が変えられる、自分が生まれ変わる、その変えられる為にそこへ来る。この本来の目的を変えるものが、人の欲望であり、罪である。そして信仰に於いてこの本来の目的を変える事が、世間では横行して居る。自分の欲望と罪によりその本来の目的を変え、その時々の自分にとって都合の良いものを得ようとする。そしてその得るものをこそ利益とする。これでは神様が本来創られた人として成らない。信仰に生かされる人として成らないのである。この事を常に憶える必要が各自にある。
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俺にとって太陽とは燃える火である。だから俺に描けないのだ。火を描く事が出来ないから。デッサンではない。火そのものを絵に描く事、これが出来ないからである。全てにそう言えてしまう。これは俺の絵画に対する芸術である。
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イエス様と言う希望の光が目の前に在って、どうして暗闇の方へ逃れて行くの?此処に人の罪の本性がある。この本性をどうにかせねば成らない。それは神様の御力とイエス様の働きと聖霊の働きと、信仰に依る力でしか成せない。人が自力で成す事は出来ないのである。
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六十万円もしたワニ革のブーツに、穴が開き始めた。人のものには限りがある。お金も儚い。明日どう成るか分からない人間である。そして同時に人間は神様の下(もと)で兄弟姉妹に在る。本当に価値有るものは信仰である。神様とイエス様の御力、聖霊の働き、信仰のみが人を永遠に救う。
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欲望に走り挫折して、世間に惑わされ、裏切られて捨てられ、何も無くなってから俺の元に来る人。それ迄に来いよと言いたい。しかし、それが神様から与えられた時であり、隣人を愛する時であり、単純に感謝せねば成らない時である。この事も分かり、そう信じるのである。また俺の周りによく居る人はそう言う存在にあろうか。
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苦しい時、逆境に立った時にこそ、その人の真価が発揮される、この言葉は本当であろう。俺にしてもごく身近で、物を書いて居る時、疲れを覚えた時には何やらその疲れによって邪が働き、罪に出向くものである。詰りこの時にこそ、苦しい時にこそ、逆境に立つ時にこそ、神様の御力が働き(神様の御力は最初から最後まで働き続けて居る事を前提に記す)、それを素直に認める力を得させられ、神様に喜ばれる息子と成る様に。この事を何度も祈り願い求め続ける。兄弟姉妹共に、常に神様の平安の中に在る様に。イエス様のお名前に依ってお祈り致します、アァメン。
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自分の知らない所で神様の御力が働く事は、俺が傲慢に成らない為の恵みである。全ての事に感謝する事。何時(いつ)でも神様に感謝する力と心をお与え下さい。イエス様のお名前に依ってお祈り致します、アァメン。
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何度か記して来たと思うが、人が自力で、他人を変える事は出来ない。その他人が本当に生まれ変わる状態に成るのは、神様の御力、イエス様の働き、聖霊の働きがある時だけである。この他の時に人が変わる事は無い。この場合の変わると言うのは信仰に於いて生まれ変わる事を指し、人の範囲、人が自力で何かを変えようとするその世界だけに於いては、その変わる状態の半分の状態にしか成らない。変わると言うゲージがあったとして、その半分のゲージしか満たせないと言う事である。本当に変わると言う状態は、生まれ変わる状態を指し、その後、その変わった状態から変わらない事。人の感動はまるでブームが去る様にして、必ず乾くものであり、また右往左往し始めて、その変わる前の状態に落ち着く事もある。変わった事への実感を持つ事が出来ないのである。詰りそれは変わってないと言う事、その様に断定する。しかしそれは経験であり、必ず信仰という幹に辿り着く為の断片、変わる為の破片の様なものを感じさせるものに成る。詰り人が出来るのは、生まれ変わる事への架け橋に成る事、信仰に於いて、その変わる状態を他人に齎す為の切っ掛けに成る事。祈りに生かされて、神様に遣わされると言う事である。この遣わされる果てに、人が本当に変わる事が出来る状態、生まれ変わる成果が得られるのである。
*
悩みは人に言わなくても良い。神様がご存知だから。
10代から20代の時に書いた詩(11) 天川裕司 @tenkawayuji
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