8 デートの準備

「それってデートではないですか!」


「そうなの?」


 すぐにやって来た次の休日は、よく晴れていた。


 リゼルは朝から自室にネイを呼びつけ、「今日は旦那様とお出かけなのだけど、何を着たらいいかしら」と馬鹿正直に相談したところだった。


 ネイははしゃいだ様子で両手をぱんと打ち合わせ、衣装部屋に続く扉を勢いよく開け放つ。そこに収められた色とりどりのドレスを見比べ、両頬を手で押さえた。


「やっとこのドレスの出番が来たのですね、どれにしましょう!」


「……なんだか、嬉しそうね?」


 ネイはあまりグレンを好きではないようだった。二人で出かけるのを快く送り出してくれるとは思っておらず、鏡台の前に座ったリゼルは困惑する。


 薄青のサテン地に銀糸で華やかな刺繍の入ったアフタヌーンドレスを手にしていたネイが、くるりとこちらを向いた。


「私の一番大切なものはリゼル様の幸せです。ですから、今までの旦那様の行状は許し難いものでした。でも最近の旦那様はリゼル様を大切にしているようですから、喜ばしく思いますよ」


「そう……」


 ちら、と鏡に視線を移せば、不安そうに顔を翳らせた自分自身と目が合う。ネイの気持ちは嬉しいのに、その言葉が胸の隅を引っ掻いて小さな疵をつける。


「最近の、というか……記憶を失ってからの旦那様よね」


「そうですね。最初はどうなることかと思いましたが、案外慣れてしまうものですよねえ。むしろ今の旦那様の方が取っ付きやすいと、使用人達の間では評判が良いですよ」


 これまでグレンの一挙手一投足に屋敷には緊張が走っていたものだが、皆の順応性は思いの外高かった。今ではグレンがリゼルに花を贈っても、二人が並んでお茶を飲んでいても、またか、と微笑ましい目で見られるだけだ。


 そう、人間は慣れてしまう。悲しいほど残酷に。


「なら……旦那様の記憶が戻ったら、どうなってしまうのかしら」


「リゼル様?」


 ぽろりと零した独白は、存外か細くなってしまった。ネイが不審そうな顔になって、ドレスを選ぶ手を止める。


「何かご不安があるのですか?」


 そばまで寄ってきたネイがそっと背中に手を当ててくれる。リゼルはぎゅっと自分の体を抱きしめ、無理に口角を上げてみせた。


「ごめんなさい……何でもないの。ただ、今の状態を当たり前だと思わないようにしないとって。記憶がないのは、きっと不安なことだもの。早く戻ると良いわね」


 グレンは優しくしてくれるが、本来あるはずのモノがないというのは心許ないはずだ。今の今までそこに思い至らなかった自分に恥じ入る。


(思っちゃいけない……旦那様に記憶がないままだったら、なんて。考えるだけでも不誠実だわ)


 今のリゼルは、グレンとの出会い方を変えた『もしも』の世界を生きているようだった。


 もしも、祖父の約束がなかったら。


 もしも、普通の貴族同士として社交場ですれ違っていたら。


 もしも――。


 だが現実にはあり得ない。祖父の約束がなければ、リゼルはグレンに出会うことすらなかったのだから。


 懸命に自分を説き伏せていると、ネイが背を撫でてくれた。


「いつも思うのですが、リゼル様は少し考えすぎですね」


「え……?」


 頼りなく顔を上げると、自信満々に笑うネイと視線がぶつかる。


「確かに、今の旦那様はまっさらで人が変わったようです。でも、それが偽物だというわけではないでしょう? お医者様も、一面だと仰っていたではありませんか。それに記憶が戻ったとしても、今お二人が積み重ねている時間が消えてしまうわけではありません」


 ネイはしゃがみこんで、お仕着せのエプロンドレスの裾が床につくのも構わず、リゼルと目線の高さを合わせてくれた。


「この騒動がなければ、お二人が心を交わすことはなかったでしょう。でも今、その道は変わりました。お二人はもう、お互いを知ってしまった。知らない頃には戻れません。――だから、大丈夫ですよ」


「どうしてそう言えるの……?」


 頑是なく問い返すリゼルに、ネイは目元を和らげた。 


「そんなの、見ていればわかります」


 優しく言って、何かを思い出すように視線を斜め上に向ける。それから、ふふっと肩を揺らして笑った。


「旦那様の、リゼル様を見る目の甘さったら! 糖蜜で煮詰めた蜜飴より甘いですよ。あんな顔をしておいて、今更元に戻れるものですか!」


 ネイの弾けるような笑い声を聞いていると、リゼルのこわばった体からゆるゆると力が抜けていく。彼女の発言の真偽はともかくとして。


 ネイの言う通り、今のリゼルとグレンの間で重ねた時間がいつかの未来を変えるなら、それは命に代えた魔法でも叶えられない奇跡だった。


 ……とはいえ。


(旦那様、そんなお顔をしていたかしら……?)


 全く身に覚えがない。というより、リゼルは自分以外と接するグレンを見る機会がないので、誰に対してもあんな感じなのかと思っていた。


 リゼルの顔色が良くなったのを察したか、ネイがスカートの裾をさっと払って立ち上がる。そうして腰に手を当て、ビシリと指を突き出し宣言した。


「だから今、リゼル様がすべきことは、とびっきりお洒落をして、旦那様を籠絡することです!」


「ろ、籠絡?」


「そうです! リゼル様はお美しいのですから、ちょっと化粧をすればどんな殿方だって落とせますよ。こうなっては、私一人では手が足りないですね」


 ネイは慌ただしく部屋の入口へ向かう。勢いよく扉を開けたかと思うと、廊下に向かって声を張り上げた。


「リゼル様を着飾りたい人、集合! 集合ーっ!」


 何事かと目を剥いていると、その呼び声でわらわらと侍女達が集まりだす。口々に「やっとこの機会が!?」「せっかく伯爵家に務めているのに奥様を着飾れなくて残念だったのよね」「奥様の銀髪に絶対この髪飾りが合うのよ」などと好き勝手言いながら部屋に入ってきた。好奇心に目を輝かせてリゼルを見つめるその人数、老いも若きも合わせてゆうに十を超える。


「えっ、何が……?」


「みんな、リゼル様と関わりたくて仕方がないんですよ」


 最後に戻ってきたネイが、ぱちんと片目を瞑る。何を、と思っているうちに、侍女達がきゃいきゃいとリゼルを囲んだ。


「奥様にもらった魔法薬、本当に効き目がありました!」「いつも庭の手入れを手伝ってくださってありがとうございます」「洗濯場に魔法をかけてくださったおかげで、ずっと仕事が楽になりました」


 リゼルは当惑とともに唇を震わせる。どれも以前、リゼルがしたことだった。少しでも役に立ちたくて、屋敷に魔法をかけて回った。でも誰からも無反応で、特に感謝なんてされていないと思っていたのに。


 侍女達の手によってもみくちゃにされながら、リゼルはもしかすると、と思い直した。


 自分は知らないものを見たいと言いながら、足元を照らしてくれる光の欠片を見落としていたのかもしれない、と。

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