アンティークス

紫しき

第零話 - 切断された首吊りロープ

 パリン──と、ガラスか何かが割れる音。

 次いで、さらさらと、砂がこぼれ落ちるような音を聴いた。


(……?)


 少年は瞼を開ける。


 そうして、目覚めて初めて目にした器物モノは、その部屋には似つかわしくないほど巨大な砂時計だった。


 巨大──まるで漫画やアニメに出てくる巨人用とでも言わんばかりに、その寸法サイズは一般的なものを遥かに超えている。


(砂時計を下から見上げたのは初めてだ……)と、少年はそれを不思議そうに見つめた。


 カフェで叔母が使用していた小物サイズとの対比で、一瞬、自分の体がとんでもなく小さくなったのではと錯覚する。


 しかしながら、この部屋において圧倒的な存在感を放つ〝巨大砂時計〟は崩壊していた。木製の台座と天板、支柱は朽ちており、ガラスが割れ、中身の砂が周りの床に飛散している。


 それだけではなく、なにやら白い〝霧〟のようなものが辺りに立ち込めている。


(有り得ないほど大きな砂時計と、この霧……そうか、これが夏凛の言っていた《九十九つくも術》ってやつか……?)


 どうやら少年には、この不可解な現象の心当たりがあるようだった。


(あぁ、僕は助かったのか……いや、何から助かったんだ……?)


 と、同時に、この砂時計にことを、少年は直感的に理解する。……理解はしたものの、自らの命を脅かした〝何か〟を、どうしても思い出せなかった。


『……ぃ』


 不意に、どこからか〝声〟が聞こえた。よく聞き取れないほどに弱く、か細い声だった。


『……た、……ぃ』


 ……ようやく、ぼやけていた視界が鮮明になってきた。カメラの焦点ピントを合わせるように、目だけを動かして周りのものに意識を向ける。


(そもそも、ここは……そうか)


 この部屋が、『自室』になる予定の場所であることを、少年は認識する。

 開封済みの段ボールがいくつも置かれているのを見て、意識を失う直前まで、ここで荷解きをしていたのを思い出した。


『し……に、た……』


 そのまま部屋の入り口へと目を向ける。開け放たれたままの扉の近く、床の上に、割れた皿の破片と潰れた焼き菓子が散らばっている。


(ああ、美味しそうなのに……もったいない)


「……れいいち、くん……? 零市れいいちくん……っ!」


 不意に声が聴こえた。安堵したような女性の。

 と同時に、ぎゅっ、と頭を抱きすくめられる感触があった。ここで、零市れいいちは初めて、自分が床に倒れ伏しており、誰かに膝枕されている状態であることを認識した。


「意識が戻ったのね……よかった」


 ぽたり、と頬の上に雫が落ちる。

 見上げると、女性が涙を流していた。


 その顔には見覚えがあった。彼女は零市の叔母、つまり彼の母親の妹にあたる三雲月乃みつくもゆえのだった。


(あぁ、月乃ゆえのさ──、……?)


 何か、天井の辺りに違和感がある。

 見ると、常夜灯から伸びた紐にロープが結び付けられていた。


(まるで、首を吊って自●──いや、ダメだ)


 と、少年は物騒な連想をすぐに遮断する。


(あ、でも……)そのロープは途中で切断されていて、首を括るための穴は空いていないようだった。不思議と大きな安堵を感じて、ほっ、とため息をつく。


『しに……た……ぃ』


 ──その時、鮮やかな赤の何かが、ぴくっ、と小さく動くのを視界の下端に捉えた。


(えっ──何)


 視線を移すと、それは他でもない自分の指だった。指先から手首にかけて、赤色せきしょくのグラデーションに彩られている。

 その手は鮮血に染まっていた。


 次いで、喉元に感じる違和感。重い腕を動かし、赤い指先で首に触れてみる。ざらついた、でこぼことした感触がある。


 それこそ──のような。


『しにたくない……』


 ……そういえば、

 

 さっきから聞こえてくる、

 この声は一体、誰が喋っているんだろう?


 ふと疑問に感じて、耳を澄ます。


「死にたくない……」


(……えっ?)


 ──ここでようやく、その言葉が、

 他ならぬ自分の声帯から吐き出されている事実ことを理解した。


「死にたく、ない……死にたくない」


 止められない。

 訳もわからないまま、死への恐怖が止めどなく口をついて出てしまう。


「死にたくない、死にたくない、死にたくない……」


 段々と、意識がはっきりしてくる。

 それに伴って、思い出しつつあった。


 うわ言のように「死にたくない」を繰り返してしまう。その理由。


(あ、ぁ、嫌だ……)


 その理由を、あの異常事態を思い出してしまう前に、思考回路は待ったを掛ける。


 体の震えが止まらない。依然として強まり続けるは寒気と吐き気を誘発する。


(嫌だ。いやだ、思い出したくない)


 しかし無情にも、記憶の扉は強引にじ開けられていく。想起を食い止めることなどできる筈もない。

 それは少年にとって否が応でも脳裏にこびりつく、あまりにもショッキングな悪夢だったがゆえに。


「死にたく、ない──」

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アンティークス 紫しき @shiki_murasaki

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