小説の書かれる時(後編)
森本 晃次
第1話 プロローグ
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年8月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。疑わしいことも含んでいますが、それをウソか本当かというのを考えるのは、読者の自由となります。
今では、工芸作家として、生業を立てている足柄霊光であったが、昔は小説を書いていた。
小説は書くのを辞めたわけではなく、執筆することは行っていたが、
「プロになろう」
であったり、
「本を出したい」
という夢は持っているが、あくまでも夢でしかない。
それまであった、
「自費出版社系の詐欺」
という話を聞くと、本を出すことをしようということでの詐欺に遭わなくてよかったとしか思えなくなっていたのだ。
詐欺というものが、いかなるものなのかというのは、事件からかなり時間が経っているということで、自分もまだ、そんなに大きくなかったののと、そこまで執筆に興味がなかったので、必要以上に考えないようにするつもりだったのだ。
そんな詐欺の話を聞いた足柄は、自分でも、いろいろネットで調べてみることにした。
「自費出版社系」
あるいは、
「詐欺」
などで調べると、結構出てくる。
実際に数社が訴えられていて、かなり、最後は悲惨だったということも書かれていた。
「これはひどいな」
と思いながら見てみると、
「本当に何がひどいといって、内容から、いろいろなことが想像できる自分が怖かったのだ」
というのも、問題であった、
「自転車操業」
というもの、
まずは、前編で、
「宣伝広告費」
「人件費」
について話をした。
もちろん、この二つが嵩むということが当たり前で、そのための、
「自転車操業」
なのだが、実際にはそれだけではない。
というよりも、どのの出版社の当然のごとくの実費として、
「印刷会社に製本を依頼する」
ということがあるだろう。
それともう一つ問題なのは、
「前編で言っていた詐欺会社」
の営業の話として、
「本屋で、本を宣伝し、置いてもらう時に、お金が必要なのかどうか?」
ということであった。
もちろん、一般的には、そんなものはないだろう。
定価の中に、利益分が含まれているのだから、その利益分が、本屋の利益分も含んでいるはずなのだから、
「表向き」
ということでは、そんな金が存在したとすれば、それこそ、
「本を出したい人にだけではなく、出版社に対しての、バックマージンのようなものがあるということになるわけだ」
もちろん、それが、本題に含まれているわけがない。そんなものが含まれているとすれば、
「これこそ、闇業界ということになってしまう」
というものだ。
だったら、あからさまな収賄おようなものが存在することになるが、もし、本屋が、
「無名の作家の本でも、少しの間だけ陳列する」
ということであるとすれば、
「闇の取引」
というものが存在し、
「無名の作者の本を、一時期お金を払う形で、陳列場所を買う」
という感覚だったのだとすれば、
「本屋に置いてもらうためのお金」
というのも、分からなくもない。
しかも、それは、無名の作家の本を陳列させてもらうということでお金が掛かるということは、
「商取引上」
法律に触れるか触れないかということは、
「微妙だ」
といってもいいだろう。
一般常識で考えると、そんなお金は存在するわけもなく、
「すべてのお金は、定価に含まれている」
と思っていたのが、その人の勘違いで、他の人であれば、出版社から、
「本屋に置くためのお金」
と言われて納得したのかも知れない。
そういう意味では。
「この業界の常識は、ほかの業界の非常識」
ということになるのであろう。
「自分の固定観念に凝り固まって、勝手な解釈をしてしまったのではないか?」
と今なら思うのだ。
それだけ、
「自費出版社系」
の会社というのが、当時としても、特殊だったということなのかも知れない。
そんなことは、正直、
「本を出したい」
という人に分かるはずもない。
というのが、以前から、本を出したいということで、例えば子供の頃から勉強している人であれば、
「本を出すには、どうすればいいのか?」
というところまで調べることもあるだろう。
しかし、しょせんは、
「バブル崩壊」
ということによって、
「何か趣味があれば」
ということで、しかも、お金のかからない趣味ということで探していると見つかったのが、
「小説を書く」
ということだっただろう。
当然、お金が掛からないのだから、やりたい人がたくさん出てくるのも当たり前というもので、中には、昔から本を出すことを目指していて、
「後少し頑張れば、プロも夢ではない」
という人もいれば、
「文章作法など、小学生からやりなおせ」
と言いたくなるような、
「執筆などというのは、おこがましい」
というほどの、程度の低い輩も混じっているのだ。
だから、いわゆる、
「猫も杓子も」
ということであり、
「俄か」
と呼ばれる連中がほとんどになってくると、こういう詐欺が横行してくるというのも、無理もないだろう。
ただ、先ほどの、
「本を店に置いてもらう」
ということのために、いわゆる、
「袖の下」
というようなものが存在しているとするならば、それを筆者に払わせるのは、
「協力出版」
ということであれば、理屈からすれば、当たり前といってもいいかも知れない。
それを考えると、彼らのような商法を、一概に、
「詐欺だ」
といって、糾弾できるのか? ということになる。
ただ、詐欺には違いないのだろうが、それであれば、
「本屋側も糾弾されなければいけないのではないだろうか?」
それがないということは、やはり、
「出版社側の詐欺だった」
と考えるのが当然のことで、出版社側が、それを証明できなかったのは、それだけ本屋が強かったのかも知れないということで、バックに何かの組織が暗躍していたともいえるかも知れない。
ただ、今はその本屋というのも、
「ネット書籍なるもの」
が出てきてから、本が売れなくなったことで、相当な数の店が姿を消している。
それでも、本を出したいという人が多かったということで、時代は、
「ネット書籍」
というものに移ってきて、素人の小説家は、
「無料投稿サイト」
というもので、作品を発表し、人気が出ると、書籍化したり、有料販売に切り替えたりすることもあるだろう。
電子書籍というのは、何といっても、
「印刷物ではない」
ということで、圧倒的に原価が安い。それを考えると、ネット書籍に時代が移行していくのも当たり前のことなのかも知れない。
「自費出版社系の会社の費用」
として、
「最初から考えていたのだろうか?」
と考えられることとして、一つ考えられるのは、
「在庫のための、倉庫代」
というか、
「必要倉庫の家賃と言えばいいだろうか?」
何を在庫などがあるのかというと、
普通に考えて、一冊の本を出すとして考えた場合、数十冊などというのであれば、それこそ、抜からある、
「知人友人に自費で出版した」
いわゆる、
「人生の記念となるであろう本」
というくらいであれば、普通にあるだろう。
しかし、実際に本を作って、売るともなると、定価が1000円くらいの本だと、出版社からは、1000部というくらいのことを言ってくるのだ。
これは、あくまでも、一般的な出版の話で、プロで売れている作家が出す場合の判断なのかも知れない。
しかし、彼らが出す本というと、
「本を出して、協力出版といっても、出した本の費用は、ほとんど、いや、全部作家に出させよう」
という、
「詐欺商法」
であれば、いくらかかろうとも関係がない。
逆に、たくさん吹っ掛ける方が、その分たくさんの利益を生むということになるだろう。
しかし、その1000部を作ったとして、万が一、本屋にお金を払って、置いてもらえたとして、ほぼ間違いなく、そのすべては、
「返品となる:
ことだろう。
というのも、毎月一体どれだけの本が出るというのか、
プロ作家でベストセラー作家だって、本を出すわけなので、それらの作家5人が一冊出すとしても、平積みで、数列占拠されるわけだ。さらに、他のベストセラーとなっていて、売れている本もあるわけなので、毎日のように、自費出版社の本を売り込みに行ったとしても、おくところがあるわけではない。
それを考えると、
「作ったら、作っただけ、在庫となるのだ。
1000冊がどれほどのものかと考えると、引っ越し用の段ボールでいくつくらいになるのだろう?」
たとえば、一箱、50冊が入ったとしても、一人の作家で、20箱ではないか。
物流倉庫の、パレット一つ分くらいはあり、重量ラックの1スペース分は占領することになる。
となると、一つの重量ラックのところに。10ほど収めることができるとして、100人の作家の本を在庫として持つと、重量棚が10個必要になる。
1か月で10人くらいが本を出すとすれば、1年で、少々大きな倉庫であっても、重量ラックのほとんどを占拠することになるだろう。
それでも、まだ、売れる商品で、次から次に入出荷が繰り返されるなら分かるが、永遠に出荷されることもなく、どんどん増えていくだけだということになれば、営業倉庫というものが、
「いくらあっても、足りない」
ということになるだろう。
それを思うと、
「在庫というのも、そのスペースを保つだけでも、相当なものである」
ということになる。
何といっても、売れないとハッキリわかっているものが在庫になるわけだ。
なぜかというと、出版社の営業がいったというではないか。
「売れると出版社が見込む本は、芸能人か、犯罪者しかいない」
ということをである。(前編参照)
それだけでも、
「詐欺なんだ」
ということは、容易に分かるというものだ。
それにしても、
「詐欺なのか、そうではないのか?」
ということを考えれば、日本でいえば、ある意味、無罪の可能性もあるかも知れない。
つまり、
「完全に、犯罪行為だ」
ということでもない限り、日本においては、
「疑わしきは罰せず」
ということなので、
「グレーゾーンは、あくまでも、白になってしまう」
ということであろう。
確かに、疑わしきものをクロとしてしまうと、
「冤罪を生んでしまう」
ということになるではないか。
特に、昔の大日本帝国の時代であれば、何があったのかを思い出せば、おのずと分かるというものである。
いわゆる、
「治安維持法」
というものがあった、
名前は、そんなに悪くは聞こえないが、要するに、反政府組織を撲滅するというもので、例えば、共産主義であったり、天皇を批判したりすると、
「不敬罪」
ということで、罰せられたりするのだ。
何と言っても、当時は、
「大日本帝国」
であり、国家元首は、天皇だった。
「有事であれば、国民は、臣民ということで、一部、自由を拘束されたりする」
ということであった。
何んと言っても、当時の日本は、
「軍国主義」
であり、有事というのは当たり前で、宣戦布告の詔を天皇が発する時、最初の条文は、ほとんど同じで、
「国民は、正装勝利に向けて、粉骨砕身の努力を惜しまない」
ということが示されている。
君主としての、国家元首である天皇が発した言葉なのだから、
「国民が守るのは当たり前」
ということであった。
だからこそ、戦時において、
「戦争反対」
であったり、戦争に義がないなどということを言えば、
「非国民」
ということを言われ、国民は、天皇に忠実に尽くす必要があるということだ。
何といっても、戦争をしているのだから、心が一つになっていないと、士気が下がるというもので、相手は必至に攻めてくるのに、攻められる方が、のほほんとしていては、すぐに占領され、
「占領されると、占領軍から、略奪、強盗、強姦などのありとあらゆる虐待に遭う」
というのは、当たり前のことだった。
虐殺されることもあり、何といっても、自分たちを守るための、
「国軍」
のはずなのに、退却する時、
「攻めてくる相手国に物資などを略奪される可能性がある」
ということで、何と、味方の軍隊なのに、守ってくれないどころか、
「相手に、みすみす物資を奪われるくらいなら」
ということで、村に火を放つなどということが平気で行われ、また、自分たちの物資補給のために、自分たちが、味方のはずの一般市民から、物資を強奪したりなどということは、こちらも、当たり前に行われていたのだ。
それが、
「戦争」
というものであり、今に始まったことでもないのだった。
だから、
「戦争というのは、よくない」
ということになる。
しかし、一旦戦争になってしまうと、そうもいかないということであろう。
それは、あくまでも、
「過去に学ぶ」
ということをしないと学習できないということになるだろう。
しかし、基本的に、日本の場合は、今までもそうであったが、
「相手国の首都に攻めこみ、それを占領する」
というような、戦争はうまく行っていない。しいていえば、満州事変のような、クーデターや事件を起こし、そこから、計画している通りに占領するということでもなければあ、うまく行くものでもなかった。
中国とは、全面戦争に引きずりこまれたが、それでも、当時の中国には、多国籍な居留民も結構いたので、変に刺激することもできなかった。
「感情に任せた」
というような事件が、それぞれの側であったが、戦争の過程においては、無理もないことだったのかも知れない。
前述のような、逃げる時に、相手に物資を取られないようにするということで、味方のはずが、
「守ってくれるどころか、火をつけていくなど、それこそ、本末転倒ではないだろうか?」
ということになるのだった。
結局、日本は、そのまま、中国との全面戦争から、本格的に世界から孤立し、独自の資源を領土内に求めることができなくなったことで、諸外国からの、経済制裁などにおいて、
「南方の資源違いの占領に活路を見出すか」
あるいは、昔の、つまり、
「明治維新の状態にまで、戻るということをしないといけないか?」
ということになるのであった。
日本軍としては、
「せっかく、今までの歴史で、日本の発展、あるいは、今の領土確保のために、かつての戦争で死んでいった人たちのためにも、相手が要求する状態に戻すわけにはいかない」
ということであった。
それが、連合国における、
「経済制裁」
を辞める条件だったのだ。
それを呑めば、確かに、窮地は脱するかも知れないが、いろいろなところで大きな問題となる。
特に、軍部にしろ、国民感情が、
「中国における、中国側の挑発行為であったり、その際の日本人に対しての、虐殺行為を含む、反日運動には怒りを覚えていたので、その感情を無視することはできない」
ということであった。
さらに大きな問題として、満州という問題である。
そもそも、満州事変を引き起こした理由の一つとして、
「日本における不作」
と、時代の中での、
「世界恐慌」
などということから、食糧問題に発展してきたことから、
「満州の土地を手に入れて、そこに日本人居留民を送りこみ、自給自足の生活をすることで、日本における食糧問題の解決を図った」
ということである。
それを放棄して、満州や朝鮮を失えば、再度の食糧問題の勃発と、それによって、軍内部の士気の低下、さらには、暴動、内乱などがぼっ発しかねない。
そうなってしまうと、日本国においては、どうすることもできす、抑えが利かなくなり、「大日本帝国、存亡の危機」
ということになるだろう。
それを考えると、
「時代の逆行」
というのが、無理であることは一目瞭然である。
もちろん、
「時代は繰り返す」
というが、あまり無理を押し通し、強引なことを示してしまうと、歴史が許容できなくなり、それこそ、どの時代になるかは分からないが、時代自体が、逆行してしまい、本当に、
「明治維新の時代」
というところまで戻ってしまいかねないだろう。
それが、戦争を引き起こすことになり、
「無謀な戦争」
というものに、日本が突入していった」
ということで、歴史は語り継がれていくことになるのだろう。
そんな時代に戻ってしまうわけにもいかない。
軍部の必死の南方進出説、政府や天皇の間では、
「本当に戦争をしても大丈夫なのか?」
という危惧があったのだろうが、軍部としても、
「相手が、どのような国であるか、十分に分かっているはずだ」
特に海軍の、連合艦隊司令長官であり、アメリカ通で知られる、
「山本五十六」
に話を聞くと、
「やれと言われれば、半年や一年くらいは、暴れて見せますが、それ以降となると、まったく予想がつきません」
というではないか。
予想がつかないということは、
「勝ち続けるということは、不可能だ」
ということを示しているのであった。
だから、その間に、南方資源を確保し、エネルギーや物資の問題を解決しておかなければいけない。
ということが、大前提になるのであった。
ただ、それを行うということは、宣戦布告に等しい。だから、軍は、戦争前に、相当な訓練と、しょせんでの大勝利に掛けたというのは間違いないことであろう。
実際に、その作戦は成功した、
アメリカに対しては、海軍による。
「ハワイ、真珠湾攻撃」
という奇襲が成功した。
「空母や、燃料庫には、手を付けられていない」
という、後々の致命的なミスもあったが、奇襲作戦は成功し、戦術的には、大成功だった。
ただ、問題は、
「その攻撃が、日本側の宣戦布告前だった」
ということで、アメリカ国民を戦争に駆り出す」
ということになったのだ。
これにはアメリカ側に二つの目的があった。
そもそも、これは、
「相手に。仕組まれたことだ」
という謂れがあるが、どこまでが本当か分からない。
確かに間違いないことなのだろうが、アメリカというものが、当時の状況を考えれば、おのずと分かってくるものでもあった。
「対日本」
ということであれば、日本側がいう、
「奇襲攻撃」
が、宣戦布告が遅れたことで、アメリカ側からすれば、
「騙し討ち」
ということになり、
「日本は汚い」
「日本憎し」
という感情が芽生えてきて、戦意は、沸騰してくることだろう。
そして、もう一つの目的、こちらの方が本当の目的のようなのだが、
「当時のアメリカというのは、イギリス政府から、戦争に参加してほしい」
ということを言われていたのだった。
しかし、アメリカというところは、大統領に権限はあろうとも、議会の承認がないと、戦争を行うことはできないのだ。
特に、当時のアメリカは、
「ヨーロッパの戦争には、なるべく関与しない」
ということでの、
「モンロー宣言」
という考え方が、根底にあったのだ。
「何もアメリカ本土が攻撃されたわけでもないのに、何も無理して、ヨーロッパの戦争に関与する必要はない」
ということであった、
これは、世論が許さないことであって、それを、日本が、
「攻撃してきた」
しかも、
「それが、騙し討ちによるもので、アメリカの一部である、ハワイが攻撃され、太平洋艦隊がほぼ全滅」
ということになれば、士気を高めるためには、十分であった。
よって、アメリカは日本に宣戦布告をするわけで、これは同時に、
「同盟国」
である、ドイツに対しての宣戦布告でもあったのだ。
だから、
「アメリカとしては、最初の戦術というところでは、敗北だったかも知れないが、戦略、つまり、アメリカが、日独伊の参加国に宣戦を布告するということに関しては、成功した」
といえるのであった。
日本とすれば、
「まんまとアメリカに引きずり込まれた」
ということであったが、ここまでは、日本としても、計算通り、
「なんといっても、相手国の首都、ワシントンやロンドンを占領などできるわけはないので、当初の計画通り、半年、一年で暴れまくり、連戦連勝のまま、講和に持ち込む」
という足掛かりはできたのだった。
ただ、前述のように、
「連戦連勝によって、アメリカ国民の戦争に対する意気消沈を招く」
ということはアメリカによる、宣戦布告を、戦闘の後にあたかも出てきたような工作をされたことで、
「意気消沈どころか、日本憎しという感情を、これでもかとばかりに植え付けてしまった」
ということだったのだ。
それでも、日本は連戦連勝で、戦争終わればよかったのに、それができない状況であった。
その一つが、
「勝ちすぎた」
ということである。
当初、日本が、明治維新に戻るのは、
「過去の英霊に申し訳が立たない」
ということを考えたということであったが、この時にも、同じ感情が浮かんできたのであった。
「もし、連戦連勝の状況で、講和条約を結ぶなど、国民に対して、どう説明できるか?」
ということになるのだ。
繊維は高揚していて、
「イケイケどんどん」
というところで、何を戦争を辞めなければいけないというのか、それを国民に説明できるすべがあるのだろうか。
そもそも、戦争を始めた時、
「経済制裁をしてきた、米英憎し」
ということであったはずだし、何よりも、中国に対しては、
「報復」
という側面も大きかった。
それを考えると、
「日本という国は、その時々でできた状況は、必ず、両極端な側面を持っている」
ということであろう。
ただ、それは日本に限ったことではないだろう。
アメリカにしても、イギリスにしても、中国にしても、
「戦争を行う」
ということは、リスクを伴うということに変わりはないのだ。
だからこそ、
「戦争というのは、理不尽であり、何が起こるか分からない」
ということになるのだろう。
なにしろ、
「いつ、死ぬか分からない」
という、極限状態ということになっていることもあり、だからこそ、
「略奪、強姦、暴行」
などという残虐行為が、戦闘のあったところで繰り返されるというのは、
「兵士の極限状態」
からであろう。
退却して行く中で、進軍してくる相手に物資を使わせないようにするために、
「村を焼く」
という行為は、それだけを見ると、
「なんて、ひどい」
と思うのだろうが、相手が黙って通り過ぎるということがないと分かっていれば、みすみす相手にくれてやることを思えば、
「そういう理不尽とも見える行為もしょうがないことなのかも知れない」
と思うのだ。
「何しろ、戦争というのは、人を狂わせたり、人を殺すという感情をマヒさせるだけの力がある」
ということなので、そんな精神状態が、トランス状態になってしまっているとすれば、それを制御するには、
「力でねじ伏せる」
という方法しかないのかも知れない。
それが、戦争であり、
「昔から、人類の歴史として、ずっと繰り返されてきたということではないのだろうか・」
ということであった。
近世から、現代に掛けて、第一次世界大戦あたりから、第二次大戦というものが終わるまでの間、
「世界は地獄を見た」
といってもいいだろう。
しかし、
「時代は繰り返される」
というが、まさにその通りであり、第二次大戦が終了した時点で、新たな火種は起こっていたのだ。
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