日本語の音声
森下 巻々
第1話 コメントを受けて
先日、「短歌・俳句とピッチアクセント」という文書を投稿しました。
そこで僕は、《日本語が「ピッチアクセント」であるがために、短歌や俳句には、背景にメロディーが付き纏っているのではないだろうか。》と書きました。それとも、そんなことは常識で《僕が知らないだけなのだろうか。》とも書きました。
近況ノートのほうでもこのことに触れると、コメントをくださった方がいらっしゃいました。或る論文の情報です。
それは、渡辺知明さんの「《論文》日本語のリズムと強弱アクセント―表現よみ理論ノート・その4(PDF)(『日本のコトバ24号』2005/12日本コトバの会」)」で、僕も読みました。
一般的には「高低アクセント」、つまりピッチアクセントであると日本語はされているが、それだけではないと疑問を投げかける内容でした。俳句のことも、例として出てきていました。
これを読んで、確かに僕も「日本語はピッチアクセント」という通説を鵜呑みにし過ぎていたきらいがあったとは感じました。大いに刺戟になりました。
しかしながら、いま思いを巡らしていて、更にこう思ってきてしまいました。日本語を分析するという場合には、○○アクセントというのにあまりとらわれると間違わないだろうかと。
これは、Wikipediaの「アクセント」の項にもありますが、一般的には「強弱アクセント(強勢アクセント)」「高低アクセント」「長短アクセント」という種類で語られるようです。
しかし、日本語の場合、「あけましておめでとうございます」をどのように音読しても意味が伝わるように思えてきてしまいました。
関西訛りとか東北訛りとかを想起していただくといいのですが、日本語って、結局伝わる気がするのです。
例えば「あけまして」が伝わるためには、「あ」と「け」と「ま」と「し」と「て」に聞こえればいい訳です(勿論、シチュエーション、文脈も関係しますが……)。
結局、大事なのは、アクセントよりも、「あ」が「「あ」であるための核」になるような聴覚上の対象があるかどうかではないでしょうか。
○○アクセントというのは、それぞれの小さい社会で成り立っているものなのではないかと思えてきました。現在は、テレビ等があるので日本語共通の○○アクセントがあるように思えてしまうだけの気がしてきてしまいました。
そして、短歌・俳句を話題にすれば、こんなに短いのに詩として成立しているのではなく、短い型にすることによって詩としての魅力を増幅させていると見るべきかも知れないと思えてきています。
あまりに自由過ぎる日本語だから、短い型に嵌め込むことによって詩として成立させることができているという感じ。型に嵌めると、そこで初めてピッチアクセントの面が前景にでてくるのではないかと……。
ここまでは、今日二二時頃までに思いついただけのことで、本当にメモに過ぎません。引き続き、考えてみたいと思っています。
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