恋に一途な令嬢の心が凍る経緯とその後日

まるめぐ

第1話

「名医様いえ神医様! どうかどうかこの子をお助け下さい!」


 とある医院で、一人の父親の悲痛な声が上がった。


 彼は妻と共に夜更けに馬車を疾走させてこの医院まで乗り付け、医院の迷惑も顧みずにドンドンと木戸を激しく叩いたのだ。

 古びた木戸は外れそうな軋みさえ上げていた。

 郊外にポツリと建つ年季の入った建物なので幸い近所迷惑はなかったが、ようやく中の者が木戸を開けると、夫婦は中に踏み込む様子もなくその場に膝を突く。

 戸を開けたのは青年とも中年ともつかない実に年齢不詳の男で、彼はギョッとした顔をしたが、御者も雇わず自らで馬車を繰ってきたのだろう夫と、その妻の腕に抱かれる血の気の引いた幼子の姿を見て表情を険しくするや急ぎ中へと促した。

 そして先の台詞に至るのだ。


「この子は生まれつき心臓が悪く、何度も発作を繰り返してきました。街の医者からはまた発作が起きれば今度こそ命はないと言われておりました。どうする術もなく、しかしただ座して待つだけなどできず、以前より耳にしておりました神医様の元を目指しておりましたが、途中でとうとう発作を……っ」


 だからひたすら残り僅かの道中を休憩も取らずに馬車を走らせてきたのだ。父親は涙ながらに夜分の非礼を詫びた。


 診察室まで案内した彼らを前に、神医と呼ばれた男は苦笑を浮かべる。


「確かに私は何人もの患者を治してきたがね、神医などと称賛されるようなタマではないよ。自分に出来る事しかしてこなかった」


 それは懺悔のようでいて、目を赤くする夫婦は顔を見合わせて戸惑ったが我に返ると再びの懇願を始める。


「それでもお願いしますっ、この子をお救い下さい!」

「わたくしからもお願いします!」


 妻と交代し虫の息の我が子を抱えた父親は、きっといつもはきっちりしているのだろう頭髪を乱したまま神の医者と囁かれる男の前にまた跪いた。


「この子が助かるなら何でも致します。全財産と引き換えでも構いません。ですからどうかお救い下さい!」


 お願いしますと妻の方も国王にでもするように平身低頭する。

 医者の男は困ったように眉尻を下げたが、やがて一つの溜息を吐き落とした。


「その子が助かるのなら、本当に何でもすると?」

「は、はい! 二言はございません!」


 父親が大きく頷き子供を抱き締める。


「では、今夜起きる事は決して他言せぬと誓ってくれ。それがどんな事でもだ。その上でその子は私が責任を持って助けよう。さすればその子は天寿を全うできるだろう。……話を続けるかい?」


 頷き話を耳にした両親はとても驚いた顔をした。


 そして、薄らとどこか恐れるような表情も。


「こ、こちらに異論はございませんが、あなた様はその……それで本当に宜しいのですか?」


 父親の言葉に医者はふと弱く笑った。


「ああ、いいんだ」


 その声音の中に夫婦は「もう」という諦観のニュアンスを読み取った。

 それは生きるのに疲れ果てた者の言葉のようにも聞こえた。


 藁にもすがる思いで彼の下を訪れた夫婦は、この夜大きな秘密を抱える事となる。


 そして、一滴の血が彼らの子供を救った。


 以後、忽然と姿を消した神医の足取りは誰も知らない。





 この世界には人の血を食らう吸血鬼という化け物がいて、その化け物を退治する吸血鬼ハンターがいる。


 子爵令嬢ミリア・フォースターも、物心付いた時からそれは知っている。


 しかしごく普通に生きていて吸血鬼に遭遇するのは稀だった。


 だからミリアも世の大半の人類と同じく吸血鬼を目にする機会はないのだと、幼い頃は当然のように思っていた。

 しかし、人類の一握りは確実に吸血鬼に遭遇するのだ。

 そしてある時彼女は望まずも、とうとうその不運な人類の仲間入りを果たしてしまった。


 ただ、彼女は自分では不運だとは微塵も思ってはいない。


 彼女にとってその遭遇がまさに運命の相手との出会いだったからだろう。


 奇跡、或いは一生に一度の僥倖ぎょうこう

 彼女は確かにある時まで、本気でそう思っていた。


 始まりは、七歳。


 深夜、王都のフォースター家の小さなタウンハウスに、餌を求めた吸血鬼が一体侵入してきたのだ。

 当時王都の貴族街に吸血鬼が出現するなど滅多になく、フォースター家には吸血鬼に有効な銀の弾丸や銀の短剣、胸に打ち込むような杭などの武器はなかった。

 辛うじてにんにくや十字架があったが、にんにくは吸血鬼によっては効果はないし、十字架に至ってはそもそも吸血鬼を滅せるという聖なる能力――高位の聖職者や吸血鬼ハンターの力が込められていない代物では役に立たない。


 故に、屋敷の人間は無力と言ってよかった。


 まるで狼に追い込まれる羊のように、気付けば屋敷の皆が広い玄関ロビーに集められ、皆で一つの団子のように固まって震えていた。


「まだ渋みのなさそうなお前からがいい」


 両目を爛々として禍々しい赤に光らせる男吸血鬼は醜悪な面相で鋭い牙から涎を滴らせ、小さなミリアを最初の生き餌に指名した。

 彼女の両親は誰よりも先に我が子を護ろうと勇敢にも飛び掛かったが、吸血鬼の人ならざる膂力りょりょくで壁まで投げ飛ばされて気絶した。

 目の当たりにした人外の威力に使用人たちは震え上がって動けない。中には失禁者もいた。


「お父さま、お母さま……ッ」


 頭から血を流してぐったりとする両親を恐怖と絶望に染まった双眸に映し、ミリアも周囲同様がたがたと震えたものだ。吸血鬼の尖った爪先ですら酷く恐ろしかった。


 ただ不思議と、涙は出なかった。


 恐怖の余り涙腺も凍り付いているのだろう。

 誰にもどうにもできないまま吸血鬼から細腕を掴まれその腕一本でぶら下げられた。

 全体重の負荷の掛かる肩の痛みに顔をしかめ抵抗してじたばたと手足を動かしたが、獰猛な赤眼から覗き込まれた時は頭が真っ白になる。


 心の底から恐ろしい。


 けれど、誰にも助けを求められない。求めてはいけない。関わらせては両親のように酷い目に遭ってしまう。

 幼いながらも、皆が自分と同じような無力な餌であり、他者を自分より先に犠牲にしてはならないと理解していた。

 自分は曲がりなりにも貴族であり、こんな時は一家に誠心誠意仕えてくれる使用人達を護る義務があるのだ。

 だから、助けてと騒いだりはしなかった。

 それ以前に硬直していた咽からは悲鳴すら出て来なかったに違いない。

 ヒャヒャヒャ、と異形は下卑た笑みを浮かべてミリアの頬へと舌を這わせた。

 ひっと短い悲鳴を上げ、気持ちの悪さに全身をより一層硬直させる。


「さてと、どんな味がするんだろうなあ~?」


 すぐ近くからのいやらしい声に耳朶が汚されるようで産毛が逆立った。

 お嬢様、と皆が口々に悲嘆と悲鳴を上げる。

 蛇がシャーと威嚇するのにも似た音が聞こえる。吸血鬼が大きく口を開けて息を吸った音だ。噛まれればどれほど痛いだろう。


「さあディナータイムだ!」


 やめて、と声なき声で願ってぎゅっとより強く目を瞑った。

 凶悪な牙が彼女の細首に突き立てられようかという刹那、ガラス窓が割れ、ほぼ同時に吸血鬼が耳を劈くような悲鳴を上げて一瞬で灰になった。

 玄関ホールは時が止まったようにしんとなる。

 全く誰も予期せぬ結末だった。

 腰の抜けていたミリアはぺたんとそこに座り込み瞬きも忘れて灰を見つめたが、灰の上には男が着ていた服と銀の弾丸がころりと転がっただけだ。

 何が起きたのかわからなかった。

 ミリアが呆然としていると両開きの玄関扉が勢いよく開かれて、大丈夫か平気かと口々に叫ぶ複数の者達が雪崩れ込んでくる。彼らは放心している使用人や負傷者の元に駆け寄って介抱を始めた。

 割れたガラス窓は玄関扉側に位置しているが、ミリアの居た位置からはやや距離がある。

 もしも外から銀の弾丸を撃ち込んだとするならば、余程の腕の持ち主だ。すっかりガラスが落ちて直接夜気の入るそんな窓枠の向こうには、撃ち手はおらず今はもう闇が広がるだけだ。


 まだ助かったのだという実感が湧かず、ただ呆然と介抱の光景を見やっていたミリアの視界に誰かの手が差し出される。


「おい、大丈夫か?」

「へあ?」


 自分程ではないが子供のような高い声に釣られてゆっくりと目を上げれば、なるほど、ようなではなくまさに子供だった。

 一人の少年が自分に手を差し出しているではないか。


 ミリアは直前までとは違った意味で呆然と、自分より二つ三つは年嵩だろう少年を見つめた。


 何故なら、しっとりと艶のある黒髪の美しい少年は、その下の涼しげな黒瞳にミリアを映していてにこりともしていない。

 気遣っているのかそうではないのか判然としなかった。

 クールと言えばそうだったし、無愛想と言えばそうだ。


 少年のもう片方の手には、まるで子供の手には似つかわしくないゴツい青銀の銃が握られていて、表面には無数の細かな傷があり、それは何十年と使い込まれてきたような年季を感じさせた。


 もしかすると吸血鬼を倒した一発は彼が放ったものかもしれないと、ミリアはようやく思考のどこかでぼんやりと思った。


 その真相はともかくとして、この時の彼女には少年が自分の窮地を救ってくれた凛々しい英雄にしか見えなかった。


 いやもっと深く傾倒し、聖なる神様とでも思ったのかもしれない。

 しかも少年の佇まいはスマートで、世の美少年の例に漏れない。


 吊り橋効果もあったのかもしれないが、幼いミリアが恋に落ちるのは、もう避けようもなく決まっていた。







 両親も快復し状況が落ち着いた頃ミリアが知ったのは、あの夜の少年はマスタード侯爵家の令息だという事実だった。


 マスタード家は代々吸血鬼ハンターをしている名門一族で、彼は名をジェスターと言った。


 年はミリアの三つ上だった。


 彼の正体を知ったその日から、ミリアの彼へのアプローチは始まった。

 感謝を示したいと事あるごとに半ば押し掛けるように王都のマスタード家の屋敷に会いに行き、運よく彼が滞在中であれば、日がな一日、もう帰れと無理無理馬車に乗せられるまでずっと彼にくっ付いて回った。

 しかも七歳に続いて九歳でも、今度は夜の公園で両親と散歩している所をはぐれ吸血鬼に襲われて再度ジェスター達吸血鬼ハンターに助けられた。

 また、十一歳の時にも迷い込んだ森の中で吸血鬼に遭遇し、逃げられないもう駄目だと思った時にジェスターが現れて吸血鬼を弾丸一発で灰にした。

 そして十三歳、十五歳とこれはもう何かの呪いなのかという頻度で吸血鬼に遭遇し、その度に何度もジェスターから命を救われた。


 彼は彼で家業の関係で吸血鬼の情報を掴んでただ追っていただけだったが、その追跡中にたまたま何度もミリアが関わっていたという次第だった。


 本当に何かの呪いかもしれないとジェスターもふと思う事があるという。


 こうも有り得ないような偶然が重なれば、奇跡の確率で偶然だったとしてもそれは最早偶然ではない……と思う人間がいるのは致し方ないだろう。


 ――当事者のミリア・フォースターのように。


「ジェスター様は天地が引っくり返っても、私の運命の相手です! お慕いしています!」


 衝撃的な出会いから始まり、彼から幾度となく助けられてきた彼女が一点の曇りもなくそう思い込むのは無理もない。

 暇があれば彼を追い回す彼女の恋は今や止まる所を知らない。


「ジェスター様! 今日もご機嫌麗しく! 心から大好きです! 手作りのお弁当を作って参りました。朝ご飯にどうぞご笑納下さい!」


 ミリアは今日も朝っぱらから王都のマスタード家に押しかけて、勝手にジェスターの部屋に入るや机の上に手弁当を広げた。

 早朝から何となく目が覚めて侯爵家の執務に励んでいて良かったとジェスターは思った。そうでなければこの吸血鬼以上に油断のならない令嬢から寝込みを襲われていたかもしれない。

 彼は溜息を一つ吐く。


「これに髪の毛とか唾液は?」

「勿論そんな不衛生な物は入っていませんが、噂の森の魔女から取り寄せた惚れ薬入りです!」

「そんな何の成分が入っているのかもわからない物を入れただと? ライアン、廃棄に回せ」

「ああああ冗談ですよ~~っ! 朝五時に起きて手作りしましたのに~~~~っ!」


 部屋に控えていた彼付きの従者にそう命じるジェスターは罪悪感一つ湧かないようで、眉一つ動かさず淡々として冷然としてにこりともしない。

 むしろ彼は笑えるのかとミリアは実は疑問を抱いた事もある。

 しかも日によっては嫌そうにミリアを睨むだけだ。やはり笑う筋肉がないのかもしれないと彼女は失礼にも不憫に思ったりした。


「用が澄んだならさっさと帰れ」

「嫌です! 来たばかりですし」

「ライアン、彼女をしかとフォースター家まで送ってやってくれ」


 しかと、という部分を強調し、ジェスターはまたもや従者に命じた。

 そうしてこの日もミリアは強制送還された。


 そんな彼女は現在、恋に恋する花の十七歳。


 ジェスターは二十歳。


 年齢的に貴族の二人はそれぞれ婚約や結婚をしていてもおかしくないのだが、二人共まだそんな相手はいない。

 ジェスターを追い回す以外にミリアに浮いた話の一つもないのは、彼女は迷惑なレベルで彼にゾッコンだと社交界では周知なだけに、どうせ無駄骨に終わる彼女へのアプローチをする奇特な男性がいなかったからだ。

 加えてミリアの実家は毒にも薬にもならない貴族の家なので、躍起になって彼女を落とす利点がなかったのも、彼女に男が寄り付かない理由の一つだった。

 反対に、ジェスターの方は危険で物騒な家業があるとは言え、それは国王直々に認められた職業であり、普段は麗しの青年貴族として生活している。マスタード侯爵家という歴史ある家柄も貴族の中では一目置かれる存在だ。

 黙って澄ましていればかなりの美男という見目の良さもあって、夜会などの集まりでは彼の周りに女性が群がるのは常だった。


 しかし、ジェスター・マスタードという男は吸血鬼を狩る以外にはまるで興味がないようで、頬を染める令嬢達に対しても冷めた眼差しで塩対応が日常だった。


 だが、ミリアを含めた令嬢達は誰が彼を落とすかで張り合う事もしばしば。

 彼は侯爵家の嫡子でもあるので、家門存続のためにいつかは誰かを娶らなければならない身の上にあるからだ。

 しかしそんな貴族の中にも、生涯伴侶は持たずに兄弟姉妹や縁戚の子を養子に迎えた例もある。けれども恋に夢中な乙女達はそこまでは頭が回らないようでもあった。

 そうは言っても、大半が一度二度、多くて三度素っ気なくあしらわれて諦める。

 しかし世の令嬢の数は決して少なくはないので、次から次へと新手が彼を囲むがために周囲から花が絶えない。


 そんな状況はミリアを余計に奮い立たせた。


 とある日など、ジェスターは舞踏会で誰にも寄り付かれないようにと、彼女から香水でも振りかけるように服に臭い液体を付けられた。

 クリップで鼻を抓んでダンスをしましょうと笑顔で誘ってこられた時は、さすがの彼も震えた。

 この時初めて自分は質の悪い女に好かれたのだと確信したという。

 他にもある。女人禁制の会員制クラブで友人らと寛いでいると、何と付け髭をくっ付けた不自然な男装をしたミリアが紛れ込んでいた。親しげに隣の席に座られた時は本当に彼女がこの場に居るのかと、もしや悪戯好きの妖精の類に化かされているのではと、持参のステッキで彼女の頬をつついたものだった。

 しかも堂々とイチャ付こうとしてくるその姿勢には辟易とした。

 会員証を誰から調達し、厳しい入店時の検査をどうやって掻い潜ったのかは不明だが、クラブの者に申し付けてさっさと放り出させた。


 来るな、近寄るな、鬱陶しい、五月蠅い、煩わしい、などの言葉をぶつけ何度突き放してもめげないミリアの神経は人としてどうかしていると思うジェスターだ。


 吸血鬼にだって中々いない図太さだ。


 どんな人混みの中からでもジェスターつまり標的を見つけられるミリアの神業は、ハンターにもほしい能力で時々称賛に値する。

 何であれ、常にハンターに動揺は命取りと教えられてきて冷静沈着を心掛けているジェスターにとって、ミリアの存在は試練でもあった。

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