偽善屋

乃ノ八乃

case 0 前日譚

case 0 プロローグ


 賑やかな繁華街の片隅、街灯の光も届かない路地裏で一人の少女が呆然と何かを見下ろしていた。


「…………」


 季節柄、防寒具の一つでも身に付けていないと凍えてしまいそうなほど寒いのに、薄いワンピース一枚で立っている少女からはおおよそ生気というものが感じられない。


「………………鉄臭いなぁ」


 寒々しい空気に追い討ちをかけるように雨が降り始め、ぼそりと呟かれた少女の言葉をかき消す。


 よくよく見れば少女の顔やワンピースには赤い液体が染み付いており、それらが雨に濡れて滴り落ちて地面に拡がっている。


「ぅぁ……」


 少女の見下ろしていた先、首の辺りから下が真っ赤に染まっている男性が倒れていた。


「……ああ、まだ息があったのね」


 雨音が響く中で、倒れている男性の小さな呻き声に気付いた少女は左手に握っていた果物ナイフを逆手に持ち変え、首元目掛けて振り下ろした。


「っ━━━━」


 男性の首まであと数センチのところで甲高い音が響き、少女の手からナイフが消える。


 どうやら何者かが振り下ろされたナイフを投擲物で弾き飛ばしたようだ。


「…………誰?」


 少女が抑揚の少ない声で尋ねながら投擲物が飛んできた方向に首を向けると、そこにはこの場にそぐわない陽気な雰囲気を纏った男が立っていた。


「━━ふうん?犯行現場を見られたにしてはやけに落ち着いてるな」


 黒のトレンチコートに身を包み、黒のバケットハットを被ったその男は傘を片手に少女の方へと足を進める。


「……こっちに来ないでくれる?」

「それは無理だ。俺はそこに転がってるぼろ雑巾に用があるからな」


 僅かな嫌悪を示した少女にニヤリと笑みを返した男は歩みを止める事なく近付く。


「よっと、ふーん……まだかろうじて生きてはいるか。まあ、それならわざわざ止めた甲斐があったな」


 男は傍らに立つ少女を余所に倒れている男性の元にしゃがみ込み、生死を確認すると、皮肉めいた笑みを浮かべた。


「……に何の用?」


 ますます嫌悪に顔を歪めた少女が不快感を孕んだ声で男に尋ねる。


「それっていうのはこのぼろ雑巾の事だろ?ハッ、随分な言われようだな」


 少女の問いに対して男は笑い、倒れている男性に侮蔑の意味を含んだ視線を向けた。


「……その質問に答える前に聞きたいんだが、お嬢ちゃんはコレとどんな関係なんだ?」


 一拍おいてから質問を質問で返す男。一応、問いに答えるつもりはあるようだが、少女の返答によってはその限りではないらしい。


「…………はぁ……正直、声に出すだけでも嫌だけれど、仕方ないわね。ソレと私は世間一般的には親子と言われる部類の関係よ」


 少女は顔を逸らし、苦い表情を浮かべて観念したように答える。


「親子って言うと……何だ、お嬢ちゃんはソレの娘って事かい?」

「……大変不本意ながらね」


 少女と倒れている男性の関係性に男は驚きを見せるも、すぐに納得した様子で頷いた。


「ほーん……そうかそうか、なるほどね。だからお嬢ちゃんはソレにナイフを突き立てたってわけか」

「…………!」


 普通の親子という関係性なら娘が父を刺殺しようしているこの状態は異常だ。


 それを知って理由を問うどころか、納得して頷くという事はある程度少女の事情を知っているのだろう。


「ああ、お嬢ちゃんの事情云々は知らんよ。ただそこのソレの事はの都合上、調べたからな。まあ、その辺の情報から推察しただけだ」

「仕事……?」


 肩を竦めてそう言う男に眉をひそめる少女。


 倒れているコレがろくでなしな事は少女が一番良く知っているが、ソレの情報を仕事の都合で調べたというこの男も相当ろくでもないように思う。


「そう、仕事だ。まあ、でも、ソレに娘がいるなんて情報は探した中になかったから驚きはしたがな」


 くつくつと笑いを漏らした男はゆっくりと立ち上がり、少女の方に向き直る。


「……さて、お嬢ちゃん。何の用かという質問の答えだが、俺としてはコレをさっさと連れていって仕事を済ませたい。許可してくれるかね?」

「…………どうしてわざわざ許可を取る必要があるの?無理矢理連れていけばいいじゃない」


 何の仕事か知らないが、コレの身柄が必要だというのなら少女の許可を取る必要なんてない。


 少女が邪魔をしようにも、コレを殺傷するのに使った果物ナイフは遠くに弾き飛ばされてしまったし、先程の男の技量から考えても容易に組伏せられるだろう。


「無理矢理ね。確かに出来なくはないが、それは避けたいところだな」


 顎に手を当て、悩む仕草を見せる男に少女は怪訝な表情を浮かべる。


「……さっきから仕事と言うけど、一体何の仕事をしてるの?」

「何の……と聞かれると具体的な分類がないから説明が難しいが……」


 少女からの問いに対し、男はもう一度悩む仕草を見せた後、ふっと皮肉げに口角を上げた。


「……俺の仕事を一言でいうなら……ってとこだな」

「偽善……屋……?」


 聞き覚えのない単語に首を傾げる少女と皮肉の笑みを浮かべたままの男。


 父親と呼ばれるコレを刺したこの日、偽善屋を名乗る怪しい男との出会いが人生を大きく変える事になるとは、この時の少女には思いもよらなかった。

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