どうして妻は私の顔を踏みつけるのだろう
仲瀬 充
どうして妻は私の顔を踏みつけるのだろう
重苦しい感覚で眠りから覚めた。目を開けると妻が右足を私の
一人娘の理加子が結婚に縁のないまま41歳で病死したのは半年前のことだった。妻がおかしくなったのはその直後からだ。
「理加子は今日も残業かしら」
ぎょっとして私は妻の肩をつかんだ。
「理加子は死んだじゃないか、しっかりしろ!」
死を受け入れられないのは時間の観念の崩壊を意味する。妻の時間は過去から現在、そして未来へと一直線に流れるものではなくなった。ご飯を作ったかどうか、食べたかどうか、そんな記憶にさえ混乱をきたすようになった。妻に代わって炊事を始めた私は昔のつけが回ってきたのだと思った。認知症という形で妻は私への復讐を開始したのだろう。
夫婦は長距離バスで隣り合わせた一対の男女に似ている。互いへの興味から話を交わすが談笑は長くは続かない。後はそれぞれで長い退屈な時間を過ごすことになる。そうしてどちらかが先に降り一人は残される。結婚してからの私は次第に暴君になった。家事は全て妻に任せて飲み歩いた。育児も娘のおむつを替えたことは一度もない。抱いてあやしはしてもお漏らしすると妻を呼んだ。今思えば妻は夫婦というバスを降りたくてたまらなかったのではなかろうか。そんな私でも定年退職すると罪滅ぼしに家事を手伝い始めた。ところがどういうわけか妻は余計なことをするなと言わんばかりだった。男の手慣れない家事だから雑な面はあるだろうが手伝おうとする善意を否定されては面白くない。ある日食器を洗い終えて居間に戻った。すると妻がすぐ台所に
理加子が死んだのはそんな折のことだった。娘と二人きりで過ごす晩年を楽しみにしていた妻のショックは大きかった。廊下にぺたぺたと黄色い足あとを付けたのもその錯乱のせいなのだろう。妻の認知症はゆっくりとしかし確実に進行した。ある時私がいつものように食事を作ってテーブルに置くと妻がぺこりと他人行儀に頭を下げた。もしやと思って私は自分を指さした。
「僕は誰?」
妻は首を傾けて困った顔をした。私は「
「ナオトサン、おいしい」
私は思いがけず新婚時代に戻った気がした。
寝ている私の額を時々足で踏むようになったのはその後だ。私の名前は忘れても蓄積されていた憎悪は潜在意識下から頭をもたげるのだろう。そうは理解しても踏まれる私は糞便や風呂上がりの濡れた足あとを拭き回るよりも大きな屈辱を覚えた。やがて徘徊まで始まったが私は腹を据えた。いちいち心配していたらこちらが持たない。徘徊といっても小一時間で戻るので私は散歩だと思うことにした。それでも現在地が把握できるアプリを妻のスマホに入れて常時携帯させることにした。当初は妻が家を出るたびに私は自分のスマホを開いて画面上で追跡した。矢印の先っぽに似たマークの動きは廊下を歩く妻の足あとを連想させた。行き先は決まっていて家から遠くない市営アパート付近かアパートに隣接する公園のどちらかだった。市営アパートには結婚当初の数年間住んでいたので懐かしいのだろうと思った。
私も妻が徘徊するアパートは懐かしいが憂鬱な記憶もある。というのは入居して間もない頃に
「ナオトサン?」
妻が背中をさするが私は症状が軽いことを経験上知覚できた。緊張性気胸に移行しなければ命にかかわることはない。かつて入院した病院に連絡し、タクシーも自分で呼んだ。
「たぶんすぐ帰れるから心配いらない」
妻に言い置いて病院に行くとやはり自然気胸だった。念のため1泊し後は自宅で静養すればいいとの
翌朝検温に来た年配の看護師が私の顔を見るなり明るい声を発した。
「ああ、やっぱり原田さん!」
「?」
「市営アパートの吉岡です」
「お久しぶりです」
よく覚えていないのであたりさわりのない対応をするしかない。そんな私の思惑をよそに彼女は思い出話を始めたがすぐに声を落とした。
「奥さん、お元気なんですか?」
私は妻の徘徊のルートが頭に浮かんだ。
「実はちょっと認知症ぎみなんです。そちらのアパートにもおじゃましていませんか?」
「そういうことだったんですね。ええ、時々屋上で見かけます。お懐かしいんでしょう」
事情が飲み込めたというようにトーンが戻ったが、屋上と聞いて今度は私が心配になった。
「なにかおかしなそぶりはありませんか?」
「いいえ。昔住んでらした時と同じように夕陽を拝んでお帰りになります」
彼女が去った後、私はキツネにつままれたような気がした。妻が夕陽を拝むのを見たことは一度もない。
午後の3時に退院し夕食の食材を買ってバスに乗った。バスを降りて我が家の近くまで来ると妻が家を出るのが見えた。私は荷物を玄関に置いて後から付いていくことにした。今日は公園コースのようだ。市営アパートのすぐ横の小高い公園に登り着くと妻は夕陽に照らされた公園のふもとをじっと見ている。何を考えているのだろう、夕陽は拝まないのか? 声をかけようと思った時妻はくるりと
「僕は誰?」
妻が最近私の名前を口にしないので聞いてみたが思ったとおり返事はない。紙に「
「僕は誰?」
妻は壁の紙に目をやった。
「ナオト」
妻にとっては「ナオトサン」も「ナオト」ももはや名前でなく単なる記号に過ぎないのだろう。それでも私は新婚時代の「直人さん」からさらに時をさかのぼり「直人」と呼ばれていた恋人時代に戻ったようで新鮮な思いがした。
妻が私を踏むのはもちろん私が目覚める朝なのだが今日は違った。昼間に眠気を催して畳の上で横になってうとうとしかけた時例の感触を感じた。いつもなら無意識に払いのけるがいい機会だから薄目を開けて観察した。すると私の額に右足を置いた妻は目を閉じて合掌していた。まるで観音様に踏まれているようだとおかしく思った時、唐突に恋人時代の思い出がよみがえった。
「ねえ直人、知ってる? 仏像が合掌しているのは私たちを拝んでる姿なんだって」
女友だちどうしで奈良に行った帰りだと言って私の下宿に寄った時だった。
「私ね、偏平足だってことずっとコンプレックスだったんだけど仏様も偏平足なのよ」
薬師寺で
「地面の土でさえも慈悲深く平等に踏んであげられるように仏様の足には土踏まずがないんだって」
そんなことを嬉しそうに語っていた。
妻が私を踏むのはなぜだろう。仏になったつもりで私に何か
どうして妻は私の顔を踏みつけるのだろう 仲瀬 充 @imutake73
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