零と雫

三日月未来

第1話 零と雫

 群馬県谷川連峰、谷川岳の左側には仙ノ倉山、平標山が並んでいた。

平標山の奥には苗場スキー場がある。


 二千メートル級の山々に北アルプスのような高度はなかった。

しかし谷川岳だけは一ノ倉沢に代表される悲劇の舞台として、魔の山の異名を持っていた。


 紗央莉と正義は沙月を残して、上越線の土樽駅から仙の倉谷西ゼンを遡行した。


 美しい滑らかなスラブ岩が朝陽に反射して細くなった上流の水が、白糸のように流れている。

 スラブ岩は頂上直下まで続くツルツルの岩だ。

第一スラブ、第二スラブと続く長い行程の中にいくつもの大小の滝があった。


 正義は濡らした草鞋を足袋の下に履き、ツルツルのスラブ岩の表面に足裏をフラットにして置いたつもりだった。

 刹那、足を滑らせ顔面を岩にぶつけたがヘルメットの庇のお陰で怪我を免れ額が赤く腫れた。


 沢を登り始めて、核心部を過ぎた頃、傾斜は角度を上げて行った。

高度感は千メートル以上になって緊張する。


 やがて利根川の源流はチョロチョロな湧水になって消えた。

 

 水が雫から零に変わる瞬間、紗央莉と正義は、ハイタッチしてあわやバランスを崩しかけ、正義が止めた。


「紗央莉さん、まだまだ、油断は禁物です」

「そうね、最後の草つき抜けるまでね」


 平標山の頂上に出たあとは湯沢側に降りる急坂が待っていた。


 秋のつるべ落としの中で、夕闇と競争するように走り降りた。

疲労で膝が笑い出す前に。




 湯沢駅に到着すると赤いタータンチェックのカットシャツを来た沙月が姉の紗央莉を待っていた。


「姉さんも正義さんも、無理しちゃだめよ」

「沙月、待たせたな」


「谷川連峰は日本でも屈指の魔の山なんだから、新婚夫婦が来る所じゃないわ」

「沙月だって、正義の赤ちゃんを孕っているじゃない」


「私は正義さんの赤ちゃんが欲しかっただけ」

「沙月、私も同じだ」


 紗央莉と沙月は、みごもった下腹部を撫で乍ら、ビールを飲み干して、駅のベンチで特急電車を待っていた。



 東中野に到着した三人は駅前のスーパーマーケットで買い物を済ませマンションの部屋に戻る。

 奇妙な三角関係の夫婦と恋人は、独身時代と変わらぬ生活スタイルを維持していた。


 正義が紗央莉と一緒でも、沙月と一緒でも、他人には魔性の双子姉妹の区別など不可能だった。

 婚姻届は、紗央莉が支配して、双子姉妹が正義を共有した。


 奇妙な三角関係が途絶えた十六年後、瓜二つの顔を持つ零と雫は女子高一年の十六歳になっていた。

 実の父は正義、母は紗央莉と沙月だった。


 零と雫は、実の父正義の部屋で居候を始めていた。


「お父さん、行って来ます。恵子叔母さん、来たら待ってもらってくださいね」

「恵子叔母さんって、誰かな零」

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