第2話

 内見当日の朝は花曇りで始まった。昨日の夕方のニュースでは、明日は一日中曇りだと気象予報士が言っていたが、いざ午後になってみると、曇りから一転、小雨が降り始めた。内見が終わったら類以と公園に行く予定にしていたが、今日は行けないなと思いながら荻野は料理をする。


「いよいよですね、内見」金子は浮足立っているような感じで槙野に言う。そんな金子に、「十四時の約束だって飯田さんが言ってたから、もうすぐ来るんじゃないかな」と優し気な表情を向ける。


 類以は、電気を消してあるリビングの一角で、昼寝をしている。ただ、オーナーと内見者が来る前には起こさなければならず、荻野は一人遅めの昼食を食べながらタイミングを見計らっていた。


金子は胸に両手を当て、「どうしよ。内見者じゃないのに緊張してきました」と報告する。そんな金子の顔色を窺いながら、「どうして?」と、まるで教え子に接する教師のような振る舞いを見せる槙野。


「私がここに引っ越してきてから、新しい入居希望者が来るのって初めてじゃないですか。だからですかね」

「なるほどねぇ。確かに、金子ちゃんが入ってからずっと新しい希望者は現れなかったもんね」

「そうなんです。だから余計緊張しちゃって」

「分かる・・・。うわ、なんか俺まで緊張してきた。金子ちゃんの緊張が移ったかも」


そう槙野が口にした途端、食器をキッチンへと運ぶ荻野が、「猛が緊張したらダメでしょ。今日飯田さん居ないんだよ? しっかりしないと」と茶々を入れる。


「そうだけどさ~」口を尖らせる槙野。荻野はダイニングテーブルの上に置かれた、槙野のノートパソコンと現代文の教科書を指差し、「仕事に集中すれば気が紛れるんじゃないの?」と、どこか他人事みたいに言う。


「そうかもしれないし、最初からそうするつもりだけど」

「なら良いじゃん。ね、金子ちゃん?」

「ですね。今から仕事してたらどうですか?」

「金子ちゃんまで茉菜の味方するの?」


金子は荻野と視線を合わせ、にっこりとする。槙野は諦めの溜息を吐いた。


「いいよ、俺は仕事に専念するから。で、そういう茉菜は緊張してないの?」

「私? そりゃあ多少なりとも緊張はしてるよ。でも、類以の遊び相手になってたらそこまで気にならないかな」

「だったら俺も類以の遊び相手になりたいよ。それで緊張が和らぐなら―」

「猛、類以の遊び相手になってくれるのは嬉しいけど、飯田さんが出て行ったら成人の男は猛しかいないんだよ?」


「はい・・・。すいません」槙野は荻野に言われたことを真摯に受け止め、頭を下げた。また荻野に呆れられてしまったと思うだけで胸が苦しくなって、自分のことが情けなくなっていく槙野。


 そんな槙野が見ていられなかったのか、「あっ、そう言えば槙野さんって飯田さんの結婚祝いに何渡すか決めました?」と話を逸らした金子。しかし、動揺しているのか黒目が泳いでいた。


「俺はもう決めて業者に発注したけど、金子ちゃんは?」

「それがまだなんです。引っ越しのプレゼントは荻野さんが中心となって考えてくれたから良かったんですけど、今回は一人で決めなきゃだし、それに結婚のお祝いを渡すこと自体初めてなので、選ぶのに時間かかっちゃいそうで」

「そうだよね。俺も初めて友人に結婚祝いを渡すときは、悩みに悩んで決めた覚えがあるよ」


懐かしみながら笑う槙野に、「やっぱりそうなりますよね。はぁー、どうしようかな」と上体を逸らす金子。関節の乾いた音が鳴った。


「もしどうしても決まらなかったら俺に相談してよ。学生時代の友人に、プレゼント系の商品を販売してる会社の社長がいるから、そいつに訊けば色々教えてくれると思うんだ。そいつのセンスは間違いないから」

「槙野さんが言うなら間違いなさそうですし、頼りになりますね。まだ分からないですけど、そうなった時はお願いします」

「うん」


 キッチンから近づいてくる足音。荻野がソファに座る二人に、「今度は何話してるの?」と話しかける。


「金子ちゃんが、飯田さんへの結婚祝いのプレゼントを決めたかどうかを訊いてきたんだよ」

「あー、私もまだ決めてないんだった。忘れてた・・・」額に手を当て、はぁと息を吐く。


「荻野さん、もしよかったら今度一緒にプレゼント選びに行きませんか? 私、荻野さんと久しぶりに二人で出かけたいんです」

「私も金子ちゃんと二人で行きたいけど、でも類以もいるから連れていけないし―」

「類以のことなら俺が面倒見るからさ、二人で行ってきなよ」

「でも―」

「今日オーナーたちが帰ったら二人で公園行く予定だったんだろ? でもこの雨じゃ難しいだろうし、俺が遊び相手になるよ? 類以が許してくれればの話だけど」


どこか寂し気な表情を浮かべつつ、眠る類以に視線を遣る槙野。


「いつも茉菜は類以の世話してくれてるんだし、たまにはショッピングしたりとか美味しい物食べて、息抜きしてきたら?」


 そう言って荻野に満面のスマイルを見せる。荻野もフフッと笑い、類以を起こそうと近づく。すると、母親の出すセンサーを察知したのか、ちょうどのタイミングでハッキリした言葉ではない声を出した。


「類以、そろそろ起きる時間だよ。ママと一緒に遊ぼ?」言いながら類以を抱き上げる。昼寝から目を覚ましたばかりだが、類以は槙野を指差し、「あー」などと甲高い声をあげる。


「よかったね、猛。類以からのご指名だよ」

「よかった。嫌われてなかった」安心したのか、ホッと息を吐いた槙野。荻野は微笑んでいた。


 遊び場のサークルの中に入れられた類以と、その中で身を縮める槙野。見守られているという喜びからか、類以は満足げな表情で大きなサイズの積み木を手に持っていた。


「金子ちゃん、急なお誘いになっちゃうけど、内見の人が帰ったら行かない?」

「いいですよ! 行きましょ! あと、ついでに食材の買い出しに行ってもいいですか?」

「いいよ。私も手伝うから」

「ありがとうございます。あっ、お二人は今日何か食べたい料理あります?」

「何でもいいんだけど、飯田さんが好きな料理にしない?」

「そうだな。四日で飯田さん引っ越すし、一緒に食卓を囲えるのも今日が最後だろうし」

「ですね。じゃあ、飯田さんが好きなしゃぶしゃぶにしましょうか」


 三人がリビングで会話を交わしていると、来訪者を告げるベルが鳴った。モニターには見慣れた中年の男性と、その後ろに一人の女性が立っていた。鳩時計が十四時を知らせてくれたタイミングだった。

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