愛及屋烏

藤宮一輝

第1話

朝八時。この日私は、いつもよりほんの少し早く登校して、体育館裏に来ていた。


「山口さん、好きです。」


呼び出した男は私を見るなり、少し恥ずかしそうにそう告げた。


「足立君、だったっけ。」


「よかった。不安だったんだ、名前も覚えられてなかったらって。」


口ではそう言いながら、足立君に安堵している様子はなかった。


少しでも目の前の男について知ろうと、彼の方を見た。身長は私より少し高いぐら

い。体重は、同じくらいかもしれない。体格に恵まれているとは言いにくい。顔は悪くないが、いまいちパッとしない感じ。しばらく眺めていたが、そんな見た目の情報しか思い浮かばなかった。


「いくつか質問しても?」だから、少し話をしてみようと思った。


「もちろん。」


「名前を覚えられてるかどうかも怪しいって、私たちの関係ってその程度なわけじゃない? クラス替えがあってからまだ二週間だしね。それなのに告白した意図は?」


彼は質問の意味がまるで分からないという様子だった。


「特には。それに、好意を表明するのに深い関係性が必要かな。」


必要かと聞かれたら、確かに必ずしも必要ではないかもしれない。ただ、好意を伝えた後のことを考えるなら、ある程度の関係性はあるに越したことはないとも思った。


「じゃあ次の質問。私のどこが好きなの?」


「どれから話そうか。」そう言って、彼は顎を触った。「でも、まずは優しい所かな。」


「優しい。思ったより無難なこと言うんだね。」


自分が優しくない人間だとは思わないが、少なくとも彼に対して優しくした記憶はなかった。それどころか、彼とまともに話したのも今日が初めてだった気がする。


「先週、下駄箱前でハンカチを拾ったでしょ? 四葉のクローバーの刺繍が入ったやつ。」


「よく知ってるね。刺繍については覚えてないけど。」


靴を履き替えようと下を見て、ハンカチが落ちていることに気づいた。それまでぼうっと歩いていたから定かではなかったが、少し前を歩く生徒が落としたのだと思って声をかけた。


「でも、ハンカチはその生徒のものじゃなかった。だから山口さんは教室とは別の棟にある落とし物回収ボックスにハンカチを入れて、それから教室に向かった。まさか同じクラスにこんな人がいるなんて。」彼は恍惚といった表情だった。


なんで彼がそんなことまで知っているのか。それよりも、人を好きになるエピソードにしてはいささかドラマに欠ける気がした。私には他に良いエピソードはなかったのだろうか。


「そんなの、誰にでもできることでしょ。」


「本当に? 確かにハンカチを落とした瞬間を見たなら、拾って声をかける人はある

程度いるだろうね。でもそのうちの大多数は、持ち主が違うとわかったとき、ハンカチをその場に置いて教室に向かうんじゃないかな。」


彼は早口に反論した。その勢いに気圧されて、私は返す言葉に詰まった。


「……偶然だよ。本当に、たまたま気が向いただけ。」


実際、当時の私もそこまで深く考えていなかっただろう。イヤホンから流れる音楽を少し長く楽しめる、くらいの感覚だったんじゃないだろうか。


「でもそんな偶然が積み重なって、きっと山口さんという人を形作っているんだ。」


そう言って彼は、鞄からハンカチの入ったジップロックを取り出した。


「実はね、さっき話した下りは、来た道を戻っていた時に見たんだ。教室に向かう途中でハンカチを落としたことに気づいてさ。……そういえば、まだお礼を言ってなかったね。ありがとう、このハンカチは大切に保管するよ。」


ハンカチは使うものだろうと思ったが、彼が四葉のクローバーの刺繍が入ったハンカチを使う姿を想像すると、それはそれで少し可笑しいとも思った。


「そろそろホームルームか。じゃあお先に。」


そう言うと、彼は足早に立ち去った。


「同じ教室に行くんだから、一緒に行こう、くらい言えばいいのに。」

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