個人的な贖罪

水風船

個人的な贖罪

 私には今まで誰にも言っていない話がある。

いや、これは“私たち”と言うべきなのかも知れない。けれどこれはあくまで「個人的」な問題であって、当時そこにいた人たちはもうその出来事を覚えてはいないだろう。


 話は私が中学生の頃に遡る。五月の終わり頃、体育祭の練習も仕上げに近づき、どことなくグラウンドに活気が満ちていた日だった。

その日はクラス対抗リレーの練習をしていた。

最後のリレー練習という事もあり、練習が進むにつれてクラスの熱が波のように広がっていくのが分かった。

バトンが渡り、かけ声が響く、私もその熱にやられてどこか浮き足立っていた。


 男女混同のクラス対抗リレーでは走者の順番が命だった、私は足が遅いので早めに役が回ってくる事になっていた。

かけ声が響く中、もうすぐ自分の番が回ってくるので次のラインに立ち、バトンを受け取る姿勢をとった。

バトンを受け取った私は案の定遅かった、まるで森の中を歩くリクガメのようだった。

かけ声が小さくなったのに少し恥じらいを覚えながら次の走者にバトンを渡す。

私はこの時おおきく安堵した。それは自身の役目を終えた安堵ではなくて次の走者に対する安堵の気持ちだった。


 ——その瞬間、かけ声はため息に変わった。


 おぼつかない素振りでバトンを受け取った彼女はコーナーへと躍り出る。

「絶対あいつのせいで負けるよ…」

と背後から小さな声がした。

私はその響きを耳に残したまま、自分の持ち場に戻り体育座りをする。彼女はコーナーの半分に差し掛かるところだった。

必死に腕を振りながらカーブへと向かい慎重に走るものの彼女はそこで転んでしまった。

「あぁ…」というため息混じりの声がグラウンドに充満する。私も切れ切れした呼吸の中でため息をつき肩を落とした。

「あいつがいたら俺ら絶対勝てないよ、いっつもあそこでこけてるじゃん」

と一人が呟く。

「大体あいつトロいんだよな、何にもできないんだよ」

と立て続けに野球部の仲間が言った。

彼女がすりむけた足を押さえながら帰ってくる。その時の全体的な嫌悪の眼差しと白々しいほどの周りのため息は余りにも息が詰まるものだった。


「ごめんね…」


 介抱しようと近づいた女子に向かってそう投げかけながら、私達の前を横切る。

その途中でさっきの小言を言っていた野球部員が彼女に聞こえるか聞こえないかの声量で

「お前さえいなければ勝てるんだけどなー」

と周囲に言いふらすように言った。

空間は嘲笑が溢れそうになり、彼女を侮辱するような空気に陥った。

 彼女は黙ったまま、私達の前を横切ろうとしたけれど、介抱していた女子がこの空気に耐えかねて口を開いた。

「あんたたち絶対このこと先生に言うからな、こけた人を馬鹿にするんじゃないよ」

しかしその言葉は相手に届かず、周りの嘲笑を増幅させるだけで消え去ってしまった。

そして半笑いで苛立ちを隠した様子で

「お前だってこいつの事嫌いだろ?いっつも休み時間絡んでくる事を嫌がってるじゃん」

と逆に熱を帯びた言葉を無造作に投げつけ彼女を黙らせてしまった。


「もういいよ…」


 と介抱する子に向かって言いながら彼女は崩れ落ちた。

「大丈夫?」

と女子生徒が背中をさするも、もう彼女の心はズタズタになっていたに違いなかった。

彼女の目から大粒の涙が流れ、女子生徒が影を落とした砂にこぼれた。

口元をなんとか手で抑えながら、乱れた呼吸を取り戻そうとしているのも見えた。

走った後の汗が冷えてぬめり気を出し、メガネが砂の上に落ち、彼女の瞳が見えた。

悔しさと疑念に満ちた瞳をしていた。

私は傍観者の立場だったが、彼女を助けたいという感情に駆り立てられ近寄ろうと足を一歩前に出した。

しかし、その張り詰めた空間と周りの混乱を恐れてもう一歩を出さないまま、彼女の姿を眺めた。


私はその夜、初めて金縛りにあった。


 その出来事の四日後、体育祭が行われた。

私は勝手にその出来事に対する後ろめたさを感じながら登校した。

彼女を泣かせた野球部員はもうそれを忘れているようだった。

「昨日休んでたけど、来るかなぁ…」

と介抱していた女の子が周りの女子に話してい

る。


 “私はなんだか嫌な予感がした”


 結局体育祭のグラウンドには彼女の姿は無かった。おかしな事にリレーの時まで私はその事に気づかなかった。

「あいつ来てないみたいじゃん」

と野球部員の声がする、その声は良心の呵責とほのかな喜びが混じり合った不思議な響きだった。


 リレーはスムーズにバトンが渡り、私達が勝利した。結果、総合優勝まで勝ち取った。私達は大いに喜んだ。


 振替休日の後、学校に登校するも彼女の姿は無かった。私は胸が締めつけられるような感覚になり、あの出来事を後悔した。

けれど、


 ——彼女が学校に来ることはもう無かった。


 それから数ヶ月が経ち、クラスのみんなはあの出来事を自分の中で透明化して変わらない日常を過ごしていた。私もその一人だった。

ポツンと寂しげに置いてある彼女の机は、いつしか野球部員が座る休み時間の談笑の椅子になって、彼女の事は話題にもならなかった。


 そんなある日の事、学年集会が開かれた。

学年主任の体育教師が前に出て、色々な事を話している。私はいつものように体育座りの体勢で身体を左右にゆらゆらさせながら暇を潰していた。

「えー、最後に報告しておかないといけないことが一点、あるので真剣に聞いてください」

と体育教師が語気を強めて生徒に投げかける。

私はまだ揺れていた。


「えー、一年四組の野々村瑞希さんが先日、“脳腫瘍”により亡くなられました」


 ほんの少しの静寂の後、ざわめきが聞こえ出した。私は体育座りをしたまま下を向き黙っていた。その後は遺族の言葉であったり、彼女に関しての色々な事を話していたが私の耳には入ってこなかった。


 教室へ戻ると、担任の教師が陰険な空気の中口を開いた。

「体育祭の練習の時によく転んでしまうことを彼女は親に泣きながら話したんだって、転びたくないのに転んでしまうって。それをおかしく思った親が体育祭の日に病院に連れて行って、それで発覚したんですって。」

その後、しばらく先生は黙り込んで

「あの時に彼女を笑ってた人は彼女の脳に腫瘍があることを知らなかったにしても、後悔することをしてしまったわね。今日一日は彼女の事を思って過ごすように」

とやや言葉を詰まらせながら話した。


 その後のことは覚えていない、放課後の廊下でみんなが彼女の話をしていたりしたが、私はいまいち実感の無いままに帰路についた。そして今に至るわけだ。


 私は未だに彼女のことを思い出しては「あの出来事」が昨日の事のように思え、自責の念が沸き立ってくる。あの時にため息をついた浅はかな自分。彼女が涙を流した時に傍観者であることを望んだ自分。あの出来事の後、彼女の事を忘れていた自分。その全ての自分が憎らしく思えた。その自分への憎悪は時が流れるにつれて罪の意識と変容し、私の心の中に絡みついた。彼女の出来事を自分の中の悲劇として扱う事でその罪から逃れようとした事もあった。けれど、そのどれもが自分の醜さを浮き彫りにし、結局は彼女の出来事に帰結せざるを得ないと悟った時、私はこの文章にして「贖罪」として救済を求めることにしたのです。



※この出来事は2019年の夏、小さな中学校で起きたものです。



































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個人的な贖罪 水風船 @hundosiguigui

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