39番系統の風

糸森 なお

第1話 琴葉と半田―七月十五日

 今朝は何だかいつもと違う。

 駅に向かう大通りを自転車で走りながら、琴葉ことははそう思った。


 歩道に人が多く、みんな、どことなく切羽つまった顔で足早に先を急いでいる。

 車は渋滞していて、全然前に進んでいなかった。

 前方で赤い車の後部ドアが開いた。制服を着た高校生らしき男子が降り、大股で車のわきを抜けて走っていく。車が動かないので降りて走ることにした、という様子だ。

 琴葉と学校は違っていたが、同じ高校生があせっている姿を見て、不安になってきた。何かあったのだろうか。電車のダイヤが乱れているのかも。

 駐輪場に自転車を止めて、駅への道をいつもより急いで歩く。

 今朝見た天気予報の最高気温分布図は、濃い紫と赤が混ざり合い、ひどい火傷の痕のようだった。

 ぎらついた陽ざしが肌をちりちりと焦がす。湿った空気がまとわりつき、喉が渇いてくる。


 二人乗りの自転車が琴葉の横を通り過ぎた。


 自転車をこいでいるのは、黒いTシャツを着た若い精悍な男性だった。日に焼けた浅黒い肌をしている。

 その後ろで自転車の荷台にまたがっているのは、背の高いやせた中年男性だった。茫洋とした印象を与える姿に見覚えがある。中三の時の担任だった半田はんだ先生だ。


「えっ」


 思わず声が出た。

 しかも自転車がすごく速い。風のように走り抜けるのを、足を止めて呆然と見送る。疾走する動物みたいに、タイヤが少し跳ねている。

 人通りが多くなる道にぶつかる場所で自転車は止まり、先生はふらふらとした足取りで荷台から降りた。

 自転車は無骨な四角いかごのついた、古い型の焦げ茶色のママチャリだった。

 先生は男性にお辞儀をし、男性は首を横に振りながら、早く行けというように駅の方向を指さした。

 へこへことお辞儀しながら、先生は小走りで去っていく。

 Yシャツの肩の線が、ハンガーを入れたみたいにぴんと張っている。人間違いじゃない、半田先生だ。

 男性はなぜか自転車には乗らず、ハンドルを押して引き返してくる。晴れ晴れとした顔で笑っていた。琴葉とすれ違う前に、細い横道に入った。

 横道をそっとのぞいてみたら、今曲がったばかりのはずなのに、男性の姿は無かった。


「あれ?」


 行き止まりの塀の上に、灰色っぽい大きな長毛種の猫らしき生き物がいた。その猫は塀の向こうに飛び降りて見えなくなった。


 気になったが電車の時間もあり、後ろ髪を引かれながら、琴葉は駅に向かった。

 電車は通常通りに運行していたのでほっとする。ホームで半田先生を探してみたがいなかった。

 いつもの電車に乗り、つり革につかまりながらスマホで、今朝の混雑の理由を探ってみる。どうやら今日、バス運転手の組合がストライキをしていたらしい。

 ストライキって何だっけ。そういえば道路にバスを見なかった。


「それよりも、半田先生だよ」


 独り言をつい口に出してしまった。隣の人が顔を上げたのが目に入り、恥ずかしさで顔が赤くなる。

 電車が次の駅につき、未空みくがハンディファンを首筋にあてながらけだるそうに乗ってきた。


「おはよー。暑すぎて溶けて蒸発できそう。空気になって推しのそばに行きたい」


「未空ちゃん、しっかり。ねえ、自転車の二人乗りってやったらだめなんだよね、確か」


「ああ、そうだっけ? どしたん、急に」


 高校で知り合った未空とはいつもこの車両で待ち合わせして、一緒に学校に行く。未空も琴葉と同じく理系科目が好きだ。本やアニメ、動画の好みも似ていて話が合う。

 琴葉は小声で未来に言う。


「中三の時の担任の先生が、二人乗りしているのをさっき目撃した」


「へえー」


 若い男性と乗っていたということは言わなかった。

 半田先生は確か独身だった。あの男性はパートナーなのかもしれない。驚いたが、そういうこともあるだろう。

 未空は良い子だが、電車の中で軽々しく吹聴するようなことではないと思った。たとえ先生の知らないところでも、先生を悲しませたくはない。

 琴葉が心配なのは別のことだった。


「ああ、二人乗り、やっぱり駄目みたい」


 スマホで調べて、琴葉は顔をしかめる。


「昔は良かったけど、今は駄目になったんじゃなかったっけ? どっかで聞いたことある。昔は自転車の二人乗りってドキドキするシチュエーションの一つだったのに、できなくなったって」


「先生、多分知らないんだよ。知っていたらしないと思う」


「そうなの?」


「抜けてるところがある人なの。浮世離れしていて、当然知っていることを知らなかったりする。アイスリングを肩こり解消のグッズだと思っていて、最近は若い子もみんな肩凝っているんですね、とかまじめな顔で言ってたもん」


「何それ。だめな先生じゃん」


「違うの。良い人なの。すごく。ハンガー先生って呼ばれてた。名前が半田だし、肩がハンガー入れたみたいにピーンってしているから」


「それ悪口?」


「それも違う。ぬぼーっとしたおじさんなんだけど、途中から小さな声で冗談とか言い出すようになってさ」


 半田先生の広い背中を思い出して、琴葉は微笑んだ。

 中年で口数少なく、能面みたいな顔をした半田先生の評判は、最初悪かった。担任が半田先生なのは「ハズレ」だという空気が、クラスに漂っていた。

 しかし、クラスのはぐれ者の不良を一番気にかけていたのも、前例のない文化祭の企画を校長に通してくれたのも、半田先生だった。

 最初はたしかに揶揄する響きのあった「ハンガー先生」というあだ名に、だんだんと愛情がこもっていたのがいつからか分からない。

 卒業する時、半田先生の写真をつけた推しハンガーに、寄せ書きを書いたYシャツを着せてプレゼントした。Yシャツにメッセージを書く同級生の顔はみんな楽しそうだった。

 先生は困惑した顔で受け取り、わざわざそのシャツに着替えてくれたのだ。


「面白い先生だね」


「うん。私も進路のことでいっぱい助けてもらったの。先生に、二人乗りはもう駄目なんですよって教えてあげたい。どうしたらいいんだろう。連絡先なんか知らないし」


「うーん、困ったねえ。祈るしかないんじゃない。また会えるように」


 未空は両手を胸の前で組んで目を閉じる。


「神様お願いします、琴葉をハンガーにまた会わせてください〜なむ〜」


「未空ちゃん、ハンガーじゃない」


「ごめん、暑いから頭がぼけてる」


 それでも祈ってくれる未空とともに、とりあえず琴葉も目を閉じて手を組み合わせる。

 電車の振動でよろめきそうになるのを踏みこたえながら、それにしても、あの古びたママチャリに人を乗せて、よくあんなに速く走れたものだと思う。

 風景がそこだけ切り取られたみたいだった。じめついた空気をかきわけて、あの自転車は爽快に走っていた。

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