第1話 アップルパイ
今日もやっと長い1日が終わった。三上陽毬は窓に映る夜景をふと見てから長い溜息をついた。
パソコンやペンケース、メモ帳など仕事道具をだらだらと片付けながら、今日もちゃんと笑えてしっかり仕事できていただろうかと1日を振り返る。
…先輩から引き受けた依頼の資料あれでよかったんだろうか、もう少し説明加えた方が、いや図や参考資料足した方が伝わりやすかったのかもしれない。そういや、樋口さんから聞かれたあの案件の説明もう少しわかりやすく話せたんじゃないか。もう少し何か言い回し変えて話した方がよかったのか。あの説明で理解できたのかな。
振り返れば振り返るほど仕事の自己反省会が止まらない。いい加減直した方がいいのは分かっているが、どうしても昔からの癖で無意識にマイナスな事ばかり考えてしまう。帰る支度をし、重い足取りで職場を離れる。
暗くなった街に光る看板のネオンや所狭しと並ぶ店、学校終わりの楽しそうな顔をした高校生や、仕事終わりのやつれたサラリーマン、様々な人が夜になったばかりの街並みを歩く。家にまっすぐ直行し家族と団欒を楽しむ人や、少し寄り道をして恋バナに花を咲かせる大学生達 、仕事終わり同士が待ち合わせし、これからディナーにでも向かうカップルなど様々な夜の過ごし方をしている人が行き交う中、陽毬は特に誰かと過ごすわけでもなくただ家に帰る。
こんな時に仕事の疲れを癒してくれる恋人でもいたらまた少し違っていたかもしれないけど、あいにく陽毬にはそんな相手はいない。ただなんとなく時の流れに任せ、仕事をし、終わったら家に帰る。なんとなく会社と家を往復する毎日を過ごし、ただ何の目的もなく生きている。刺激的でもなければ、かといって不真面目に生きているわけでもない。ただ、真面目に平凡に生きているだけ。それがいつしかただの一般的なOLになり、仕事だけに生きるつまらない人間になってしまっていた。
…昔はこんなんじゃなかったのにな。
と溜息をつき、夕飯の支度をする。こうして、また何でもない一日が終わろうとしている。
私が思い描いていた社会人生活はこんな感じだったのだろうか。もっと仕事もやりがいを感じ、自分の好きなことに携わることができていて人間関係も良好で多少大変な事はあっても乗り越えられる。プライベートも充実していて、趣味の幅ももっと広がって毎日忙しくも楽しい日々になると思っていた。
だが、現実はそうではなかった。ただ仕事場と自分の家の往復の日々。もう少しキラキラな生活を送りたいと思ってもストレスと疲れには勝てない。もはやそれどころじゃないし正直このまま灰色のような毎日だけが過ぎていって一生が終わるのかなと思うと虚しい。
なんてつまらなくて平凡な人生なんだろうと自分に呆れる。
このままでいいのかなとは思いつつ、実際には何も行動に移せていない。好きな事はあるのにそれを始める勇気はない。
色々今後の未来について悶々と考えながら布団に入り、眠りにつく。
何か私を大きく出来事があったらいいのになと思いつつ。
次の日。いつも通り仕事を終え、満員電車に揺られ帰宅ラッシュの中いつも通り帰宅する。
最寄りの駅を降り、真っ直ぐ自宅まで歩くつもりだった。だが、ふと目に入った喫茶店に入りたくなった。普段はなんとなく素通りして「あ、ここいつか行ってみたいな、」って思うだけなのに何故か今日は無性に興味を惹かれた。
…今日は結構頑張ったんだし、今日くらいは自分を甘やかしてもいいか。自分へのご褒美って意味でもね。
なんて思いながら気づけば喫茶店のドアを開けていた。
ドアを開けた瞬間、フワッと広がるコーヒーを淹れた香り。照明も暗く、落ち着いた雰囲気の店内にどこか懐かしさを感じる。どっしりとしていて座ったらきっと沈んでしまいそうな低めのソファに重々しいテーブル。少し高さがあるカウンターにコーヒーを淹れる器具。その器具も随分と年季が入っているような作りではあるものの、絶品コーヒーを淹れることが出来るに違いないと思わせてくれる。アンティーク調の窓やインテリア。奥の埃被った分厚い表紙ばかりの本が所狭しと並べられている本棚やレトロな雑貨もお店の雰囲気を作り出している。。まさにこのお店自体が全体のレトロな雰囲気を作り出している上にまるで実家に帰ってきたような懐かしさと安心感がある。
そしてカウンターに立つのは物腰柔らかそうな白髪に白髭のマスター…ではなくふわふわとした薄いブラウンの髪に少し垂れ目でくりッとした引き込まれそうな大きな瞳。身長が高くスマートで腕まくりをしたシンプルなシャツに腰に巻いている黒のエプロンが彼の雰囲気によく似合う、そんな男の子がカウンターに立ち、皿を拭いて食器の後片付けをしていた。
…すごく雰囲気が素敵だな、なんかここだけ別世界みたい。
思わずそう思ってしまった。でもそれくらい喫茶店の雰囲気にマッチしていて、ただ皿を拭いているだけなのに立ち振る舞いが絵になる男の子だった。
「いらっしゃいませ。こちらのカウンターにお座りください。」
と彼は優しく微笑み、席を案内した。低すぎず、落ち着いた雰囲気の聞き心地のいい声。彼の雰囲気自体がどこか安心感がある。
案内された席に座り、メニューを見る。様々なコーヒーの種類にメロンソーダ、サンドウィッチなどの軽食が少し。あとはケーキ類が何種類かある。少し悩み、メニューとにらめっこする。
…どうしようか、オリジナルブレンドコーヒーは頼むとして、あとは…。
普段ならコーヒーだけにしていたと思う。でも今日はやたら甘いものが食べたい。ショートケーキもいいし、オペラもあり。でもそれ以上にどうしてもメニューの中にある、とあるケーキが気になる。もう既にその気分だし、口いっぱいにあの味が広がる。
「お決まりでしたらお伺いしますよ。」
と声をかけられ、
「オリジナルブレンドコーヒーを一つ。あとは…アップルパイ。アップルパイが食べたいです。」
ぽつんと呟き、思わず俯いた。
彼は一瞬少し驚いた顔をしたが、優しく微笑み、
「かしこまりました。オリジナルブレンドとアップルパイですね。少々お待ちください。」
と言い、かちゃかちゃとポットやカップを棚から取り出した。
テキパキと仕事をこなし慣れた手つきで準備していて、思わずじっと見てしまった。
「お待たせしました。ごゆっくりお楽しみください。」
とスッとケーキセットが出された。コーヒーの芳醇な香りにリンゴのコンポートの甘い香りが店内にフワッと広がる…はずが、リンゴのコンポートの香りと一緒に広がったのはコーヒーではなく優しくもどこかフルーティーな紅茶の香りだった。
「あの、私が頼んだのってコーヒー…のはずだったんですけど。」
思わず聞いてしまった。うまく注文が伝わらなかったのだろうか。いやそれでも彼は注文の時に復唱していたし、聞き間違いという事はないだろう。彼がミスをしたとは到底思えないし、少し疑問に感じた。
すると彼は
「お客様のご注文されたメニューを勝手に変更してしまい、大変申し訳ございません。僕がコーヒーを紅茶に変更したのも実は少し訳があって。それを聞いては貰えないでしょうか。」
どんな理由だろうと思いつつも聞いてみることにした。
「話せば少し長くなるのですが、実はそのアップルパイ、コーヒーでも全然美味しく感じることができますが、どちらかといえば紅茶の方がすごく相性がいいんです。今回お出しした紅茶が疲労回復やリラックス効果があるものなんです。それにお姉さん、もしかしてお仕事で相当お疲れなんじゃないかなと思いまして。お店の中に入ってきた時のお姉さんの様子が少々気になってしまって思わずお節介焼いてしまいました。余計なお世話だったらごめんなさい。」
更に彼は、
「実はこのアップルパイ、僕が作ったんです。僕、ちょっとお菓子作りが得意で。それに合わせた紅茶も色々フレーバーセレクトしたり、研究したりするんですよ。ただ、僕自身コーヒーに関してはあまり詳しくないのでこの喫茶店で受け継がれている秘伝のレシピ本を参考にコーヒーを淹れる練習しているんです。喫茶店で働いているのにコーヒー淹れることができないなんて怒られちゃいますしね。」
と言った。
…そうだったのか。そんな事実があったなんて。
正直意外だったし、なんでも完璧にこなしている様な雰囲気の彼がコーヒーを淹れる練習中だなんて。彼の練習している姿を想像してみたらなんだか微笑ましかった。
「そうだったんですね。正直最初紅茶が出てきた時は何かの間違いなのかなって、少し不思議だったんですけど、理由を聞いてそうだったんだって思いましたし、全然余計なお世話だなんて感じません。むしろ気遣ってくれて私は嬉しかったですよ?」
と本心をそのまま素直に言った。
「それに紅茶とアップルパイの相性の良さがどれだけいいか伝わりましたし、最近仕事と家の往復だけで苦しくてただ仕事だけこなして帰るって日々だったんですけど、このお茶の時間のおかげですごく癒されたし今日仕事頑張ってよかったなって心から思いました。本当にありがとうございます。」
すると彼はそっぽを向き、
「…ありがとうございます。そう言っていただけて光栄です。」
と照れくさそうに言った。
出来立てのようなほかほかのアップルパイを一口食べた時、一気に口の中にシナモンやバニラビーンズとたまご感ある優しい甘さのカスタード、リンゴのコンポートの味がブワッと広がった。そしてリンゴのコンポートに関してはリンゴのシャキシャキ感を残しつつ砂糖の甘さで誤魔化さずリンゴ自体の甘さを大事にしていて、でもしっかりじっくり丁寧に煮込まれているのがよく分かる。カスタードもただ甘いというわけではなくしっかりたまご感があってバニラビーンズの風味もあり素材の味を活かしつつ上手く調和されるようこだわって作られている。パイ生地もサクサクで食感の楽しさがあるし、ボリューミーで満足感がある。こんなに全体が上手くまとまっていて、尚且ついくら食べても飽きが来ず、食べ終わった後の幸福度が高くなるアップルパイが今まであっただろうか。更にアップルパイだけでなく、紅茶も普段インスタントで飲んでいる物とは違い、一口飲んだだけで優しい甘さが口の中に広がり、ほっとする美味しさ。アップルパイと紅茶が相性がいいというのも納得がいく。
アップルパイを口に入れ、一口紅茶を飲む。
「…ああ、美味しい。」
思わず呟いた。
すると彼は目をパチクリさせ、少し驚いた表情で言った。
「…お姉さん、涙が出るほど美味しかったですか?」
「……え?」
無意識だった。気づけば食べながらポロポロと涙を流していたのだ。
正直、なぜ自分でも涙が出ているのかわからなかった。でも、このアップルパイを食べて久々に食べ物を美味しいと感じた。社会人になってから、食事をするということがただ栄養を摂取する、ただ食べ物を食べるだけという一種の作業のように感じていた。特に美味しいとも感じず、お腹が空いたから食べる。ただそれだけだった。食事の時間にこだわりもせず、お腹が満たされればそれでいいという考えだった。家での食事も同様、空腹を満たすだけ。一人での食事ほど虚しく、寂しいものはないから。でも今日はただ純粋に何も考えずにこのお茶の時間を楽しむことができた。いつもなら時間に追われ、すぐ簡単に栄養を摂取できればいいかという考えのはずが今日は時間を気にすることなんて忘れていた。このお茶の時間がとても充実していて、その上とてつもなく幸せに感じて。空っぽの心が満たされていた。
…ああ、私、今すっごく幸せだなぁ。
冷めきった心がじわじわとあったかくなるような、そんな感覚がした。
少し上を向き、心が満たされていくのを実感したあと、俯き、涙が出そうなのを堪えながら陽毬は話し始めた。
「私、今の仕事が色々任せてもらえてすごく忙しくて、でも充実しているって感じていたんです。でも最近新人の子の教育や新しいプロジェクトを任せてもらえて私も重要な案件任せてもらえるって、嬉しかったけど一個一個の仕事がすごくプレッシャーで。私なんかに任せるなんてちゃんと出来るかなとか不安でいっぱいで。仕事と家を往復する毎日もほんと生きた心地しなくて。休みの日はせめて充実させようと思っても、平日の仕事の疲れを取ることに精一杯で何もできなくて。周りの同級生はすごく充実しているのに自分何やってるんだろうなってすごい虚しくなっちゃって。ほんと情けないですよね私って。」
彼とは初対面でこんな話するつもりなかったのに気づけば色々仕事の愚痴をこぼしてしまっていた。堪えていたはずの涙が、話せば話すほど止まらなくなる。
「私の人生、こんなはずじゃなかったのに。」
そう呟き、俯く。
「…僕は、お姉さんが何のお仕事をしているかは分かりませんが、日々誰かのために一生懸命バリバリ仕事をこなして、新しいプロジェクトとか後輩に仕事教えたりとか色々会社のために取り組んで頑張っている姿かっこいいなって思いますよ。決して情けなくなんかないです。むしろ毎日一生懸命生きているんだなって。」
優しく微笑み、彼は言った。更にこう続けた。
「お姉さんが取り組んでいる企画とかが今世の中の人の暮らしを支えていて、直接みえはしないけど色んな人がお姉さんの仕事によって助けられていたり前より便利だなって感じていたりするわけでしょう?それってすごく素敵なことだなって僕は思いますし、いつも頑張りすぎってくらい頑張っているんですから少しくらい肩の力抜くのもありだと思いますよ?」
彼の優しい言葉にますます涙が止まらなくなった。
「…そう言ってくださりありがとうございます。」
「いえいえ、少しでもお姉さんの心が軽くなったら嬉しいです。お姉さんの頑張りはきっと誰かがそばで見ていると思いますよ。」
全て完食し、一息ついたのでそろそろ帰ろうと席を立とうとした時だった。
「あのっ!おっ…お姉さん、その…またケーキ食べに来てくださいね!」
その言葉に対し、
「ありがとうございます。またケーキ、食べにきますね。今度はもっと紅茶の話も聞かせてください。久々に楽しかったです!」
と笑顔で返した。いつもの営業用の笑顔とは違い、久々に心から笑顔になれた。
まだあの優しいアップルパイと紅茶の余韻が残りつつもお店を後にし、歩き始めた。普段なら足取りも重く、帰るのも億劫になっているはずなのに今日はスキップしたいくらい足取りが軽く、満ち足りていた。きっとあのアップルパイと紅茶のおかげだろう。いや、もしかしたらそれだけじゃないのかもしれない。なんだろう、このあったかくほわほわした気持ちは。自然と笑顔になれる。陽毬はすっかり暗くなった夜の空を見上げた。
…また、あのお店行きたいな。
恋の続きは喫茶店で なのはな。 @Riira79
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