不滅の命灯

桜人 心都悩

不滅の命灯

濛々と、上がっていく煙を眺めた。

「おじさん、どうしてタバコ吸ってるの」

 隣のベランダから、中学生が尋ねた。その頬には大きな絆創膏がこれ見よがしについている。

「さあ、気分がすっきりするからじゃないか」

「何それ、タバコって健康に良くないんだよ」

 俺は鼻で笑った。正論好きのクソガキめ。

「この世界には正論なんかよりも正しいことがあるんだよ」

 正論好きのクソガキめ、口には出さなかった。彼は、フーン、と興味もなさげにベランダから見える景色を眺めていた。目の前を電車が轟音を鳴らしながら通り過ぎた。

「その絆創膏、どうしたんだ」

 クソガキの目は死んでいた。答えを言う前に、ぺりぺりと絆創膏を剥がす。

「もうとっくに血は止まってるんだ。つけてないと、また殴られるから」

 今度は俺が、フーン、と興味なさげに返してやった。クソガキはそのままベランダの手すりに顔を伏せた。肩が震えていたから、泣いていたのかもしれない。よく見ると彼の着ている制服は皺だらけだった。少し汚れてもいた。哀れで惨めだった。

「良い話をしてやろうか、面白い話、世界の核心に触れるような話だ」

 クソガキは顔を上げた。目元は赤くなっていた。何も言わなかったが、こちらを見つめてきたので、これは肯定と取っていいのだろう。もう一本のタバコに火をつけて俺は昔の話を始めた。


「十階上の部屋に、とある夫婦が住んでるんだ。あの女、俺の母親なんだぜ」

 彼は目を見開いた。それからじっと見つめた後、訝し気に目を細める。

「もしそれが本当なら、なんでおっさんはここに住んでるのさ」

「おっさんて言うなよ……捨てられたんだ。お前くらいの時に」

「じゃあ、おっさんはどう生きてきたん?」

「隣の気の良い親父が育ててくれた」

「へー、面白くない」

 煙草を一つ取り出した。あと一本しかなかったようで、チッと舌打ちした。マッチで火をつける。青い煙が立ち上がって、空の青さに吸い込まれていった。

「なぁ坊主、お前、幸せか?」

 はーッと吐いた。少年もまた、同じタイミングで溜息をついた。

「……幸せだよ、今日は母さんの誕生日なんだぜ」

 盛大にお祝いしてやるんだ、と少年は笑った。陰りのある笑顔だった。そうかい、と返した。


 翌日は雨が降っていた。どうにも外に出歩く気になれず、ベランダでまたタバコを吸っていた。昨日のムーンライトはもうコンビニでは売っていなかった。だから今日はサンライズ。火をつける前に咥えると、ミントのような清涼感。俺の苦手な味だった。

「今日は違うタバコを吸ってるの? 体に悪いよ」

 今日も正論好きのクソガキが、隣のベランダからひょっこりと顔をのぞかせた。

「良く違うってわかったな」

 そう言うと、彼はにっこり笑った。

「だって、匂いが違うじゃん」

 鼻がいいんだな、と思った。煙の匂いなんて俺にはわからない。咥える前のタバコの味くらいしかわからない。昨日のは甘かった、今日のはミント、それくらい。

「ねぇ、昨日の続き、話してよ」

 クソガキはにやにやと笑った。そういえば、こいつはいつも長袖のシャツを着ている。何かを隠しているんだろう、と思ったが詮索はしなかった。


「このマンション、千階建てなんだ」

 彼はまた驚いた。そしてすぐに、嘘だろ、と言った。

「なんでもすぐに噓だと思うなよぉ。信じたほうが人生得なことが多いから」

「でも損することだってあるだろ」

 鼻で笑った。吸い終わったタバコの吸殻を、近くにあった飲みかけのコップの中に入れた。少年に見えるように、右手で上を指さした。首が痛くなるほど見上げても、最上階は見えないほど上空にある。

「そういや、昨日、母さんは帰ってきたのか」

 彼は首を振った。眉は困ったように下がっていたが、悲しみを押し殺すように笑った。

「母さん、仕事で忙しいんだってさ。料理作って待ってたけど、大量に余ってる」

「そりゃあ良いな。丁度腹が減ってたんだ」

 少年は皿によそった料理を持ってきた。恐らく温め直してくれたのだろう、湯気が上がっていた。大口を開けてバクバクと口に放り込む。口から鼻を通って熱い空気が出ていった。

「……熱くないん?」

「んーあんまりわからないんだ」

「美味い?」

「あぁ、美味いよ」

 実を言えば、その料理が美味いのかはわからなかった。舌が麻痺していた。味がわからなくとも、腹は減る。黙々と食べていると、轟音を立てながら目の前を自動車が通り過ぎていった。排気ガスの匂いが鼻についた。

 料理を食べ終わると、美味かった、と言って少年に皿を渡した。少年は、お粗末様、と言って嬉しそうな顔をしていた。

「なぁ、健康に悪いんだろ。タバコって美味いのか」

「美味い不味いじゃないのさ。タバコを吸うのは」

 食後の一服。煙と排気ガスが混ざった。少年に一本差し出すと、彼はおずおずと受け取った。吸い方を教えると、咽ていたが、次第に慣れたように一本吸い終わった。

「おっさん、上の階にはどんな世界がある?」

「さぁなぁ。でもここよりも空気が薄いらしいから生きるのは大変なんじゃないかい」

「ずぅっとここで生きていくのは嫌だなぁ」

「坊主、お前さんが頑張って金を稼いだら、もっと上の階に住めるようになるさ」

 そう言って伸ばした手は少年の頭を撫でた。

「坊主、母さんが好きか」

「わかんない、最近帰ってこないんだ」


 雨が止むと生ぬるい風がぷうと吹き込んでくる。コンクリートの濡れた跡が、日の光に照らされて、段々と小さくなっていく。

「クソガキ、タバコ買ってきて」

 そう言って少し多めに金を渡した。

「タバコは大人にならないと買えないよ」

 渡した金はそっくりそのまま返された。

「……そうなのか。タバコの味を教えてやろうと思ったのに」

「この階でそんなに治安が悪いのはおじさんくらいだよ。好き好んで自分の身体を壊して、何が楽しいんだか」

「お前もお菓子とかジュースとか飲むだろ。あれだって健康に悪いらしいぞ」

 クソガキは、騙されないぞ、という顔をこちらに向けた。

「今日も、教えてよ、世界の話」

 つまらないと言っていたくせに、と心の中で唱えた。

「そうだなぁ、何処まで話したんだか」


「おっさんはどうしてタバコを吸うんだ?」

 健康に悪いんだろ、と言うと彼は困ったように笑って、いつも上を見上げた。

「腹いせさ。自分よりも上にいる人々が、少しでも不健康になればいいという、腹いせ」

「上に住んでる奴は、悪い奴らなのか」

「別に悪い奴じゃないよ。金持ちなんだ」

「金持ちだから嫌な奴なのか」

「ただどうしようもない気持ちをぶつける相手が欲しいのさ」

 それがただ、上の階に住んでる奴だっただけのこと。彼は今日、一箱吸い終わったようで、タバコを買って来いと金を渡してきた。タバコを買うには多すぎる金額だった。

 その日は確か、母親が帰ってこなくなって三週間たった頃だ。そろそろ家にあるお金も尽きそうだった。毎日ボロボロの服を着ていた。

「ついでに俺の飯も買ってきてくれい。駄賃に、お前も食いたいもん買ってこい」

 それがおっさんとちゃんと話した最後の記憶だった。タバコを買って帰るまでにおっさんは亡くなった。胸を押さえて、苦しそうな顔をしてた。随分と前から心臓が悪かったらしい。医者に喫煙を止められていたけど、やめなかったそうだ。

 おっさんの馴染みの人が、おっさんの遺書を見て俺を引き取った。ガキだったから、詳しいことは分らなかったが、その人の紹介で働き始めた。働いて、給料をもらうと、次第にこの世界が開けていくような気がした。

 母親が帰らなくなって、必要だった金は全部隣のおっさんが支払っていたんだそうだ。


 ベランダから下を覗く。高いところが得意ではない俺はクラッと眩暈がした。かつて間近で見ていた自動車道が見える。排気ガスにくすんで、どの車も錆が目立つ。

「……おじさんはどうして上の階に引っ越したの」

「俺を捨てた母親を追ってきたんだ」

「会えた?」

「いいや、とっくに俺の方が上の階に来ちまった」

 ある程度の給料がもらえるようなったから、引っ越した。上の階は見晴らしがよかった。空気も良かった。部屋も綺麗で、良いところだ。問題は電車の騒音が酷いことくらいだろうか。

「おじさんは、高速道路の階から昇ってきたんだよね」

「おう、どこもかしこもガソリン臭くって、最悪な場所だったよ」

「ここよりも?」

 隣のクソガキは一つ溜息をついた。

「僕は早くここから出ていきたい。上の階に住んでる奴が僕のことを馬鹿にしてくるんだ」

 下に住んでる人間は貧乏人なんだって、とクソガキは言った。その通りだ、とは言わなかった。

 電車が目の前を走る。ゴオオ、と五月蠅い音。車輪と線路がぶつかる金属音。ここに来たばかりの頃は、この音に慣れず眠れなかった。

「僕は、僕の家は、貧乏なんだって」

 その日、クソガキの顔には大きな痣が一つ増えていた。散々泣き腫らした目を擦った。手が触れてまた痛んだようで、目に涙が溜まっていた。痣は少し前に絆創膏を張っていた場所だった。珍しく腕をまくった服の下には、沢山の傷があった。

「良いことを教えてやるよ。このマンションは千階建てなんだ」

 そう言って上を指さした。随分登ってきたと思ったけれど、まだまだ最上階は見えそうにない。

「お前が頑張って、馬鹿にしてくる奴らよりももっと上の階に住めばいいんだ。上に住んでる奴には、下に住んでる人間の声なんか届かないんだから。いっぱい勉強できるようになって、いい会社に入って、誰よりも稼げば、もっと高い部屋に住めるようになるさ」

 クソガキは納得いかなそうに口を尖らせた。けれどその目には何かが宿ったようだった。

「僕、上に住めると思う?」

「知るか、お前次第だろ……でもそうだな、お前が上の階に住んだら、俺も禁煙するかな」

 もしも本当にそうなったなら。隣に住んでいる彼には不健康になってほしくないな、と俺らしくもない考えが浮かんだ。

「おい、クソガキ。お袋さんが好きか」

「うん、今日は僕の誕生日なんだ。今、ケーキを作ってくれてる。珍しく仕事を休んでくれたんだよ」

 俺は隣の部屋に住んでいたおっさんを思い出した。この階にはもう「そういう子ども」は住んでいない。

「……大事にしてやれよ」

 そう言いながら、クソガキの頭を撫でた。照れ臭そうに笑ってから、彼は家の中に入っていった。窓はピシリと閉じられた。

 またタバコを一本吸った。それは弔いの灯だった。


……。


「お兄さん、お母さんが怒ってたよ。タバコ臭いって」

「そうか、そろそろ禁煙しないといけないかなぁ」

 濛々と上がる煙を眺めていた。この階に喫煙している人は私しかいなかった。タバコは健康に悪いからだ。もうどの店に行っても、タバコは売っていない。ムーンライトもサンライズもない。それでも私はタバコを吸った。今日吸っているものが、下の階から持ってきた最後の一箱。

「お兄さん、最近引っ越してきたんだよね。どこから来たの?」

「そうだな。僕。面白い話をしてあげようか。この世界についての話だよ」

 目の前を宇宙船が飛び立った。隣の家の男の子は幸せそうに笑っていた。

「お兄さんは、電車が走ってるところから来たんだね」

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不滅の命灯 桜人 心都悩 @Sakurabit-cotona

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