第10話 居たい場所
城下は、人々で溢れていた。いつ訪れても、人々の姦しさに、奏は圧倒される。
ルーデンヴァールは商業活動が活発で、市外には様々な工房や商業ギルドが存在している。また、街路や水路が整えられており、公衆衛生も奏が住んでいた世界と遜色ない。
中世風の街並みで、けれど、景観の美しさは近世レベルに整えられている。
景観の美しさ、人々の活発さは、ルーデンヴァール王家の統治が素晴らしいものであるということを意味している。
実際、奏が視察に出かけた際に、ルーデンヴァール王家を褒め称える声を聞くことは多い。奏――聖女が現れたことも、ルーデンヴァールの統治が素晴らしいものだったからだろう、と口にする言葉を何度も聞いた。
とにかく、ルーデンヴァール王家は、人々からの好感度がとんでもなく高いようだ。
先に降りたフェリクスの手を借りて、奏は馬車から足を降ろす。城下街の入り口近くに馬車を止め、フェリクスと護衛の騎士を連れて、街中へ足を踏み入れた。
「いつ来ても凄い活気ですね」
「まあね。緑の季節の次、陽の季節は、もっと活気が多くなるよ。陽の季節は騎士の大会があるからね」
「騎士の大会? ですか?」
聞き覚えが無い、というより、想像が出来ない。
奏が首を傾げると、奏の手を取ったまま、フェリクスは肩をすぼめて見せる。
「陽の月、二十日は騎士による御前試合が行われることになっているんだ。といっても、披露する場所は王城ではなくて、それのために建てられた会場で行うんだけどね」
「へええ。凄いですね」
「凄いよ。魔法も使うからね。剣の刃自体は潰したものを使うのだけれど、それでも迫力がある。騎士の試合を見るために、様々な場所から人々が訪れるくらいだから」
フェリクスは滔々と言葉を続ける。説明するような口調だった。嘘が混じっている様子は無い――気がする。本当に、単純に、説明してくれているだけなのだろう。
だが、ここで『フェリクス殿下、嘘を吐かなくなったんだな』なんて思ってはいけない。今までが今までである。油断してはいけない。絶対にどこかに嘘を混ぜてくるはずだ。それを真に受けてしまったら、またフェリクスに「普通に考えたらわかるでしょ?」なんて笑われてしまう。
必ず嘘を見抜いてみせる、という気概と共に奏はフェリクスを見つめる。熱のこもった視線だったからか、フェリクスはすぐ、奏の視線に気付いた。
美しい虹彩の瞳が奏をじっと見つめ、僅かな間を置いてからす、と逸れる。眦を僅かに赤らめて、フェリクスは早口に言葉を続ける。
「何? そんなに気になる?」
奏が熱心に見つめるのを、騎士の試合に興味があるのだと思ったようである。まさか嘘吐くかどうかを見定めるために見つめていました、と言うわけにもいかず、奏は重々しく頷く。
実際、騎士の試合は気になる。
「そうですね。少し……いえ、かなり、結構、気になります」
「そう。じゃあ近くなったら、誘うよ。一緒に行こう」
「えっ。良いんですか? 職務は?」
フェリクスの言葉に奏は瞬く。今月、こうやって一緒に外へ出られたのは、『緑の季節は祭がないから暇だった』からだろう。
だが、陽の季節――つまり来月は、騎士の試合なるものが開催される。そうなれば、確実に処理すべき事柄は増えるだろうし、フェリクスも今月のように奏の付き添いなんて出来なくなるのではないだろうか。
「フェリクス殿下はするべきことがあるのでは……あ、待って、当日になって嘘だよ、とか言いませんよね?」
「キミの中の僕に対する認識を変えてくれない? 僕が一日も休まず働くような存在に見えるなら、尚更」
フェリクスは呆れたように瞳を眇める。確かに、フェリクスの言う通り、一日も休まず働く必要があるのであれば、フェリクスに対する負担がとんでもなく重い。
フェリクスが一日休んだだけで何もかも回らなくなるのであれば、それは確実に一個人に対する職責の範疇を超えているだろう。奏は頷く。
「――でも、良いんですか、私と一緒で」
「キミを他の誰かに任せたら、大変なことになりそうだからね」
フェリクスはふ、と息を零すように笑う。穏やかな笑い方だった。気の抜けたようなそれに、一瞬だけ奏は目を奪われる。
「……殿下って私のこと、手を離したら走り回る何かと思って居ませんか?」
「さあ。どうだろう。まあでも、五歳とは思っているけれどね」
おかしそうに言葉を続けられ、奏は唇を引き結んだ。……五歳に見える、というのは、少し前にフェリクスに対して口にした言葉だ。
あれから一月以上経っているのに、ずっと覚えていたのか、と思うと、とんでもなく根に持つ人なんだな……と若干末恐ろしさを覚える。奏は息を吐いて、軽く肩をすくめてみせる。
「奇遇ですね。私もフェリクス殿下のことを五歳と思っています」
「ふ。知っているよ。――じゃあ、五歳同士、離れないように手を繋いで居ないといけないね。キミも僕も、急に走り出すかもしれないから」
フェリクスの指が、すり、と奏の手の甲を撫でる。まるで見せつけるように重ねた手の平を持ち上げられた。きゅ、と絡まった指に力が込められる。
とんでもない理屈な気がする。思わず奏は呆ける。間を置いて、そうですね、と囁いた。
急に走り出すかもしれないから。そうやって、言い訳めいた言葉を心の中で口にする。
今は、そういうことにしておこう。繋がった手の平から伝わる温度に、何故かくすぐったさを感じながら、奏は笑った。
視察は順調に進み、様々な店や人々の話を聞いて回った。
奏とフェリクスが揃って視察を行うなんて、奏が引きこもりそうになっていた最初の頃以来だからか、人々は恐縮しきりといった様子で奏たちと話をしてくれた。
いくつかの店を回り、休憩を取ることになった。
昼時が近いのもあって、城下の活気は最高潮に達している。緑の季節は、日本で言うところの五月に近く、木漏れ日が柔らかく奏の肌を濡らしていく。過ごしやすい気候、という表現がぴったりだろう。
ベンチに腰を据え、そっと息を零す。そろそろお腹が空いてきた。
いつもなら、奏は視察において、食事を城下で買うことに決めている。視察に赴く際、お腹が空いたら王城へ戻り、食事してまた城下へ戻る――だなんて、手間のかかる行動をするわけにもいかない。
だが、今はフェリクスが一緒だ。フェリクスは奏が知る限り、二度ほど毒を盛られている。
奏にとって、外で食べるという行為は日常の延長線上にあるものだが、フェリクスにとってはそうではないだろう。出来れば戻って食べたいのではないだろうか。
「フェリクス殿下、一度城へ戻りますか?」
「うん? どうして?」
「……お腹空いていませんか?」
奏が問いかけると、フェリクスは瞬いた。そうしてから、ああ、と微かに息を零すようにして笑う。
「……僕のことを気にしなくても良いよ。好きな物を食べたら?」
「いや、それはなんというか、物凄く……嫌、というか」
奏は眉根を寄せる。お腹は空いているが、流石に同じようにお腹が空いているであろう人の目の前で、自分だけ食事する、なんてことは出来ない。
「キミって変な所で律儀だよね。大丈夫。もう十四年前の出来事なんだから、流石に僕も克服している。少しくらいなら、一緒に食べられるよ」
本当だろうか。もしかしたら嘘を吐いている可能性だってあるだろう。やせ我慢しているかもしれない。
そう思ってじっと見つめていると、フェリクスがふ、と息を零すようにして笑った。口元に手を当てて、「見過ぎだよ」と囁く。
「前にも言ったけれど――嫌なら嫌だと言うし、面倒くさい時は面倒くさい、と言う。そういう性格だって、奏も知っているでしょう?」
知っている。けれど、フェリクスが優しいということも、奏は知っていた。
「いや……でも……、……あの、一つ聞いて良いですか?」
「何?」
「聖女の力って、人相手だけじゃなく発動したりしますかね……?」
奏の言葉にフェリクスは瞬く。恐らく奏の言いたいことがわかったのだろう、フェリクスは視線を逸らし、それから観念したように「……前例はあるよ」とだけ言う。
奏は頷いた。ならば――奏が、食べ物に触れることで、多少なりとも『毒を盛られている』可能性を、払拭出来るのではないだろうか。
「なら、私、聖女の力をここでふんだんに使わせてもらおうと思います!」
「待って。絶対にそう言うと思った。やめて。力を使ったら、キミは体調が悪くなるんだから。僕に対して力を使う必要性は無い」
「ならない可能性だってあります。選んでください。一緒に食べるなら力を使います。一緒に食べないなら、私も食べません!」
言いながら、奏は笑みを浮かべる。フェリクスは困ったように瞳を動かし、小さく息を零した。
「お腹空いてるくせに。僕が食べないって言ったら、キミも食べないの?」
「食べません」
奏は頷く。もし食べない、と言われたら、奏も食べない。視察が終わったら城に戻り、そこで軽食を多少なり口に入れれば充分である。
お腹の空きにも波があるし、それさえ越えたら後は無の状態で過ごすことが出来る。多少なり我慢すれば良いだけのことで、問題は無いはずだ。
「……キミの体調が悪くなったら直ぐに言うこと。その時はすぐに帰る。それで良い?」
「もちろんです」
「キミってなんていうか、強いよね……」
フェリクスが吐息と共に言葉を落とす。どうやら、奏の――いわゆる我が儘を、今回は聞いてくれるらしい。
実際の所、今まで何度も城下で食事をしているし、手袋を汚すのが嫌なので食事の際は手袋を外しているのだが、一度も体調が悪くなったことはない。城下で、しかも足のつきやすい食べ物に、毒物を混ぜるような人達は存在しないのだろう。
だから、恐らく――今回も、問題は無いはずだ。ただ、絶対にそう、とは言い切れない所があるにはある。
だからこそ、触れて渡すことで、フェリクスが多少なり安心して口に含むことが出来るのならば、それは良いことだと、奏は思う。
「美味しいお店を知っているんです。一緒に買いに行きませんか?」
「はいはい。仰せのままに」
手を差し伸べて、奏は立ち上がる。フェリクスが少しばかり呆れたような声音で奏の手を握った。
奏の好きな店は、少し歩いた場所にある。様々な惣菜を売っているお店で、パンも売っている。
甘いジャムやクリームの入った菓子パンや、具だくさんの野菜や肉類がみっちりと詰め込まれたパンやキッシュのような食べ物もあり、品揃えが豊富で、いつ来ても新しいものを手に取ることが出来る。
店を訪ね、そこでいくつかのパンを購入し、奏は店先にあるイートイン用の椅子に腰を下ろす。フェリクスも同じように腰を下ろした。
手袋を外して、奏はパンを半分に千切る。ちょっとでも変に力をかけてしまったら、とろ、とした具だくさんのホワイトソースが中から溢れ出してきそうだ。
「どうぞ! フェリクス殿下!」
「……ありがとう。頂くよ。体調は?」
「悪くありません。むしろ今、物凄く良いです」
「そう。なら良いけどね」
フェリクスは静かに言葉を続けると、奏の手からパンを受け取った。そうして、端のほうからゆっくりと口に運び始める。奏も同じようにパンに口を寄せた。
「はあ、美味しい……」
「なら良かったよ」
軒先で、聖女と第二王子が二人してパンを食べている――というのは、なんだか珍しい光景なのか、行き交う人々がまじまじと奏たちに視線を寄せる。そのままパン屋へ吸い込まれるように入っていく人も多い。
聖女と第二王子が食べているなら自分も食べてみよう、といった所なのかもしれない。
「……こうやって誰かと外で食べるのなんて、久しぶりかもしれないな」
「そうなんですか?」
「そうだよ。僕を食事に誘う人なんて、ほとんど居ないからね」
奏はパンを咀嚼する。そもそもフェリクスは第二王子であるので、こうやって人々の間に入って食事する、なんてことは確かに少なそうだ。
晩餐会に呼ばれるとしても、それはごく少数の、気の知れた相手と食事をするのであって、不特定多数に見られながら食事をすることはあまり無いのかもしれない。
「すみません、誘っておいてなんですけれど、迷惑でしたか?」
「迷惑だったらそう言ってるよ。何度言ったらキミは安心するの?」
息を零すようにして笑い、フェリクスは首を振った。パンを食べ終えて、手元を濡れたタオルで拭く。そうしてぼんやりとした様子で、周囲に視線を向けた。
奏も同じように視線を向ける。沢山の人々が行き交う姿が視界を埋める。
子ども達や大人、はたまた家族であろう人々を見つめていると、不意にフェリクスが「キミは」と囁いた。
「元の世界のことを、思い出すことはある?」
「それはもちろん。多少なり、やっぱり愛着がありますから」
元の世界が今、どのようになっているかはわからないが、ここと同じ時間が流れているのであれば、そろそろ四ヶ月が経つ。
確実に会社からは父母へ連絡が行っているだろうし、失踪届も出されている可能性がある。家族のことを思うと、焦燥感のようなものがじっとりと泥のように足下に張り付いてくるような気がした。
帰らなくちゃいけない、と思う。多分それは、家族に対する責務だとか、今まで二十年以上過ごしてきた世界に対する、愛着のようなものがあるからだ。
奏の言葉に、何を思ったのかはわからない。フェリクスは瞳から一切の感情をこそぎ落としたようにして、「そう」とだけ言う。
掠れた声音だった。自覚して、感情を抑えつけているような声音だ。
「家族や友人、……恋人や大切な人が居たりしたの?」
「家族は居ましたよ。友人も」
「恋人は?」
「やけに聞いてきますね……。居ません、居ませんでした」
どうしてそんなに聞いてくるのか。わざと濁した所だったというのに。奏は首を振る。
フェリクスは口元に手を当てた。そう、と囁く声が僅かに弾んで聞こえる。
「フェリクス殿下こそどうなんですか?」
「家族はキミも知る通り、兄上、父上。母上はボクが生まれた時に死去したよ。恋人は居ない。そもそも王家に類するものに自由恋愛が許されると思う?」
さらさら、と物凄く重い言葉があふれ出てきて、奏は一瞬呆けてしまう。どう考えても日常会話のついでのような形で口にするような話ではない。
奏は眉根を寄せる。
「……暴食をします」
「どうして」
「フェリクス殿下がご自分のことを大事にしていない気がしたので」
「何それ。どの辺りが?」
「全部。全部ですよ!」
ぐ、と拳を握ると、フェリクスは笑った。そうして「キミって本当、馬鹿みたいだよね」と続ける。
喧嘩を売っているのだろうか。奏はフェリクスを見る。だが、言葉の強さに比べて、フェリクスが奏を見る目はひどく優しい。甘い感情を煮詰めたような、――熱された蜂蜜のような、美しい彩りが目にはいって、奏は息を飲む。
「そういうところ、可愛いと思うよ」
「……褒めてます?」
「褒めてるよ。褒めてる。でも、暴食はやめて。僕が、キミの保護責任を問われるから」
さらさらと紡がれる言葉は、穏やかに響く。鼓膜をそっと濡らすような熱を宿した声音に、奏はフェリクスを見つめた。
「なんにせよ、キミに帰りたい場所や、居たい場所があるなら、良いことだとは思うよ」
まるで、フェリクスには『帰りたい場所』や『居たい場所』が無いように聞こえる。いや、実際、そうなのかもしれない。
第二王子として生まれ、王位継承権を持つが故に毒物で暗殺されかけ、継承権を放棄したとしても王家に類するものとして、その身を狙われ続ける。
その心労は、計り知れない。
いつか、――いつか、フェリクスにも、大切な人が出来ると良い、と奏は思う。
その人の傍に居たいと思って、帰りたいと思う場所が。
「パン、美味しかったですか?」
「うん。そうだね。美味しかったよ」
「なら、ここ、また来たいですか?」
「機会があればね」
「……なら、一時的に、ここを『居たい場所』にしましょう」
奏の言葉に、フェリクスが呆けた顔をする。なに、と囁く声が耳朶を打った。
「居たい場所、帰りたい場所、いくつあっても良いですから。私にとって、このパン屋さんは居たい場所ですし、フェリクス殿下の傍も居たい場所ですよ。何せ、フェリクス殿下が自分を大事にするところを私は見守らなければならないので」
「……は。キミ、本当、急だよね。何もかも全部。聖女って、急に現れるし急に去ると言われているから、急なことをするのが得意なの?」
「し、失礼すぎやしませんか? 私も別に急に何かをしようと思ってしているわけではないんですけど……!」
なんなら急にこの世界に現れたのは、奏としても別に望んだことではないのだが。去るのが急だっていうのも、奏からしたらどうしようもないことである。
文句を言ってやろう、と奏はフェリクスを見つめる。
フェリクスは喉を鳴らすようにして笑っていた。心底楽しそうに、肩を微動させている。
そんなにツボに入る部分なんて、どこにも無かったような気がするのだが。思わぬ反応に、怒ってやる、という気持ちが一瞬にして萎んでいく。フェリクスは口元を隠すようにして笑い、それから「そうだね」と囁いた。
「ふ。あは。わかった。じゃあ、ここをとりあえず、居たい場所――帰りたい場所にしようかな」
「そうしてください……、あの、笑いすぎです」
「ごめん。でも、わかっている? ここを帰りたい場所にするなら、奏が居ないといけないんだよ。奏が居なければ、僕はパンを一つ食べるのだって不自由するんだから」
フェリクスは笑いながら言葉を続ける。だから、と囁くようにフェリクスは眦を赤く染めた。
「奏。傍に居て」
聖女としての力を求められているようである。奏は頷いた。
「出来る限り努力はします」
「出来る限り、じゃなくて、絶対に、だよ。わかっている?」
「わかってますって! 聖女の力に甘えてください!」
奏は胸を張る。フェリクスが一瞬、真顔になった。
「……キミって、なんて言うか、……何?」
「な、何って。人間ですけれど」
「実は違ったりしない?」
「なんてこと言うんですか!」
思わず声を上げると、フェリクスは笑った。
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