第2話 聖女は約定の元、保護される

 帰宅して、家の扉を開けたら、誰かの寝室に繋がっていた。

 そんなことあるだろうか、と思うだろう。奏もそう思った。だが、実際、そうなっていたのだから仕方無い。


 忘れもしない、一ヶ月前のことである。

 へろへろの体で帰宅し、ようやくベッドの上でゆっくり休める、という喜びを噛みしめながら後ろ手で扉を閉め、そのまま玄関の電気をつけようとしたら、電気のスイッチが無かった。

 おかしい、ここにあるはずなのに、と頑張って探すものの電気スイッチは見つからず、首を傾げた所にふわ、と何かが触れて、奏は一瞬でパニックに陥った。


 何、何、と慌てる内に、手足が何かにぶつかる。どうやら狭い場所に居るようだ。――どうして? 

 何がなんだかわからない。ただひたすら、この場から脱出を試みようと手足を動かしていたところ、何かを踏み、奏はその場で一瞬にして転倒をした。

 転倒のランキングあったなら上位を狙えるだろうというような、そんな素晴らしい模範的な転倒である。

 その勢いで、奏の前面にあったらしい何かを蹴飛ばす。瞬間、煌々とした光が、奏の目の前に現れた。


「な、なに――?」


 暗闇から、一気に明るくなった世界に、目がくらむ。泣きそうな思いで、ぼやけた視界を瞬きと共に鮮明にしながら、奏は周囲を見つめた。

 そこは、寝室だった。天井からシャンデリアのような灯りが吊り下げられていて、目の前にはベッドがある。そしてそのベッドの上には、男女が一組、居た。


「え……!? え!?」


 本当に何が起こっているのだろうか。帰宅したはずで、自分の家の扉を開いた瞬間、誰かの寝室にやってくる、なんてどう考えてもおかしい。物理法則的にも、というか、そもそも、奏は先ほど自分の家の扉に鍵をさし、そして扉を開けた記憶がある。ならば、開いた場所にあるのは当然、見知った玄関と、玄関に併設するようにしてあるキッチンのはずで。

 酒を飲んでいたなら記憶が途切れ途切れになる可能性もあるが、奏は完全に素面、どころか少し疲れた状態のまま帰宅したのだ。間違いようもないし、そもそも扉を間違えていたら鍵は回らないはずだ。


 ベッドの上に居た女性は、奏を見て目を丸くする。美しい青色の宝石を煮溶かしたような髪色をしており、目の色は鮮烈な赤を宿していた。恐らく薄着なのだろう、柔らかなレースを重ねたような衣服は豪奢で、少しばかり肌が透けて見える。宝石のあしらわれたネックレスを身につけており、そこには大粒から小粒まで、大小取りそろえた宝石が均一的にはめこまれていた。多分、ウン千万、もしかしたら億は行っているのではないだろうか、というような豪華さだ。


 女性の下には男性がおり、こちらも上等に仕立て上げられたシャツの胸元がはだけていて――二人ともまあまあな感じにはだけている。

 それらを見れば、これから行われるであろうことがなんとなく想像が付く。奏は、――情事が今まさに行われようとする最中の、誰かもわからない人の寝室にやってきたようだった。


「誰!?」

「え!? え!? 嘘! え!? すみません! え!?」


 絹を裂くような悲鳴に、奏の体がびくりと震える。

 何が起こっているのかはわからないが、このままではまずいことだけは理解が出来た。今の状況において言えば、奏は完全に不審者である。

 驚愕のあまり何も上手いことが言えず、奏は慌てて立ち上がる。そうして元居た場所へ視線を向けた。自分が転倒し、飛び出してきた場所――は、クローゼットのようである。どうしてクローゼットが。いや、それよりも、早く帰らなければ。


「か、帰ります、ごめんなさい、失礼しました!」


 慌ててクローゼットの中に入ろうとするが、上手くいかない。大人一人分以上の高さはあるクローゼットは、豪華な作りをしていて、中にはふんだんに衣装が詰め込まれていた。先ほど顔に当たったのはこれらのドレスだったのか、なんて場違いな発想をしながら、奏はクローゼットの背面に手を伸ばす。

 だが、そこにはノブも無ければ鍵も見つからない。――奏が閉めたはずの扉は、跡形もなく消え去っていた。


「嘘、嘘っ」

「だれ――聖女……?」


 不意に、男性の声が聞こえた。柔らかなそれは、テノールのように甘く響く。男性はゆっくりと上体を持ち上げると、着崩れた衣服のまま、奏を見た。

 美しい混色の虹彩が、奏を見つめる。その瞬間、まるで射すくめられたように、奏は動けなくなった。男性の瞳が、濡れている。どこか酩酊しているようにも見えた。


「聖女、なら、ここへ来て、触れて……」

「……殿下、何をおっしゃるのですか。無礼者、侵入者です! 誰か! 早く!」

「来て」

「来ないで!」


 男性の上に乗った女性が声を上げる。男性と女性、二人から発せられる言葉は相反するものだった。

 男性が、女性の悲鳴を気にした様子もなく、ゆるゆるとした動作で、奏に向かってまっすぐ手を伸ばしてきた。


(何……? どういうこと?) 


 頭が状況を理解出来ない。戸惑いで奏が体を緊張させると同時に、女性の声を聞き留めたのか、どこからか誰かが走ってくる音がする。足音のけたたましさからするに、恐らく一人や二人、といった人数ではないであろうことが察せられた。

 元の場所に戻れない。しかも、このままでは、恐らく奏を捕まえに来たであろう誰か、に、捕まってしまう。

 喉が震える。どうすればいい。どうすれば? わからない。何も、奏には。


 男性がぼんやりとした表情で、「ねえ、おいで。――来て」と、再度囁く。溺れる者は藁をも掴む、というが、これは、藁だろうか。わからない。もしかしたら触れた瞬間に、何かをされる可能性だってある。

 だが、それでも、奏には――逃げ場も、何をするべきかわからない奏には、男性の言葉が、助けを求めて居るようにも聞こえて。

 だから、ただ、望まれるままに、手を伸ばして、触れた。


 ――瞬間、ぞわ、と背筋が粟立つような感覚を覚える。指先から急速に体温を奪われていくような、寒気にも似た感覚があった。

 奏が息を詰まらせる。風邪を引きかけの時に感じる、気だるさが足先から頭にかけて走る。それと同時に、男性が、ぐ、と奏の手を握り絞めた。


「……凄いな、本当に聖女だったの、キミ」

「は……、……?」


 歯の根が合わない。急激に周囲が寒くなったような気がする。思わず手のひらで肩のあたりを擦る。暖が取りたくて、仕方ない。

 男性は先ほどまでの気だるげな様子を一変させた。呆けた表情で男性を見る女性を見て、「退いて」とだけ言う。


「フェリクス殿下、そんな、先ほどまでは――」

「二度はないよ」


 静かな言葉だった。女性がびくりと体を揺らし、男性の上から退く。男性はゆっくりとベッドから体を下ろすと、奏の傍に腰を落とした。


「失礼するよ」


 一言、断りを入れてから、奏のことを横抱きする。

 寒気の滲む体に、暖かな温度が滲んできて、奏は思わず男性の体にそっと手を回した。すがるように指先で掴むと、男性が微笑む。


「寒い? ごめんね、僕の不調を貰っちゃったから、だろうね。大丈夫、キミは僕が保護するから。安心して」

「フェリクス殿下……! その女は侵入者です、殿下の御身が……!」

「危ない、っていうなら、さっきまでの事態の方がよほど危ないよ」


 フェリクス殿下、と呼ばれた男性はけらけらと笑う。そうして、奏の背を優しく撫でながら、「ありがとう、助けてくれて」と囁いた。

 殿下? 誰が? いや、目の前の男性が殿下、なのは多分、間違いもないのだろうけれど。そもそも助けてくれて、とはどういうことなのか。


 奏は僅かにぼやけた視界の中で、自身を抱き上げる男性の顔を至近距離で見つめる。美しい顔だった。特に瞳が目を引く。虹彩の色が上下でグラデーションのように変わっていた。奏が今まで、一度も見たことのない彩りをしている。白いシャツは少しばかり皺が寄り、襟の部分には美しい藍色の糸で刺繍がされていた。光を帯びると、それ自体が発光しているかのように輝く。

 幻想的なまでの虹彩に、月の光を凝縮したかのような美貌。長い睫を瞬かせながら、男性は、指先で外されたボタンを元に戻していた。


 ――フェリクス、という名前は、全くもって聞き覚えが無い。いや、それどころか、彼らが身につけている装飾品の類いも、現代という時代にそぐわないものに思われた。

 その上、聖女、という言葉まで出てきた。聖女だなんて、奏の世界ではおいそれと他者に使う呼び名ではない。つまり、ここは、奏が居た、現代ではない――のかも、しれない。


「こ、ここ、どこ……」


 思わず喉を震わせると、男性――フェリクスが静かに笑った。「何も知らないって本当なんだね」と囁いて、「後で教えてあげるよ」と、秘密を口にするように、奏に聞こえるくらいの声量で言う。


「今は少し難しいかな。とにかく、外に出るまで口を閉ざして、何が起こっても、我慢しておいて。キミが話すとややこしくなるだろうから」


 何が起こっているのかはわからない。だが、目の前のフェリクスから、奏を邪険にするような気配は、一ミリたりとも感じられなかった。

 だから、もう――奏が出来ることは、フェリクスの言う通りにすること、だけだ。


 すぐ、扉の向こうからノックする音が聞こえてくる。

 恐らく先ほど女性が呼びつけた警らが到着したのだろう。何かございましたか、としきりに声をかける彼らに応えるように、フェリクスは悠然と動き、扉を開いた。

 まさか内側から扉が開かれるとは、思ってもみなかったのだろう。西洋風の甲冑を身につけていた人々は、フェリクスを見て驚いたように目を見開く。


「フェ、フェリクス殿下……?」

「うん。ごめんね、邪魔をしてしまって。帰るよ」

「お待ちになってください! 殿下!」


 女性が慌てて衣服を整え、フェリクスの傍に駆け寄ってくる。

 たおやかな指がフェリクスの服の裾を掴む前に、フェリクスは蠱惑的な微笑みを浮かべると、女性の耳元に唇を寄せた。


「――ここで引き留めたとして、もうキミの望む結果は得られないよ」

「……殿下……!」

「会食の際に出されたワイン、調べに出しても良いなら、引き留めてくれても良いよ。調べに出されたくないなら、通してくれる?」


 女性がしきりに視線を動かす。動揺が完全に顔に表れていた。ただ、ここで引き下がるわけにはいかない、とばかりに、赤色の瞳には苛烈な感情が宿っていた。険のある視線が、奏に向かう前に、フェリクスは手のひらを翳して、女性の視線の先を隠す。


「折角ドルービス伯爵の顔を立てにきたのに、こんなことになるとはね。付き合い方を考えさせてもらおうかな」

「殿下……っ、どうか、そんな、もう一度お考えください……!」

「失礼するよ。馬車は呼ばなくて良い。キミ達に任せたら、どんなことになるかわからないしね」


 さらりと言葉を言い捨て、フェリクスは奏を抱いたまま、階段を降り、そのままロビーを突っ切って外へ出る。

 人々は、誰もフェリクスに手を出せない様子で、困惑の視線をたたえながら奏達を見送った。

 美しく剪定された木々や花々が咲き誇る庭園を抜けて、門を出る。泰然とした態度を崩さなかったフェリクスが、はあ、と大きく息を零した。

 疲れを感じさせたような吐息だった。


「――もう良いよ、黙っていなくても」


 それと同時に、紡がれた言葉に奏は恐る恐るフェリクスを見つめる。

 視界に写るのは、神に愛されまくって作られたのだろうと思わんばかりの美青年である。月の光が空から落ちてきて、柔らかく輪郭を照らす。その様があまりにも幻想的で、ため息すら出そうになった。

 フェリクスは奏と目を合わせると、静かに笑った。


「それで、キミの名前は?」

「え?」

「さっきからずうっと僕のことを抱きしめて、体温を奪っていくキミの名前は? って聞いたんだ」


 なんだそれは、と思いながら、奏は小さく首を振る。確かに、先ほどまではずっと寒くて、とにかく男性から体温を分けて貰おうと躍起になっていたので、反論も出来ない。

 ただ、寒気も、風邪を引いたばかりの頃に感じる悪寒のようなものも、今は少しずつそれも治まってきた。歯の根がかみ合わない、ということも、もう無い。


「ごめんなさい、もう大丈夫です、下ろして下さい」

「それは難しい。窓からドルービス伯爵令嬢が見ているかもしれないからね。僕はキミのことを保護して帰るんだ、というところを見せつけておかないと」


 フェリクスは笑いながら、軽く肩をすぼめてみせた。そうして、吹っ切れたように笑う。


「ボクはフェリクス。フェリクス・ルーデンヴァール」

「フェリクスさん……、ですか?」

「ふふ。そうそう。フェリクスさん、だよ。キミは?」

「私は……、奏です。水森奏です」

「奏が名前?」

「そうです」

「そう。良い名前だね」


 奏、と囁くように言葉を口にする。吐息に乗せて紡がれる言葉は、美しく響いた。フェリクスは奏を抱き上げたまま、楽しげに奏、奏、と名前を口にして少し進み、それから「うん、折角だから、印象に残るような帰り方をしないとね」と言うと、指にはめていた装飾品を手に取った。

 そうして、宝石部分に強く爪を立て、かり、と表面を削る。


「な! 何して!」

「何って。ああ、これは、壊すためのものだからいいんだよ。大丈夫。ちょっと大きな魔法を使いたくて」

「大丈夫、って……いや、魔法? 魔法って、何……」


 何をもってして大丈夫と言うのか――と思った瞬間、フェリクスの体が不意に持ち上がる。


「え……?」

「王城まで、街路を歩いて行くのは目立つからね。空を行こう」

「は……? は?」


 何を言い出すのか、という言葉は、喉の奥に落ちていく。まるで見えない階段を上るように、フェリクスが一歩進む毎に、体が空へ上っていく。


「な、なに? 何が起こっているんですか? 何!?」

「何してると思う? 大丈夫、踏み外さなければ死なないよ」

「踏み外したら死ぬってことじゃないですか!」


 奏が息を詰まらせると、フェリクスは楽しげにする。フェリクスの足が動く度、その足下に水の波紋のようなものが広がる。硬質な、硝子か何かを踏むような音が聞こえてきて、奏はぞっとしない。

 何が起こっているかわからない。けれど、今の状況を夢でおさめるには、あまりにも状況や気配、それに息づかいがリアルだった。


「……夢、じゃないの、これ……こんな……」

「夢じゃないよ。現実だ。大丈夫、キミは約定のもと、保護される。――僕が、キミを保護し、キミの立場を堅牢にするから、安心して」


 フェリクスは軽やかに空を行く。足下には人々の営みの灯りが零れ、空を見上げると美しい星々が瞬いている。ミルクを散らしたように光るそれらは、手を伸ばせば届きそうなほど、近い。

 風がびゅう、と耳元で逆巻く。奏の体をくすぐるそれらは、フェリクスの言う通り、とてつもないくらいの現実味を叩きつけてくる。

 髪が空気を孕んで、揺れる。瞬きの度に、睫毛が湿度を帯びるのがわかった。


(帰宅して、ベッドで惰眠を貪る予定が……)

 

 ベッドでゆっくり休もう、明日は休日だ、何をしようかな、なんて気分を弾ませながら帰宅したはずなのに、ものの一時間でわけのわからない状況に遭遇し、今は空中散歩なんてものもしている。

 本当に理解が及ばない。けれど、だからこそ、眼下の光景が、そして奏を抱きしめる腕の強さが、ここを現実だと示す。


 こうして、奏は、異世界に転移した。

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