魔女は喰わせた時間と共に

@weekday

地主貴族と時計技師


      I


 じっと秒針を見ていた。

 爆音のような砲撃音が耳を圧迫する。整然と配置された重砲が硝煙を吐き出し、反動を抑制する懸架機構が鈍重な金属音を響かせながら後退する。

 泥と傷に塗れた手。そこに収まる懐中時計の風防にはひびが入り、鏡のように磨かれていたはずのケースも今では傷だらけになっている。盤上で動く三針だけは繊細で、この地獄にあってはあまりに現実感がなかった。

 野戦電話のベルが鳴る。連絡は前線の観測将校からだった。

「砲撃を開始しろ」 

 重砲の仰角が修正され、弾種も榴弾砲から緑十字のものに変更させる。

 砲撃が再開される。私は再び時計の針に目を落とした。

 砲撃に時間は欠かせない。

 我々の敵は遥か遠く、目視することのできない前線にいる。砲撃部隊は、綿密な砲撃計画を実行しつつも、流動的な状況に即応しなければならない。どの位置に、秒間何発当たりの砲弾を降らすのか。正確性に欠ければ敵兵に効果がないどころか、進軍する見方をも殺すのだ。

 故に時計は、その道具性以上の価値を持つ。

 少なくとも、第八旅団攻城砲兵第二連隊中隊長――セシリア・クライエル大尉にとってはそうだった。


      II


 サルベキア地方リモール領。クライエル家が治めてきたその領地は、今では別名〈時計の町〉と呼ばれている。町にはいくつもの時計工房とそれらを取り扱う店が集約されている。

 時計産業がこの町で発展してきたことには、もちろん理由がある。

 クライエル家は代々『時の魔女』と呼ばれていた。

 だがその名前に相応しかったのは、お祖母様よりもずっと前の話だ。他界した祖母も魔女を見たのは子どもの頃に一度きりだと言っていた。

 他の魔術師の家系と同様、クライエル家も時を経るごとに魔法を使うことができなくなっていった。有力な魔女であることを理由に爵位を授かった先祖は、世代を経るごとに衰えていく力に絶望しながら、それでも権威を示そうと、王侯貴族御用達であった時計に価値を見出した。時計学者や技術者を町に呼び込んだのだ。

 そして魔女は、この世から姿を消した。

 この世界に魔法は存在しない。

「私たちには責任がある」

 父は、私によくそう言って聞かせた。

「領主は、領地内のすべてに献身的でなければならない」

 大人になる前から、その考えが少し古いものであることを私は知っていた。農奴制はとうの昔に廃止され、今は資本家階級の時代だ。地主貴族の献身など領民にとっては鬱陶しいだけでしかない。

「その献身は、私たちの大切なものを犠牲にしてでも発揮するべきでしょうか」

「そうだ。私はこの地を発展させるためなら、蒐集した切手を売り払ったって……売り払ったって、構わ……いや、構わな……い……かもしれない」

 なんだか途轍もなく意志薄弱に聞こえたのは気のせいだろう。

 気を取り直した父は、幼い私に向かって慈しむような目を向ける。だがその表情は決して慈愛だけを映してはいなかった。哀しみと後悔が滲む。私の母は、私が生まれる時に亡くなっている。私への献身は、大きな犠牲を伴ったのだと、今ならその表情の意味を理解できるが、当時はただ純粋に質問していた。

「おいで、私の愛しいセシリア」

 そう呼ばれて私は父の膝の上に座った。

「魔法を使うときは、必ず代償を払う必要があったと言われている。魔法とは精霊との〝契約〟だ。精霊を使役する代わりに精霊が望むものを捧げなければならない」

 代償については、家に記録が残っていた。

 魔女は、精霊に自身の時間を喰わせたという。

 それは、こんな話だ。

 ある時、王様が幼くして病で亡くなった娘を甦らせるように魔女に命じた。魔女は見事に娘を甦らせ、見返りに領地を受け取った。しかし次の日には、王様も娘も、誰一人として魔女の存在を憶えてはいなかった。それは魔女自身も例外ではなく、自分が王に遣える宮廷魔術師であることを忘れ、外見も子どもに戻っていた。

 魔法について触れると私が喜ぶことを父は知っていた。魔法には興味があった。数少ない文献を漁っては、解読の出来るはずもない魔法陣に目を輝かせた。先祖は使えて、私自身は使えないとなると尚更だった。

「相手が精霊でも領民でもそれは変わらない。領民を従わせるだけの権力を私たちは持っている。だから私たちには領民を正しい方向へと導く義務がある。それが献身という形で示されるのだ。これが領主と領民が交わした〝契約〟だ。分かるね?」

 父が同じ話をよく教え聞かせるように、私もいつも同じように最後は大きく頷いた。

 庭に植えられた楢木の枝に手が届くようになった頃、父は私を王立士官学校へ入学させた。入学手続きを一通り済ませたある日、父から買い物へと誘われた。入学準備をすでに済ませていた私の首を傾げる姿を見て、父は言った。

「時計を身繕おう」

 〈デュッセル〉という店の中は、驚くほど雑然としていた。壁や棚にある時計は、並べられているというより詰め込まれているといった方が表現的に適切だ。まるで草間で合唱する蟋蟀のように歯車の音が響いていた。店舗それ自体が機械仕掛けで動いているかのようですらあった。

「クライエル様、今日は如何なさいましたか? お時計のメンテナンスでしょうか」

「いや、時計を身繕ってもらいたい。私の娘にだ」

 店主はにっこりとして、私にどのような時計が入り用なのか尋ねた。やや頬のこけた初老の男だが笑うと深く優しい皺が口の端に寄った。

「王立士官学校に入学が決まったんです。懐中時計で、できるだけ堅牢で正確に時刻を示すものを見せてもらえますか」

「それはそれは。ご入学おめでとうございます。さっそくお持ちいたしましょう。一番の部屋でお待ちください」

 部屋はカウンターのすぐ脇にあった。

「先に入っていてくれ。私は手持ちの時計のことで店主と少し話がある」

 父にそう言われ、一人で部屋に入った。

 店主に要望は伝えたが、実際にどんな時計が軍人となる自分に必要なのかはよく分かっていなかった。堅牢性と正確性を求めるのは軍人だけではない。日用品として時計を使う人間なら誰もが要望する機能だ。

 ぶつぶつと思案しながらカウチに座って、ようやく私は部屋に先客がいたことに気が付いた。

 隣に座っていた同年齢くらいの赤毛の少女と目が合ったのだ。

「これは失礼した。すぐに出ていく」

「お前、あの落ちぶれた領主の娘だろ?」

「なんだと?」

「フンッ、如何にも世間知らずって顔つきだ」

 勝ち誇ったように出ていこうとする少女。苛立ちを抑えた私は、友好を示すため慎みを持ってそっと足を掛けた。

「ギャンッ!」

 思いのほか盛大にコけた少女はガバッと顔を上げる。何とまぁどんくさい転び方だ。実に庶民的!

「テメェ! やりやがったなッ!」

「醜い言いがかりだ。君が君の不注意で勝手に転んだだけだろう」

「上等だぜ。コラァ……!」

「本当のことを言ったまでだ」

 迎え撃つつもりで私は腕を組む。少女がすぐにでも飛び掛かろうというところで、

「サルマ! こんなところ何をしている。棚の上の掃除を頼んだはずだぞ」

 試着室のドアを開け現れた店主が少女――サルマ・デュッセルを叱りつけた。

「こちらはお客さんだ。何か失礼をしたんじゃないだろうな」

「客だってなら、あたしの組んだ時計を買ってけ。テメェにはもったねぇ商品だけどな」

「君のような技師の時計が使い物になるものか」

「よさないか、セシリア。ちゃんと謝りなさい」

 続いて入ってきた父に言われ、私は不貞腐れて黙り込んだ。

 結局、私たちは同時に謝らせられながら、部屋に用意されていた姿見越しに睨み合った。まったく不運なことに、初めて購入した時計よりも、この出会いの方が記憶に残ってしまっている。

 そういうわけで、私は士官学校に通う間も何度か〈デュッセル〉に足を運ぶことになった。修理やメンテナンスを依頼するためだ。

 そういう日は決まって、出迎える気もないくせにサルマが店番をしていた。


      III


 傘の縁から冷たい雨が滴り落ちる。遠景に見える山脈はすでに白く覆われ、その日も雪が降るだろうと言われていた。

 白い生花を一輪持参した私は棺桶に手向ける。一段掘られた場所に埋まられた棺桶の上に参列者たちの花が落とされていく。

 故人、ゲールト・デュッセルは病により永眠した。〈デュセル〉の店主、サルマにとっては、父親でありながら師匠でもあった。長く病気を患っていたことは聞いていたが、訃報は突然だった。

 参列者は大勢集まった。ほとんどが仕事上の関係者なのだろう。反対に親族は片手で数えられるほどしかいない。喪主はサルマが務めていた。出会ってから十年以上になるが彼女の家族事情は一度も聞いたことがない。

 ここ数年の間に、数多くある時計工房のひとつでしかなかった〈デュッセル〉は、法人登記され、事業規模を拡大していた。実質的に店を経営していたサルマがそう望んだのではない。生存していくにはそうするしかなかったのだ。

 町のあらゆる時計工房は頭を抱えていた。このまま家内工業として経営を続けるのか、それとも他のあらゆる製品同様に作業工程を機械化し、生産量の増加、低価格化を実現するのか。国外のいくつかの時計会社はすでに時計を工業製品として製造しており、リモールの時計技師たちは市場のいくつかをすでに外国企業に奪われていた。

「来てたのか」

「ゲールト氏には世話になった。私だけでなく、亡くなった私の父も」

 サルマの姿は教会の影にあった。傘を差さないでいる彼女の髪は湿気で少しくねっていた。

「火が消えるぞ」

 死者のように虚ろな眼をしたサルマが紫煙を吐く。その息が、彼女がまだ死者を送る側にあることを証明していた。

「覚悟はできてた。そのための準備もした。今の会社にだって親父はほぼ関わっちゃいねぇ」

「少し持っていろ」

 傘を持たせた私は空いた手で煙草に火を点ける。擦ったマッチの黄燐の匂いはいつもより少し強い。言い訳じみた言葉をかき消すにはよく合った匂いだった。

「だから、問題は何もねぇ」

「そうか」

 サルマの唇は震えていた。

 問題ない。問題ない。問題ない。

 社員に対して、弟子に対して、そして自分に対して、サルマはそう言うのだろう。無理にでも強がってそう言わなければならない。

 もはや〈デュッセル〉は、サルマと彼女の父親だけのものではない。

「まるで、目の前が真っ暗になったような感覚。そういうのは私も経験した」

「笑わせるぜ。お前に何が分かる?」

「部屋の電球が切れていて、スイッチを押しても点かなかった」

「本当に分かってねぇのかよ!」

「と思ったが、実は外から帰ってきたばかりでサングラスを外していなかった」

「テメェの事情なんざ知るかッ!」

 へし折られる寸前だった傘を取り返して、私も煙を肺に落とした。吐き出すと思考が少しだけ鮮明になった気がした。

「父が死んだ時、まるで暗闇の中に突き落とされたような気分だった。何にも掴まれない。誰も救い上げてはくれない。ただ永遠に闇が続いている。そういう気分だ。今のお前がどうかは知らないが、何かあれば私を頼れ。私がお前の手を掴んでいてやる」

 真剣に言ったはずが、次の瞬間、サルマは目を点にしていた。私だって慰めの言葉くらい掛けられる。

 しかし、サルマはすぐに吹き出した。お腹を抱えて目尻を拭く。何が可笑しい? と思いつつも言った傍から少し恥ずかしくなってくる。だが本心だった。

「はッ――お高く留まったお貴族様に何ができる?」

「その時になってから後悔しても手遅れだぞ」

 差し伸べた手を取るような人間ではない。失礼極まりない態度をあくまでサルマは崩さずに、

「でも、まあ……ありがとよ」

 急にそう言った。私は驚いて、指の先から煙草を落としかけた。

「あたしはもともと孤児だ。孤児院でも見放されてた。こんな性格だからな。引き取り手が親父に決まった時、アタシは院長にくしゃくしゃに丸められた紙切れだけを渡されて追い出された。そこに〈デュッセル〉の住所があったんだ。だからその時に比べりゃ、今までが幸福過ぎたんだ」

「それなら、もっと幸福になれ」

 幸福になることに気後れする必要はない。幸福が相応しくない人などいない。幸福なままハッピーエンドを迎えるべきだし、そうなるよう努力すべきだ。

「そうすれば暗闇の中も迷わない」

「暗闇って表現はあたしに言わせりゃあ抽象的過ぎる。てめぇは人の共感性に頼り過ぎだ。甘やかされてきた証拠だな」

「その話を聞いたからって、気なんか使わないからな。甘やかされて育った証拠をむしろ見せつけてやる」

 上等だ、とサルマは鼻を鳴らす。

「時間は目には見えないものだ。だから時間は、初めは暗闇の中にあった。だが時計技師は見えないものを見つめ、それをできるだけ正確で華やかに彩ろうとしてきた。あらゆる物理現象、あらゆる素材、あらゆる機構、そのすべてを持ってだ」

「過ぎた助言だったか」

「振り子の等速性はその名のとおり振り子時計に応用されてる。だが腕時計の登場で重力が及ぼす問題はより顕著になった。姿勢差はテンプに影響を与える。脱進機ごと型に収めて、キャリッジを周期的に回転させて縦姿勢差を均一化しようとするトゥールビヨンは魅力的だが機構が複雑化するおかげで日用品とはややかけ離れる。それならば高振動にしたほうが実用面で――」

「語るな語るな。鬱陶しい」

「まだカルーセルについて触れてねぇぞ。紙とペンがありゃエアリーの定理も図式してやるのに」

 翳りの中にいつもと同じ時計技師の彼女が見えた。きっと大丈夫だろう。ひょっとすると、本当に私の助けなど必要としていないのかもしれない。

 語り足り無さそうなサルマだったが、神父に呼ばれて去っていく。その時点で、彼女の目は静かに凪いで据わっていた。


      IIII


「すべての物事には原因があり結果へと収束する。その不可逆性を人は時間と呼ぶのだ」

 塩気のない豆のスープを啜る私の隣で、従軍記者のイザベラ・ローイズは泥で汚れた万年筆を指先で回しながら、困り顔を愛想笑いで誤魔化していた。

 その顔曰く、そういう話が聞きたくて、魔女について話して欲しいと言ったわけじゃない。

「精霊は因果律を超越した存在だ。代償として時間を喰われた魔女は、その喰われた時間分、因果律から放逐される。そうして、魔女が起こした奇跡だけがこの世に残り、原因となった魔女の存在は初めから無かったことになる」

 これは独自解釈だ。『時の魔女』について説明するとき、まずは時間について説明しなくてはならない。

 人は、因果律に囚われたままでしか時間を認識できない。故に魔女や精霊について説明するには、その律から説明を始めなければならない。

 詰まるところ、私は終始、魔女について話して欲しいと言われたから、それに応えたまでだ。

「分かりました分かりました。えっと、それじゃ今度は別のこと……その時計について聞かせてください。何やら大切な物だとか」

「大切も何も軍務上必要なまでだ」

「どこで購入されたんですか? 年季が入っているように見えますが、長く使われてるんですか?」

 将校は制服に始まり、細々とした備品まで自前で調達しなければならない。よってその持ち物にはある程度個性が出る。

 仕事熱心で少し変わったイザベラは、先ほどのうんざりとした表情とは打って変わって目を輝かせた。

「〈デュッセル〉という馴染みの店でだ。サルマという時計技師に調整を頼んでいる」

「サルマさんはどんな反応でした? セシリアさんが戦地に旅経つと聞いて」

「いつもどおりだったな。似非貴族のくせに本当に戦場に行くのかと悪態を吐かれた」

 大戦は、彼女の父親の葬式から半年も経たないうちに勃発した。かねてから見え隠れしていた戦争の兆しを、始めは誰もが楽観的に考えていた。国王も外相も報道上は直前まで参戦に否定的だった。だが実際は違っていた。

 国王が最後通牒を拒否した翌日、私は〈デュッセル〉を訪ねた。召集され戦地へ向かう前に時計のメンテナンスを頼みたかったのだ。時計を持ち込んだ次の日には、時計を届けてくれた。

 その時、サルマとは大した会話をしていない。取り留めのないことを一言二言交わしただけだ。

 別れ際に私は、行ってくる、とだけ伝えた。

 彼女は、知ってる、とだけ返した。

「ともかく、この時計についてはそれくらいの話しかない」

「いいですね。そういう話を聞きたかったんです。特にセシリアさんは話題に事欠かない人物ですから。噂になるのも納得です」

「噂だと?」

 私が喰いついてきたのが嬉しいのか、イザベラはにんまりと目を細める。

「あなたが魔女の末柄で、だからこそ不死身だと」

 初めからそれが訊きたかったのか。それを聞いて合点がいった。結論ありきで魔女の話を聞き出そうとしていたわけだ。

噂については小耳に挟んだことがある。それこそ、うんざりするような話だ。

 半年前、敵軍は、新たな歩兵戦術と新兵器によって押し込まれた戦況を打開しようと大規模攻勢を仕掛けてきた。戦場に安全地帯などない。私が率いる第三中隊を含め、数々の部隊が壊滅的な被害を受けた。数多くの部下が戦死する中で、私が生き残ったのは偶然でしかない。

「真実を語るべき記者が噂を信じるのか?」

 私は戦場で盲いた右目に触れて見せる。記憶が傷口を疼かせたわけではない。誤った情熱に燃える若き記者に、しつこくて目障りだ、と本音を漏らしてしまう前に何とか追い払いたかった。

「そうですね……また機会があればお話を聞かせてください」

 ぱたりとメモ帳を閉じると、イザベラは軽く礼を言って腰を上げた。記者として根掘り葉掘り聞いては来るが、決して道徳心に欠けた人物ではない。そこに付け込ませて貰った。

 私はやっと一息吐いて、支給された薄味のスープに口を付ける。

 不死身だの何だのと口にするその言外には、畏怖とそれに伴う歪んだ興味が含まれている。魔女は、世間的には忌み嫌われる存在だ。魔女の家系であることに誇りを持ってはいるが、そういう扱いをされるのは苦痛でしかない。魔女に未だ憧れがあるが故によりそうだった。

 何万発と弾丸をばら撒く機関銃、塹壕を越える戦車、空を飛び回る複葉機。重砲も馬ではなく、多くの場合エンジンで牽引する。それでもなお、戦場にはオカルトが溢れている。オカルト扱いされるのはうんざりだ。

「それと最後に、私が言うことじゃないかもしれないですけど」そう前置きして、イザベラが振り返る。「この戦争が終わったらサルマさんに会いに行ってくださいね。きっと寂しがってます」

「さっきまでの話で、どこにその健気さがあるんだ」

「セシリアさんってニブチンですよね」

 どうして断言できるのか。イザベラの脳内で湾曲されたサルマの姿に嫌悪して、意趣返しに忠告する。

「噂話も大概にしろ。誰もお前の書いたものなど読まなくなるぞ」

 私は、この戦争が終わった時のことについて考えてみる。偏屈なサルマの表情を久しぶりにはっきりと思い出した気がした。


      V


 眩い陽ざしを取り込む喫茶店では、誰もが日常へと帰ってきたような顔をしていた。少なくともその努力をしているように見えた。

 大戦は終わった。王国は勝利を治め、新聞社はその号外を刷り、私たち兵士は毅然としつつも満ち足りた表情で凱旋した。敵国の国境とは反対側に位置するリモールは幸いにしてほとんど戦火を免れた。

 枯渇していた物資が大戦前と同じように流通し始めてから約一ヶ月半。街は以前の活気をほとんど取り戻している。

「似非貴族は帰ってこねぇとばかり思ってた」

 路地に面した窓際の席で、通常営業のサルマを他所に私はアイスコーヒーに心を躍らせた。昔からコーヒーにはこだわりがあるが、戦場で飲んだ泥水のようなコーヒーに比べればどんな物でも一級品だ。

 サルマはフロートのアイスをせっせっと崩しながら食べ進めている。提供されたデザートスプーンに業を煮やしたのか、ディナースプーンを使ってより頬張ろうと目論んでいた。

「見ない間に多少は色気づいたみてーだな」

 ちらりと見たのは私の失った右目だ。これくらいの皮肉の方がむしろ心地いい。心配なら暇を出していたハウスメイドに散々された。そもそも今さら同情されても気色が悪い。

 私は、やれやれとため息をついて見せ、

「やっと私の魅力に気づいたようだな。あぁ、大丈夫。私は古参ファンもご新規様も差別したりはしない」

「違ぇよ。むしろ不気味になってんだ」

「メイドからはより威厳が出たと評判が良かったが」

「散々甘やかされやがって……」

「何だったら今やショーツより眼帯の方が種類は多い」

「揃え過ぎだ!」

「いや、むしろ下着のストックがあまり無いんだ」

「そんな情報いるかッ!」

 やや引き気味でもあるので、ところで、と切り出してコーヒーを一口。

「今となっては、私も悪いと思っている」

「……何が?」

 ピンと来ていないも当然だろう。ポケットから出した懐中時計の蓋を開いて、テーブルに置いた。ケースと風防は小傷にまみれているが、その運針は戦地に持っていく前と何も変わらない。正確に時を刻んでいる。

「初めて会ったあの日、君の時計は使い物にならない、と私は言った。戦場で壊れでもしたら、帰ってきて詰ってやろうと思ったが、この通りだ」

「今さらよく言えたもんだ。てか性格悪ぃな」

「戦場で時計は必需品だった。少なくとも私にとってはな。感謝してる」

「……まあ、時計を褒められて悪い気はしねぇ」

 そう言いつつ、サルマは窓の外へと顔を逸らした。顔はほんのり紅く、手が小刻みに動いてスプーンで無用にアイスを沈める。火照る顔の熱を冷ますようにストローで吸い込むと、やっと落ち着いたようだった。

「お前くらいだ。この町であたしを認めてなかったのは」

 サルマがニヤリと笑ったのを見て、それが言い過ぎでないことを私は悟った。

「戦争が始まってすぐ、聖ジェリコ教会の司祭から直々に依頼があった」

 この町にいる者で、その教会を知らない人間はいない。町で一番大きい教会だ。十六世紀に建設され、礼拝の時間には鐘楼から鐘の音が朗々と響く。

「時計塔の管理を任された。これから時計の修繕に修理、細かい調整までうちで請け負う。教会が無くなるまでは永久的に」

 それはまさに〈時計の町〉を象徴する公共時計だ。町の人々に愛され、それ目当ての観光客も多い。例え時計技師でなくとも、そこに携われるのは名誉なことだった。

 サルマは――〈デュッセル〉は、今やそれに値するだけの企業なのだ。

「去年の時計生産数は約二百万個、従業員は三千人以上、優秀な時計技師も多い。顧客は各国に大勢いる。今や没落貴族の顧客一人に構う必要はない」

「言うじゃないか。まあ、私は没落してないが」

「認めろってんだ。時代は変わった」短くため息を吐く。少し自虐っぽく。「……今や会社にあたしがいる必要もない」

 客が増えて店内が賑やかになり始める。時計の針はちょうど十二時。昼時になっていた。


      VI


 夕方から降り始めた雨が激しく窓を叩きつけている。机に向かった私は何となく胸騒ぎがして、積み上った書類の束に手を付ける気がしなかった。

 不動産事業を始めたのは、単純に貴族というだけでは生活ができなくなったからだ。財産税は所有する土地に賦課される。土地にかかる贈与税や相続税も今後さらに重税となるだろう。戦争に勝ったとはいえ、国は弱体化、国庫はすっからかん。国は貴族の財産に目を付けた。何もしないでいても所有している事実だけで出費は嵩む。差押を食らった貴族の話は何度も聞いた。

 もはや地主貴族というだけでは何の権威にもならない。財産的な面だけでなく、政治的な面でも然り。今は民主化の時代だ。

 それらの意味で言えば、没落貴族であることは認めざるを得ないし、サルマに詰られたところで返す言葉もない。

 ドアをノックする音がして、私は散々目が滑っていた書類の文面から顔を上げる。

「入れ」

「セシリア様、シュミット様がお越しです」

 入ってきたハウスメイドのドロテアは腕を濡らしていた。コートか何かを預かったのだろう。来客の予定はなかったはず、とぼんやりと記憶を浚う。

「通してくれ」

 了承すると、一礼して下がろうとするドロテアに割り込むようにして、初老の男が入ってきた。

 彼は、確か〈デュッセル〉の時計技師の一人。選ばれた人のみで構成される王立天文学会の会員になった奴だ、とサルマが自慢げに話していたのを思い出した。当然、本人には誉め言葉のひとつも伝えてはいないのだろう。彼女はそういう人間だ。

「師匠は、師匠は来てないですか⁉」

「どういうことだ?」

「いないのです。今朝方から!」

 息を切らすシュミットを落ち着かせて、近くの椅子に座らせる。段々と落ち着いてくると、礼儀正しく非礼を詫びた。

「一日見当たらないくらいで慌てることもないだろう。多忙であることは察するが」

「そうかもしれませんが、ただ一つだけ心当たりがあるのです。それがもし正しければ……師匠は二度と戻らない」

 慎重に口にするのは、そう確信する自分を否定するためのようだった。サルマのことを師としてどれだけ慕っているのかが口ぶりから垣間見える。

「つかぬことをお願いするのですが、クライエル様の時計を見せていただけませんか」

「時計だと……?」

「うちで購入いただいた時計です」

 脈絡のない要求に思わず訊き返したが、愛想笑いひとつ浮かべなかった。

 半ば気圧されるようにして、私は机の上に置いていた時計を手渡す。受け取ったシュミットの手は頑健な職人の手だ。ふとサルマを思い出した。

「この時計を師匠は誰にも触らせなかった。師匠は、クライエル様の専属技師でした」

 ポケットから手のひらに収まるほどの工具を取り出すと、何の迷いもなく手にした時計の裏蓋の隙間にそれを突き立てた。

「何をしている!」

 叫ぶと同時に時計の裏蓋が外された。機構が露出し、止めようと伸ばした手が寸前で制止する。

 私は、絶句するしかなかった。

「開戦直後、この時計が持ち込まれた時、当然、調整は師匠が務めました。師匠は作業場に籠り、夜通し作業をしていた。私はそこで偶然見てしまったのです。〝契約〟の一部始終を……」

 古い記憶が呼び覚まされる。子どもの頃、父親の本棚に並んでいた分厚い本を手に取って開いた時の記憶だ。

 顔すら知らない先祖と、その先祖が使用していた魔法についての記録。

 時計内部の薄い歯車とプレートに刻印されているのは、『時の魔女』による魔法陣だった。


      VII


 トレンチコートを羽織って私は屋敷を飛び出した。シュミットと二手に分かれ、区画ごとに探すが、街にはそもそも人の姿すらなかった。こんな雨が降り頻る中、ましてこんな夜に屋外に出ようとする人がそう多くいるはずもない。心当たりがある場所はすべて見て回ったが、見つけることはできなかった。

 最後に駅に向かった。これだけ探して見つからないのだから、すでに街を出ている可能性はあるが、もしも今から街を出るなら汽車を使うかも知れないと踏んだからだ。

 雨の降る構内は不自然なくらい静まり返っていた。一部電灯が切れているのか、決して大きな駅ではないはずが、改札を抜けるとプラットホームの端は夜に呑まれていた。

 濡れた髪が額に張り付く。身体はすでに重く冷え切っていた。

「なーにしてんだ? こんなところで」

 呑気なその声で背筋に電流が走った。ばっと振り返りかえると、トランクを下げたサルマが腰に手を当て立っていた。

 脈打つ心臓を必死に落ち着けて、何とか声にする。

「私に、嘘を吐いたな」

「どういう意味だ?」

「喫茶店で『帰ってこないと思っていた』と言っていただろ。私が死なないことは分かっていたはずだ……君が、そう望んだ」

 サルマを探しながらずっと考えていた。

 彼女は、何を願い、何を叶えたのか。

 心当たりが一つだけあった。

 戦場で、いつも私だけが生き残った。

「君は、時の魔女だな」

「ご名答だよ。時の魔女の末裔さん」

 トランクを置いたサルマは、一休みするようにベンチに腰を下ろした。

 私はまだ驚きを隠せないでいた。魔女がこの世にいるなんて、まだ信じられない。

「魔女になんか生まれちまったせいで人生最悪だった。散々謗られて気味悪がられて、結局は孤児だ」

「とりあえず握手、いやハグしてくれないか?」

「……は?」

「いや、だからハグしてくれ。どうして勿体ぶるんだ」

「聞いてたか今の話?」

「聞いてたとも。子供の頃からずっと憧れていた。何度、魔法を使う自分を夢見たか」

 両手を広げると、サルマは素っ気なくそっぽを向いてしまった。だがちゃんと両手は広げてくれている。

 私は、ずっと憧れだった魔女とハグをした。

 目の前にいたはずのサルマがそうであったことには動転している。でも、憧れの方が優った。

「それで、人生最悪の何だって?」

「やっぱり聞いてねぇじゃねぇか!」突き飛ばされて私はサルマから剥ぎ落とされる。「辞めだ。話す気にならねぇ」

「なら、私から訊いてもいいか?」

 隣に私も腰を下ろした。伸ばした脚の靴先で円を描く。これは魔女へではなく、サルマへの質問だ。

「戦死を免れたのは君のおかげだ。だが、どうして私を助けた?」

 たじろぐような表情は一瞬で、サルマはすぐに大きくため息をついた。背中を背もたれに沈めて、完全に諦めた。降参だ、といった態勢だった。

「親父が死んで、それからすぐにお前が戦場に行って、あたしに何が残されたと思う?」

「時計があるだろ。会社を抱えている。業績だって戦争特需で伸びたはずだ」

 実際、戦争が始まる少し前、〈デュッセル〉は時限信管を含む起爆装置の製造部門を分社化している。

「会社が何の役に立つ? あたしは親父から継いだだけだ」

「妙に悲観的だな。君を見て誰もそうは思わないだろう。無論、私もだ。きっとゲールト氏も」

「……暗闇だよ。それしか残らなかった」

 胸の内側がどくどくと痛んだ。掴んでいてやる、と言っておきながら、私はサルマを置いて戦場に行ったのだ。

「……どんな〝契約〟をしたんだ?」

 重く開いた口を遮るように、汽笛が鳴り汽車がホームに入ってきた。客車の扉が開いてまばらに乗客が下車し、やがて閉められるとホームを出ていく。サルマはこの汽車に乗るつもりだったのだろうか。

「幸福な時間をすべて。この町で私が過ごした時間すべてだ。それが精霊のご所望だった」

 驚きはしない。

 願いには、代償が伴う。

 小さい頃、父から教え聞かされたことだ。

 私は何も言えなかった。何か手立てを考えようとして、何も思いつかない。視線だけがホームと線路の間を彷徨った。

 願いは、すでに叶えられた。

 次は、サルマが契約を履行する番なのだ。

「この街で過ごした時間は、あたしの中じゃ奇跡だ。けどな、ここに残って次もそうなるとは限らねぇし、そうなるとも思えねぇ。……そのままにしてぇんだよ。例え何もかも忘れちまってもな」

 たっぷりとも、一瞬とも感じられる時間が無為に過ぎた。

 遠くからまた汽笛が聞こえてくる。サルマは今度こそトランクの柄を掴んで、ベンチを立った。

 引き止めようとしたが体に力が入らなかった。鉛のような無力感が指先にまで広がっていた。

「あたしは技師として時計塔に携わった。この町で一等古く、中は振り子時計になってる」

 振り向いたサルマは、にっと笑って見せる。

「暗闇はもう怖くない。あたしは時計技師だ」

 私は、時計塔の時鐘の幻聴を聞いた。

 それは戦場で目にした光景だ。

 銃弾を受けた兵士が泥の中に倒れる。砲弾が弧を描いて標的に命中する。悲鳴が上がり、血が流れる。

 すべてが暗闇に沈んでいく。私はいつもそこに立ち合った。

 そしていつか、右目は光を失った。

 暗闇の中で、鐘の音だけが辿るべき道を示した。

 光を失った私が迷わないように。

 玲瓏に響く鐘の音は、張り詰めつつも軽快に上昇し、天上の神の国にまで届く。

 祈りと祝福を携えて。

「紙とペンを持ってないか?」私は咄嗟に尋ねた。「何でもいい」

 急かされたサルマは、ポケットからペンを、トランクから本を取り出した。私は本の一頁目を破り、その白紙に走り書きをしてサルマのコートの裡に突っ込んだ。

「こいつを肌身離すな」

 貴族のくせにケチくさい餞別だな、と笑って、サルマは悪態と共に客車へ乗り込んだ。


      VIII


「後で少しだけ家を空ける。そろそろ時計を調整してもらわなければ」

 自室で仕事を片付けながら、机の上の懐中時計で時刻を確認した。最近は少し針が遅れ気味だ。

 〈デュッセル〉ですか、と尋ねるドロテアに私は頷く。常に持ち歩いている懐中時計の一切は、購入以来変わらず、シュミットという時計技師に任せている。先代の一番弟子で、葬式も彼が喪主を務めた。もっとも信頼できる腕の立つ時計技師だ。

「そういえば、セシリア様、ご存知ですか。イザベラ・ローイズという方の戦場体験記を。巷で流行っているんですよ。戦場で経験した興味深い噂話や小話をまとめているんです」

「あー……読んだことはないが、まぁ、知ってるよ」

 聞き覚えのある名前だ。すっかり忘れていた食い気味の彼女を思い出す。まったく奴も大成したものだ。少なく見積もっても、その内容の半分は捏造だろう。

 来客のベルが鳴って、ドロテアが玄関へ向かう。来客には心当たりがない。何かあったか思い出そうとしていると、すぐに部屋へ戻ってきた。

「少女がいらしてます。これを見ながら来たそうなのですが……」

 手渡されたのは、くしゃくしゃに丸められた紙切れ。私は首を捻るしかなかった。

「通してくれ。一応な」

 紙切れには、文字が走り書きされている。

 読み取りづらいが、確かにそれはこの屋敷の住所だった。

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魔女は喰わせた時間と共に @weekday

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