第五章 誇り高い漢 2
「不動産屋が恐がりだったんじゃないの? 契約には従うけどさ。大家さんは住んでくれって言うのよ。あれでしょ。事故物件表記がいやなんでしょ。……うーん、被害者のほうだけでも残っててもおかしくないけどね。半年経ってるし、もう弱体化してるのかも。だとしたら霧散するのも時間の問題。今度は本物の心霊物件をみつけてきなさいよ」
ごろごろとだらしなく床を転がっている。
この女は好みではない。おかしなことを喋っている。かかわりたくない。
悲鳴をあげさせてやりたいという気持ちも萎えた。
しばらく下の階ですごそう。外の空気を吸いたくなったので玄関に向かう。玄関ドアの下の細い隙間に身体をくぐらせる。
「ぎゃあああ」
しまった。人間に見つかった。大家の婆だ。
劣化して分解寸前のサンダルで踏みつぶされそうになったが股の下をくぐってやった。それから壁をよじ登って天井に至り、婆の顔の上にちょうどよく落ちてやった。婆は悲鳴をあげて尻餅をついた。巨体のくせに臆病だ。
ああ、早く成虫になりたい。成虫になったら、黒くつやつやとした翅で飛翔して顔面ダイレクトアタックしてやる。
しかし完全な成虫になるまで季節を一巡する時間が必要だ。そろそろ身体が窮屈になってきた。脱皮の季節か。早くビッグになりてえ。
おれは悠々と階段を使って階下に向かう。住んでいるのは女子大生。大学進学のために田舎から出てきたときは素朴だったんだろうな、と思う顔には、いまやクマが貼りついている。
「もう、死ぬしかない。死んでやる。死んでやるんだ。わたしをフッたこと後悔させてやるかんね」
薄暗い部屋の中で、女子大生は虚空に向かって叫んでいた。
机上のメモには、
『ホストに騙された。にっくきタクヤを怨んで死ぬ』
と書き置きがある。
これはわくわくしてきた。そうだ、後悔させてやれ。
女は錠剤を皿に山盛りにしていた。穏当な死に方だな。
ストーカー殺人と首つり自殺で死んだ死体は見たことはあっても、死ぬ瞬間は見たことがない。
かぶりつきの最前列で見物しようとうっかり身を乗り出したのがいけなかった。
「ぎゃあああ、ご、ごき……いやあ、あっち行って」
女は錠剤を鷲掴みにして投げてきた。どっかの国の刑罰で石打の刑ってのがあるが悪意が降ってくるようで恐ろしいな。かろうじてよけたが触角をかすめた。腹が立ったので錠剤をかじったら、なんだこれ、ビタミン剤じゃねえか。
「ぎゃあああああ」
女は手当たり次第にものを投げだしはじめた。ぬいぐるみ、ソックスくらいならまだいいが、皿やコップは勘弁だ。
おれは死にものぐるいでトイレに逃げた。
ドアノブを握る音が聞こえたが、ドアは開かなかった。
代わりにドアの下の隙間から細い管が差し込まれる。
シューーーー。
毒ガス攻撃だ。卑怯な人間め。圧倒的な体格差があるのだから素手で挑んでこい。
便器によじ登って水にダイブする。毒ガスがおさまるまでここで待機しよう。
いままさに死のうとしているときに一匹の虫に大騒ぎするなんて。
死んだあとはおれだけじゃない、ウジ虫や鼠にもかじられるんだぞ。
そうさ、あの日の二体の死体のように。おれはまだ幼齢の赤ん坊だったが、いい具合に腐乱しているのは一目でわかった。おっと、よだれが出るぜ。
首つりのほうは惜しかった。ハエが見つけるよりも先に発見したってのに、熟成を待っていたあいだに、遺族だかに嗅ぎつけられて持って行かれてしまった。
キーキー。便器の水溜まりに潜っていると、かすかに音が伝わってきた。
圧力がかかっているのか、水が揺れる。下水管は便利な通り道だが油断は禁物だ。強烈な水流に巻き込まれたら生命力の強靱なおれでも命が危ない。
トイレのノブが回った。血走った目の女が入ってきた。手に食品用洗剤を持っている。
「どこ、どこ行った……!?」
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