第二章 わたしが殺したあなた 7

「おそらくほかの魂と溶け合い、還元されて、大きなエネルギーの一部になっているはずです。次の命の源として生まれる時を待っていると思います。もっとも個々の意識はありませんけど」


 大きなエネルギーの一部になっている、という言葉は大いに慰められた。死ぬことは怖いことではないと思えてくる。


「あ……ら……」


 まるでせきを切ったように両目から止めどなく涙があふれてきた。


「ま、真裕美……!?」


 あわてた夫がポケットからしわくちゃになったハンカチを出して不器用に顔を拭いてくれた。裕福なのに妙にしみったれた夫を見て、くしゃりと笑いがもれる。恥ずかしさとうれしさと安堵とその他たくさんの感情がないまぜになって、涙がとまらないどころか鼻水まで垂れてきたので、ハンカチで鼻をかんだ。ハンカチにうつったコロンの香りを吸い込んで、ようやくわたしは、心から夫を愛しているのだと悟った。


「じゃあ、真裕美は誰も殺していなかった……ということですね。聞いたか、気に病むことはなにもなかったんだ」


 夫はほうと溜息をつくと、崩壊しきった顔を覗き込んできて、丸まっていたわたしの背を撫でた。背中と頬がじわりと熱くなる。


「ではわたしは夢を見ていたのかしら。誰かを殺した、などという恐ろしい夢を……」


 少女は無言でツツジの花を摘みとると、指先でくるくると回した。素朴でみずみずしいツツジは少女によく似合っている。

 ツツジの花言葉は『節度』『慎み』。とくにピンクの花は『愛の喜び』だったはず。


「あなたはたしかに殺しました」

「……誰を」


 ツツジの花に気を取られていたわたしは少女の言葉を理解するのに時間がかかった。

 ふいに首を絞めたときの嫌な感触がよみがえった。手が首にずぶずぶと沈むような、細胞がぶちぶちとつぶれていくような……。


「あなた自身を、です」

「わたし自身、を……?」


 少女はツツジの根元を吸うや、顔をしかめてすぐに吐き出した。


「三回忌にツツジを見れば息子さんを懐かしむのは自然なこと。前に進もうと言うご主人に同意しつつも、後ろめたい気持ちがあなたを引き裂いた。その破れ目からこぼれ落ちたよどみがあなたを襲った」

「澱み……」


 澱みとはなんなのか、もう答えを聞かなくてもわかっていた。ただ少女の言葉を待った。


「二年がかりで澱みと向き合えるようになったんです。自分で自分を赦せなくて、無自覚に苦しんでいたんですよ。あなたが殺したのは、あなた……の罪悪感です」


 ふいに一昨日の光景が脳裏で再生された。襲いかかってきたのは黒い喪服姿の自分自身。再生された姿は、しかし、もう恐ろしくはなかった。

 足下で塩垂れたツツジから視線を剥がして、隣で見守ってくれている夫を見上げた。

 どうしても確かめずにはおれなかった。


「夫を、愛してもいいんですね」


 気兼ねすることなく遠慮することなく、裕福な人だからと言い訳を並べる必要もなく、自身の計算高さを憎むことなく、自身を嘲弄することなく。

 少女はきょとんとした顔になった。


「なにをいまさら。もう自分を『イヤな女』だと信じ込むのをやめなさい」


「真裕美、外のパーキングのそばにタクシーを待たせているんだ。そろそろ失礼しようか」


 夫は気ぜわしげに少女と仙師さまに頭を下げた。


「あ、待って、お支払いをしないと……」

「代金はけっこうです。お祓いはしなかったので──」

「でもそれでは──」


 わたしと少女の声がかさなり、消失した。

 夫が財布から紙幣を取り出すようすを視界にとらえたからだ。両手を差し出して受け取ったのは仙師さまである。


「まいどありー!」

「仙師!」


 少女がたしなめる前に夫が口をひらいた。


「これはあくまでご足労いただいたお詫びです。お詫びが不要でしたら遊歩道をこのまま進んでください。若い人に人気のスイーツのお店があるんで、そちらに寄付をお願いします。いちごパフェが美味しいと評判ですよ」


 少女は目をぱちぱちとさせて、もごもごと呟いた。おそらく、ありがとう、と言ったのだと思う。

 仙師さまが「さあさあ」と少女の背を押して店に向かわせる。


「もう大丈夫だね。帰ろうか」

「待たせてごめんなさいね。あなたのことを愛しているんです」

「……二年ぶりに聞けた。知ってたけどね」


 夫に促されて踵を返したところで、


「仙師、それはレンゲツツジ。毒があるのよ!」


 少女の少し焦った声が聞こえてきた。


「わしらはどうせ死ねないじゃないですか」


 仙師さまのおどけた返答はきっと聞き間違いだろう。もう振り返ることはなかった。

 

(第二章 了)

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