第50話


クリスは良く犬と話した。

といっても、犬は話を聞いている(ように見える)だけで、頷く事はもちろん、吠えも鳴きもしない。


クリスが一方的に話すのだ。

話す内容は全て旅の間の話。

犬を本物のディヴィットに見立て、あの時はこうだった、とか、あれを決めたのは良かった、と話す。


リンダはグレナダに“男についての文句を言うのが一番だ”と言ったらしいし、グレナダはそれを受けて犬の名をディヴィットにした。

だが、クリスはディヴィットの文句を犬には余り話さなかった。

元々文句が数多くある訳ではなかったし、何だか本当に本物のディヴィットのような気がして、言い難かったのだ。


もちろんそんな事はないと分かっているのだが、気を悪くした犬が夜一緒に寝てくれなかったら、と思うと自然、口は重くなった。

だからグレナダが思い出したようにこう聞いた時に、クリスは返事に詰まった。


「クリス、その犬を相手に良くおしゃべりしてるようだけれど、文句も言ってるかい?」

「えっ…………とぉ………」


クリスは誤魔化す為に紅茶のカップを手に取り、口をつけた。

そのまま向かい側に座るグレナダを上目遣いで見る。

グレナダはテーブルの上に紅茶のカップを置くと、ふぅっと息を吐いた。

そしてクリスを見る。


クリスは一口紅茶を飲んで、カップを置いた。

悪戯がバレた時の気分って、こういうのかも?

クリスはそう思いながらグレナダの言葉を待った。


「言ってないんだね?あたしが何の為にその犬に“くそ忌々しい”名前を付けたのか分かってるのかい?」


くそ忌々しいって………

クリスは言いすぎだ、と言おうとしたが、その言葉を口にするのは流石にはしたないと思って止めた。

代わりに反論する。


「でも、グレナダ伯母様。私、ディヴィットに対して文句なんてないのよ。彼はいつでも私に親切で優しかった。感謝こそすれ、文句言うだなんて………」

「でも!あんたに耐え切れぬほどの苦痛を与えた。あんたの前で他の女を褒めるなんて、しかもそれが許嫁の事だなんて、許せる話じゃないだろう?」

「そうかもしれないけど。でもディヴィットは私が彼の事を好きだって事を知らなかったんだから、彼女の事を話すのはしょうがなかったと思うわ。それに許嫁がいるって事を知ってて好きになったのは私なの。私が悪いのよ」


グレナダは、ふんっと鼻を鳴らし、クリスの足元に座る犬を見た。

ちょっとだけ顔を顰めた後、クリスに目を戻す。


「だったらあんたはあの男に対して何の文句もないと?」

「何にもとなると………」


ない事もない様に思う。

本当にないのなら、別れも感謝も告げずに宿を出なかったろうから。


「あの男は世にもまれな聖人君子で、誰も真似できない程紳士だったとでも言うつもりかい?」


ディヴィットが“聖人君子”だったり“紳士”だったかと言われれば、それも違う様な気がする。

彼は血の通った人間で、初めは私を利用しようと、財布代わりにしようと近づいてきたのだから。


「ねぇ、クリス。世の中には、人の気持ちに鈍感な人間は山ほどいるよ。でもね、四六時中一緒にいて相手の気持ちに気付かない程鈍感な人間はそうはいない。確かにあんたは自分の気持ちを告白せずにいただろうさ。でもね、あの男はあんたの気持ちに気付いていたと思うよ」


グレナダの言葉にクリスは真っ赤になった。


「そんな……嘘でしょう?」


心の内を気付かれぬように笑みを作っていたのに。

それでも気付かれてたなんて。

あの努力はなんだったの?


「嘘じゃないさ。それに人は、その気になれば、いくらでも姑息で卑劣な事が出来るようになる。あの男はあんたの前で許嫁の話をし、あんたが苦しむのを見てたんだ。案外、楽しんでいたのかもしれないよ」


うぉん!と犬が吠えた。


犬が吠える事は滅多にないので、クリスは驚いた。

だが、グレナダは忌々しそうに犬を睨みつけた。


「うるさいねぇ。なんだい?お前があの男の代わりに何か言うつもりかい?だったら言ってごらんよ。クリスが苦しんでいるのを知らなかったとお言い。言えないだろう?だってお前は知っていたんだから。お前は自分の都合だけでクリスを傷付けたんだよ」


犬は黙って尻尾を巻いた。

クリスは犬が可哀想になって、グレナダに言った。


「グレナダ伯母様、この子は人じゃないわ。話せる訳ないでしょう。そんな風に言っては可哀想よ」


犬には自分が怒られている事だけが伝わっているはずだ。

何も悪い事をしていないのに。


「第一、この子を怒るのは筋違いってものだわ。一番悪いのは告白せずにいた私なんだもの。告白してきっぱりとふられる道を選ばなかった私が悪いの」


クリスは続けた。


「そりゃ、ディヴィットがリタの話をするたびに不愉快になったわ。もう止めてって何度口にしようとしたか分からない。でもね、大伯母様。ディヴィットが好きなのはリタなのよ。私じゃないの。それなのにそんな事言える訳ないじゃない。誰だって好きな人の事を話したくなるのでしょう?自慢したくなるのでしょう?」

「それはあの男があんたを傷付けて良い理由にはなってないよ、クリス。だってあの男はあんたが苦しむのを見ていたんだもの。苦しんでいるのを知っていたんだもの。あの男の唯一褒められる点は、あんたの気持ちに付け入らなかったってところだけだよ。傷付けはしたけれど、もてあそびはしなかった。そこだけさ」


グレナダは席を立った。


「でも、他は全てダメ男だ。いいや、クリス。そこは譲れないよ。あの男は結局、あんたを不幸にした。今もあんたを縛ってる。あんたがそこから1歩も踏み出せないのは、あの男の所為だ」

「グレナダ伯母様………」


クリスは悲しくなった。

ディヴィットの悪口なんか聞きたくない。


「もう止めて。お願いだから止めて下さい」


クレアは耳を塞いだ。

それを見てグレナダは息を吐いた。


「あんたを傷付ける気はないよ、クリス。でもね、この家に来てそろそろ4ヵ月。現実を受け入れて良い頃合いさ。まだ若いんだから」


グレナダはそれだけ残すと居間を出て行った。

クリスは俯き、耳を塞いだまま涙を堪えていた。

くぅん、と犬が鳴く。

そして鼻面をクリスの膝にこすりつけた。


「ぁあ、ディヴィット………」


クリスはゆっくりと顔を上げた。

犬はクリスを心配そうな目で見ている。

クリスはその首に腕を回して、犬を抱きしめた。


「平気よ、ディヴィット。グレナダ伯母さまだって悪気があってあんな事を言ったんじゃないわ。ただ………多分もどかしいのよ。私がまだ立ち直っていない事が。きっとそう。だからディヴィットの悪口を言ったんだわ。私の代わりに………」


犬は頭を動かして、クリスを撫でるようにした。


「慰めてくれるのね、ディヴィット………ありがとう」


クリスは犬から体を離し、犬の頭や顔を撫でた。


「なんて良い子なのかしら。最近ね、あなたが人だったらいいのにって思う時があるの。おかしいでしょ?」


クリスは流れそこなった涙の跡を消すように、にっこり笑った。

代わりに犬が、くぅんっと悲しげに鳴いた。

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