第36話


その夜、クリスはディヴィットの腕の中で眠った。

………ふりをした。

これまで3日間は嫌われた、と思い、胸が潰れそうで眠れなかった。

それでもほんの少しは眠っていた。

疲労がクリスを強制的に眠らせていた。

だが。

その夜は全くと言って良い程眠れない。


宿ではディヴィットもクリスを抱きしめたまま眠る。

だからクリスが起きている事をディヴィットは知らない。

クリスはディヴィットの鼓動を聞きながら、ある事を考えていた。

それは。


自分が“恋”しているのではないか?

という事について。


ディヴィットが“友達”と言った瞬間、クリスの心臓が飛び跳ねた。

あれは、まだ自分の事を“友達”だと言ってくれた喜びではなかった。

自分で“友達でいて”と言った瞬間、心臓が更に飛び跳ねた。

あれは、これからも“友達”でいられるという喜びではなかった。

どちらの時も、心臓が破裂するかと思うくらい痛くなった。

それまで感じていた痛みとはレベルが違う。

息が止まって、死んでしまうかと思うくらい辛かった。


そして思い出すのだ。

母が言った事を。

リンダがその身で教えてくれた様々を。

リンダは恋多き性質だったので、それに見合った数の失恋も経験していた。


あれは多分、リンダが12、3才の頃。


「聞いて、クリス!今日ね、突然、ドニーの事が好きになっちゃったの!だって私が転んだら、大丈夫?って優しく引き起こしてくれたのよ。でも、ドニーはずっと前からアマンダと恋人同士なのよぉ………」


そう言って泣き出す。


「だったら好きじゃなくなればいいじゃない」


そのクリスの言葉にリンダは涙を拭いた。


「そんな簡単には割り切れないわ。思い切って告白してもきっと玉砕よぉ。私、どうしたらいいのかしら?」

「それを私に聞いても無駄だって事も分からないくらいおバカになっちゃったの?」


クリスに“恋”に関する全ての知識を教えているのはリンダと母であって、クリスはそれを覚えているだけ。

二人が教えてくれてない事は、クリスには分からない。

アドヴァイスしようもないのだ。


「いいえ、クリス。分かってるわ。ただ話したかったのよ。好きな人に既に恋人がいるって分かってても、恋に落ちる事があるって、知って欲しかったの」


リンダはすんっと鼻を鳴らして、それからきらっと目を輝かせた。


「良い、クリス。こういう時は、三つの道があるわ。一つはすぐに告白して玉砕。これの良い所は、気持ちがすっきりして次の恋を探せる所ね。二つ目は黙って想い続ける。これはまぁ、お勧めしないわ。気持ちが塞ぐだけですもの。そして最後は」


リンダは一度言葉を切って溜めた後、一気に言い放った。


「奪い取るのよ!」

「は?なに?どういう意味?泥棒はダメよ、リンダ」


クリスは慌てた。

妹がおかしくなった、と真剣に思った。

だがリンダは、違うわ、とクリスの手を取って、落ち着かせる。


「奪い取るのはドニーの心よ。アマンダを好きじゃなくならせるの。そして私を好きにさせるのよ」


リンダはふふっと笑った。


「手は考えてあるの。アマンダは時々、ドニーに冷たい時があるわ。その時に私がドニーに優しくするのよ。それに私とアマンダじゃ、私の方が可愛いもの。きっとドニーはアマンダと別れるわ」


クリスは呆れたが、リンダは諦めなかった。

ただ2カ月ほどして、やっぱりドニーは好きじゃなかった、と別の男の子と付き合い始めて笑ったものだ。

あれはきっと、“奪う”事が出来なかったんだろう、とクリスは思っている。


こんな事もあった。

夜中、クリスのベッドにリンダが潜り込んできた事があった。

あれは確か、2年くらい前。

ドニーの少し後だったような気がする。

ということは、あの後付き合った子だったのかしら?


「クリス、クリス」

「……ん?リンダ………どうしたの?」


リンダは泣いていた。


「急に淋しくなっちゃったの………淋しくてどうしようもなくて……」

「良いわよ。リンダはいつまで経っても甘えんぼさんね」


クリスはリンダを抱きしめた。

その前にも時々リンダはクリスの元に来る事があった。

そんな時は大抵泣いているか、泣きそうになっている時で。

だからクリスはリンダを抱き締めて眠るようにしていた。


「あのね、クリス………」

「ん?」

「今日、ジャックと別れたの………」

「そう」


クリスはリンダの頭を撫でた。


「嫌いになった訳じゃないの。一緒にいるのが嫌になって………ほんの少し前まではジャックがいないと息も出来ないって思っていたのに………」

「そうね。ジャックが他の女の子と話してるだけで、怒っていたものね」


リンダはくすくす笑った。


「ヤキモチ焼いたの。私以外の女の子を見ないで欲しいと思っているのに、話すなんてありえないって、そう思ってのよ。話したでしょう?」

「えぇ。覚えてるわ」

「今日ジャックったら、また他の女の子の事を私の前で褒めたのよ。ジョアンナの黒髪はどうしてあんなにきれいなんだろうって。私、胸が焼けて焼けて。その前からそういう所があったの。ローラはなんて賢いんだろう、とか、マージの瞳の色は一言で言い表せないくらい複雑できれいだ、とか。それを聞く度にムカムカして、イライラして。でも嫌われたくはないから笑顔を作って。そういうのに疲れちゃったんだわ」

「“恋”って疲れるのね」

「そうよ、クリス。心がぼろぼろになる事だってある。でもね、それでも“恋”は良いわ。ジャックと一緒にいたらすっごく楽しかったんですもの。たまたま合わない所があって、それは残念だったけど」

「ねぇ、リンダ。その嫌だって思った事、ジャックに話した?」

「えぇ。そりゃはっきりとは言わなかったけれど……他の女の子の話は止めて私達の話をしようって………でも、やっぱり始まっちゃうのよ。そう考えたら、ジャックは随分身勝手な人だったのかもしれないわ。私の気持ちを慮ってはくれなかった。うん、そうね。別れて正解だったのかもね」


リンダは自分に言い聞かせるように、もう一度、正解だった、と言って、目を閉じた。

クリスも寝ようと目を閉じると、リンダがクリス、と呼んだ。


「なに?」

「寝る時に裸で寝るのは止めた方が良いわ。旅に出た時にきっと困る事になる。だって、野宿してる時に裸で眠れないでしょう?」

「まぁ、リンダ。私は服を着たままでも眠れるのよ。ただこの方がぐっすり眠れるってだけ」

「なら良いけど」


二人はくすくす笑って一緒に休んだ。

そんなことまで思い出して、クリスは少し気が紛れた。

リンダの言うとおりだった。

せめてシャツを着て眠っても熟睡できる様になってないといけなかったわ。

今だって裸に布団を巻いてディヴィットの腕の中にいるんだもの。

でもあの時はまさか自分が寝惚けて脱いでしまうなんて思ってもなかったけど。

クリスはくすっと笑う。


ディヴィットが身じろぎした。

慌ててクリスは寝たふりをする。

そろそろと上を見ると、ディヴィットはすぅすぅと寝息を立てている。

良かった。

起こしてない。

クリスは目を閉じ、ディヴィットの胸に耳を当てる。

とくとくと規則正しい鼓動が聞こえる。

ディヴィットの寝息に合わせ、自分も呼吸してみる。

吸って、吐いて。

吸って、吐いて。


そのリズムはほんの少しクリスのそれよりも遅かったが、クリスは、ディヴィットと同じリズムで生きているという感じがした。

ディヴィットと溶け合って、一つになっている感じがした。

とても幸せだ。

このまま息が止まっても良いと思うくらいに。

その事に気付いてしまった。


あぁ、とクリスは思う。

私はきっとディヴィットと“友達”ではいたくないと思っている。

ディヴィットと“恋人同士”になりたいと思っている。

ディヴィットにはリタがいるのに。

顔を見た事はないけれど。

話しにしか聞いた事はないけれど。

それでもディヴィットが彼女を好きな事は分かる。

彼女と早く会いたいって思っている事も分かる。

だからクリスはこう思う。


今だけ。


今だけ私にディヴィットを貸して、と。

リンダのように奪おうとしている訳じゃない。

告白してディヴィットを困らせる事もしない。

ただ。

想う事は許して欲しい。

すぐに返すから。

後少し。

旅が終わるまで後少しなの。

だから。


ごめんなさい。


クリスは表情の分からぬ赤い髪の女の後姿に謝った。

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