パッシヴ!卑怯者のフリッツとユーリが世界を壊すまでの
空堀 恒久
第0話
水桶のタオルを交換していた。汚れた水桶と一緒に中身をきれいなものに取り替えようと、タンスを確認し、洗い物とまとめて部屋に戻るまでの僅かな時間に、いつの間にかの来客か、気の知れたお姉さんが部屋に父さんが横たわる部屋に入るのが見えた。
「気分はどう?」
ユニーカは父さんへ、良くない感情をありったけに込めたいやみったらしい憤怒の声でただ機嫌を伺ったのだ。
彼女が父を嫌っているのは知っていたが、なぜ、偶然なのか意図的なのか、僕の居ないタイミングを探したように父へ向かう。なにかするのではないか? 不安を感じ扉に近寄ると、父がついに僕に向けることのなかった穏やかな声がした。
「悪くありません。これでやっと妻の下に旅立てるのです。これほど待ち遠しかった日はありませんよ」
父のその優しげな声を阻みたくなくて、僕は息を殺して廊下に立ちすくむしかなかった。
「……せいせいする。貴方がもう少しして死んだら、フリッツはやっと自分の人生を歩むことになるのだから、やっと死んでくれたというべきかしら? それとも、今のうちに死んでくれてありがとうって賛辞の言葉を送るべきかしら?」
病に侵され父の苦笑はどうしてか優しげで、
「ありがとう。フリッツのこと、あとは頼む」
なにか木材を殴った音がすると、ユニーカは怒声を上げる。そうか、父は死ぬのか。なら、僕の人生はここで終わりだな。
「貴様に……っ! そんなことを言う権利がっ…………! …………はっきり言っておこう。断る。ジークフリートは好きにさせる。この村を出て放浪の旅に出たいと言えば引き止めない。――――――」
やっぱり、終わったんだろうか? 僕がするべきことは、
視界が歪んでいると錯覚するほどのめまいと、おぼつかない脚を抑え、なんとか水桶をこぼさないように居間に戻って、曖昧になる平衡感覚が明瞭に戻るまでテーブルに手をついてバランスを保つ。
「ただいま」
声をかけるとユニーカは複雑そうに顔を歪めて僕を見て無理に笑う。
「ユニーカ、ありがと、代わってくれて」
「……あぁ」
彼女にたぶん、そんなつもりは無いとわかっている。だからこそ、こんな事を言われたら宛所のない苛立ちと肩で風を切って部屋を出る。
「フリッツ……俺は」
僕に向ける冷たくて苦しそうないつもの声色で呻く父は、いまここで今ここでただ一動く、果実の皮を向いて切り分けるために握った僕の手の刃物を見る。
「なに? 父さん」
「ずっと、お前には申し訳ないと思っていた。きっと俺は天国には行けないだろう。だから、せめて、いまからでもなにか、……できることが無いか? 一つでもいいから、罪を償わせてほしい」
きっと、僕は『嘘でもいいから僕のことを愛していたって言ってください。いままでの厳しい態度は将来を思ってのことだって、最後に一つ、罪を犯してください』と言いたかったんだと思う。それが言えたなら、僕はもう救われるだろうって知っている。
「そっか、アンタが苦しまずに死んでくれたら、きっと貴方は地獄で償う罪が多くなるんでしょう」
だけど……それはできない。僕の信じていたものを全部、
否定してしまうことになるから、それだけは、嫌だった。たぶん、こういうものを信念と言うんだろう。なら、僕の信念は『愛』なんだと思う。
「そうか、俺は地獄行きか、そうだな。お前を愛していたら結果は変わったのだろうか?」
「前にも言ったけど、アンタから愛をもらったら、僕のこれまでの人生のすべてが無駄と否定することになっちゃうって、……あの時は、ごめん」
「愛をもらう、か」
「母さんを愛していた貴方が、僕を憎むことを……誇りに思います。だってそれが――」
――――!
――……ッ。
…………?
今、何が起きた。
何が、どうなって、なぜ?
なぜ、僕の手にあった果物ナイフが父の喉に、父はそのナイフを握って……え、なんで……? いや、……え?
この手の赤い、ベタベタは父の喉から溢れ出ている?
僕はどこにいる? ベッド寝込む父の上に被さって、この手のベタベタを父の手の上から、
「っなんで! 誰か、ユニーカ! あぁっ!!」
ドタドタ音をたてた足音が近寄って、消える。
立つこともままならない僕を後ろから抱え込むのは、えっと……誰だっけ――――?
赤く汚れた僕の腕のベタベタと父に刺さる両腕に支えられたそれを順番に見て、僕を強く抱きしめてくれた。彼女の名前すら曖昧になる。
「あぁ、僕は……僕はなんて、こと、もう」
分からなかった。
なんで僕が父を殺してしまったのか。喉にナイフを突き立ててしまったのか、まるで理解が及ばなかった。
衝動的だったんだろうか?
わからない。なにも、息ができない。呼吸しているはずなのに、どんどん息が苦しくなって空気が胸に入るのが感じることができなくなる。
「大丈夫。私がいるから」
彼女の決心に満ちたその目は僕をにらみ、凍えさせる。軽蔑なんて話じゃない。彼女が居るからと言って、なにかがどうにかできる話じゃない!
「居ない。僕のそばにはもう誰もいない」
「私は味方だから」
「味方!? 味方だと! そう言っても、そういうふうなことを言ったコニアもゼフテロも僕をっ! みんなが僕を見捨てるんだ! ユニーカだって僕を捨てるんだろう!? 信じられるかよ!?」
親を殺してしまったんだ! 僕は、裁かれねば!! どうせ、こんな命……。
「大丈夫。大丈夫だから」
「もう、……なにも、僕は」
「私は貴方を捨てない」
「ユニーカも裏切ってよ! そうすれば僕も」
自暴自棄になって彼女に暴言を向けたというのに、僕を抱きしめる彼女の腕は僕の頭の後ろの方を優しく撫でてくれる。
「裏切らない!」
「僕は、…………どうすれば」
「私と一緒にいていいから」
目がユニーカとしっかりと合う。振り払って、傷つけるかと思って、僕は目をそらすことしかできない。
「もういやだ! 僕はどこにも居たくないっ!」
「だったら、どこかに行けばいいだろう!」
僕は、彼女の叫びになにも……言い返したくなかった。
「どこかに行きたくなったら出ていってくれ。だけど、決して自暴自棄にならないで、確かな自由意志をもった決断を示してくれ。そうでなきゃ……私がお前を縛り付ける。だから」
――――――。
ユニーカの証言により父は自殺したとされた。早々に遺体は火葬され、その姿を大人たちの多くは確認することなく形を失った。
あれでも、村の有力者であるユニーカの両親に懇意にしていた身の上だったために自殺であると言ってしまいさえすれば内々で辱めることのないようにと、随分気を使ってもらった。
いわゆる、箝口令にも近い、『禁句』だ。
そんなことがあって良いものか。僕は、父を……父は、僕が……、なんで、ユニーカは僕なんかを、こんな真似をして守ってくれるんだよ!
◆ ◆ ◆
あれから、半年以上たっても僕の犯行は明るみにならなかった。
バレないことで裁かれない罪悪感は日に日にたまり、こんな理不尽なことをする僕が生きても良いものか真剣になやみ、眠れない日も多かった。
普通に生活しているはずのここ数日の記憶も曖昧で、見た目にはもう正気に見えるらしい。
……何度か自分が父を殺したんだと打ち明けたこともあったが、気が狂ったんだとまともに取り合ってもらえずベッドにぐるぐるまきにされた上に精神が動かなくなる変な薬師を打ち込まれてユニーカに看病されて、糞便の始末までさせて申し訳なくて余計になにも言えなくなる。
ユニーカはこんな僕の狂行を隠すために、僕を狂ったことにしてまで甲斐甲斐しく世話をしてくれる。最近の僕は彼女が言っていた自由意志の意味を考えるようになった。
本日の持っている土地の農作業を終え、快晴の空が切り取られた木漏れ日の下で椅子の代わりに放置された作業台に腰掛ける。
「あんなに……なんで」
泥を洗い流し端に立て掛けた
「気が向かない。だが」
ほんの少し前まで情熱的に感情をぶつけていたその活版印刷で刷られた紙の塊に、いまでは常温ほどの熱意しか吐き出せずにいた。そもそも僕はなぜこんなものに情熱を向けたのか? 一つだってムキになってなんとかなった事なんてありはしなかったのに、ムキになってまた読もうと背表紙を撫でるように指を伸ばす。
【子供でもできる炎の魔術の使い方】――、本のタイトルに熱く、眩しいものを思うと今日の空のような不快感を覚える。
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