1.任務失敗

 カチリと手枷の嵌まる音が静かな寝室に響いた。

 途端、暗殺者の女性、クロウは全身の力が抜ける感覚に襲われる。


「(これは魔力封じ……まずいっ!)」


 得物の小振りな黒いナイフは部屋のすみに投げ捨てられ、懐から二本目を取り出そうにも腕には枷、体は馬乗りに押さえつけられ、魔力を発揮できない状態では跳ね除けるどころか体を動かすことすら難しい。

 柔らかなベッドは沈みこむように体を包み、固い床よりも拘束力が強いようであった。


 厳重な見張りを掻い潜り標的の寝室に潜り込むところまでは熟達した技術と“異能”持ちのクロウにとっては容易いことであった。


 ベッドの上、静かに寝息を立てている標的の男の細い首筋目掛け得物ナイフを振り下ろしたその時であった。

 標的の男が突然目を開き、まるで“最初から分かっていた”かのように振り下ろした手首を掴まれてしまった。

 ツーっと僅かに刃先の触れた白い肌から赤い線が垂れていく。


「ぐっ……」


 クロウは力を込め、ナイフを押し込もうとするもまるで万力に挟まれたかのようにそれ以上ナイフが動くことはなかった。


 逆に男の見事な体裁きで体勢を反転させられ、クロウはベッドに押さえつけられてしまう。

 ナイフは奪われ放り投げられてしまった。

 反撃か……異能による脱出か……ここまでの危機に今まで直面したことのなかったクロウはわずかに逡巡してしまった。

 それが致命的な結果をもたらしてしまう。


 あらかじめ用意していたのであろうか。

 魔力の発動を阻害する手枷を嵌められてしまい、異能どころか身体強化すら出来ない状態にされてしまったクロウは、自身がもはや逆転不可能な状態であることを嫌でも理解するしかなかった。


 捕えられた暗殺者の行く先は苛烈な尋問と死であることは明白であり、クロウには口を割らない自信もあった。

 しかしクロウは尋問に耐えるよりも確実な手を取ることにした。


「(父様ダディ、ごめんなさい)」


 クロウは奥歯に仕込んでいた自決用の毒の包みを一思いに噛み砕いた。

 苦い……死の味が口いっぱいに広がる。

 クロウは心の中で、幼い頃両親を失い、身寄りのなかった自分を育て技を仕込んでくれた“父様”に謝罪しながら、すぐに訪れる死を受け入れようと目を閉じた。


「君を死なせはしないよ」


 そんな言葉と共にクロウの唇を何かが塞ぐ。

 柔らかく暖かな感触に目を見開いたクロウの眼の前には男の整った顔と深紅の瞳があった。

 噛み締めた歯を割って舌が入ってくるのと同時、異様に甘い液体が口の中いっぱいに広がった。


「むっ……むぅう!」


 毒の影響か、男が身体強化を使っているのか、口の中に入り込んだ舌に噛みつくことすら出来ずクロウはされるがままに長い口づけを受け入れるしかなかった。

 口を塞がれ、無理矢理に甘い液体を少しずつコクリコクリと嚥下させられる。


 やがて、液体をすべて飲み干した頃、ようやく唇を離した男は朦朧とするクロウに優しげな声音で囁いた。


「僕たち皇族が万一に備え持たされている万能薬だ。小瓶一つで白金貨数枚ほどの価値があるが……君の為なら惜しくもない」


 体の中で致死毒と万能薬が作用しあっているのだろうか。

 心臓がドクドクと異様な程に高鳴っている。

 動悸と同時に襲ってくる強い眠気に意識を手放す寸前、クロウは男の……標的であった帝国の第一皇子、アレクセイ・フォン・ディオスクロイツの感極まった三日月のような笑みを見た。


「あぁ、ようやくだ。ようやく捕まえたよ、僕のクロウ。もう逃がしはしないからね」










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