第4話 今まで見えていなかったもの
アイリスが意識を失っていたのは、時間にして、ほんの数分だったようだ。
まもなく、アイリスは床の上に横たわったまま、ゆっくりと目を開いた。
見えてきたのは、自分を取り囲む人々の、さまざまな表情だった。
そこには、彼らの、さまざまな本音が見えていたように思える。
自分を断罪するエドワードの目には、自分に対する嫌悪感が溢れていた。
エドワードの後ろに隠れて自分を睨みつけるリリベルには、満足げな表情が浮かんでいた。
最近、エドワードはいつも自分に批判的だった。
いつも冷静で落ち着いている表情は、愛想がない、冷たい、無表情と言われ。
自分の意見を出せば、可愛げがないと言われる。
(彼の意向に添えるようにと努力はしたけれど……)
一方、リリベルは。
アイリスは、リリベルのことを思い出した。
王子妃教育と、自宅での家庭教師の授業もあり、あまり出席できなかったが、アイリスは貴族の子弟が通う、王立学園にも籍を置いていた。
そこで、確かにリリベルを見かけた。
『怖い。睨まないでください』
突然そんな風に言われて、涙ぐまれたっけ。
なぜ、見知らぬ彼女にそんなことを言われたのかわからなかった。
授業が始まっても、他のクラスに所属している彼女が、アイリスのクラスの教室に残っていたので、自分の教室に戻るように言ったら、「陰険、意地悪」と言われたのだった。
廊下で、突然、「わたしの荷物を壊さないでください!」と叫ばれたこともあった。
驚いて立ち止まると、「わたしに触らないで! 痛いです!!」と涙を流し始めたっけ。
冷たい大理石の床の上に横たわりながら、今まで、些細なことと流していた記憶をアイリスは思い出した。
そして気がつく。
アイリスは目を見開いた。
リリベルと2人きりで会ったことはない。
彼女の体に触れたこともない。
彼女の持ち物に触ったことも、もちろんない。
……そもそも、男爵令嬢のリリベルは、わたくしに自己紹介をしたことすら、ないのだ。
公式には、リリベルは、「わたくしの知らない人」。
なのにある時、彼女は突然言った。
『アイリス様、どうしていつも、わたしのことを睨むのですか!?』
思い出し始めたら、どんどん出てくるエピソードに、アイリスは自分でも言葉を失った。
……どれも、おかしなことをする方ね、そう思ってやり過ごしていたけれど。
今、得意げな顔をして、エドワードの背後から自分を睨みつけるリリベルを見ると、自分の考えが間違っていたと思う。
やり過ごしてはいけなかった。
リリベルは、目的があって、そうした行動を取っていたのだから。
ホールのざわめきが大きくなった。
アイリスの意識もはっきりしてきて、周囲の人々の顔も、わかってきた。
ああ、本当に、人って、いろいろな顔をしているのね。
アイリスは思う。
厳しい顔。
自分を侮る顔。
バカにする顔。嘲る顔。満足げな顔。
(……知らなかった)
(あなた方は、わたくしをそんな風に、思っていたのね)
一方で、アイリスは目を真っ赤にして泣き出した令嬢達に気づいた。
アイリスは仰天する。
(……??)
(えっ? どうして? なぜあなた方が泣いているの?)
(わたくしのことを、自業自得ね、と笑ったりしないの……?)
「ア、アイリス……!」
アイリスは、弱々しく自分の名前を呼ぶ、女性の声を聞いた。
(お母様……?)
アイリスは、忙しく目を動かして、両親の姿を見つけた。
お父様。お母様。
わたくしの両親は、厳しい。そう言っていいと思う。
お父様はいつも「お前がどう思ったかはどうでもいい。殿下のご意向に沿えるようにさらに努力しなさい」とおっしゃっていた。
お母様は勉強と行儀作法にはとても厳しく、妥協は許されなかった。
「侯爵家にふさわしい人間になりなさい」が口癖だった。
なのに、今はお母様は真っ青な顔で、今にも倒れそう。
そしてお父様ときたら、そんなお母様に気づかないほど動転した様子で、わたくしの方に駆け寄ろうとしているみたい。
(いつも落ち着いていて……動揺したところなんて、見たこともなかったのに)
アイリスは冷たい大理石の床の上に横たわったまま、不思議な感覚を味わっていた。
(ここからは、今までは見えなかったものが、よく見えるわ)
うまくいっていると思っていた婚約者の本当の顔。
関わりがないと思っていた令嬢の、悪賢い顔。
ただ、厳しいだけと思っていた両親の、動揺しきった顔。
そして、自分の本当の気持ちも。
アイリスは自分の心を見つめて、正確に読み取る。
婚約者であるエドワード王子に対しては、もう「未練はなし」
侯爵家の生活は、「未練はあるけど、まあ仕方ない。命には替えられない」
(んん、この姿勢も辛いわ。起き上がれないかしら)
アイリスは体に力を入れようとするが、やはり動けない。
その不快な不自由さに目が潤み、思わず目の前にいるエドワードをじっと見つめた。
すると、おかしなことに、エドワードがだんだん、慌てた表情になっていき、アイリスは驚いた。
(変ね? 自分の思う通りになったのに)
(これは、あなたが望んだことでしょう……?)
起き上がりたいけど、なぜか、頭が痛くて、自分では動けない。
* * *
その時、アイリスは涙が目尻に溜まった顔で、ふわりと笑った。
それは、美しいけれど、冷たい、完璧な微笑ではない。
儚げで、優しい、心からの微笑みだった。
アイリスは思った。
もう、婚約者もいらない。
侯爵令嬢の誇りもどうでもいい。
ただ、自分の心に楽に、生きていきたい、と。
(もう、いいや。嫌なことは忘れてしまいましょう)
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