温泉のはなし
カニカマもどき
温泉のはなし
旅をせねば。
それも、温泉旅行をせねば。
金曜日の仕事帰り、電車内でキャリーバッグを持つ人々を眺めながら、唐突にそう思いました。
そういうわけで。
翌土曜日の朝8時に、私は温泉街へとやってきたのです。
目の前の看板には、「おいでませ、
しかし、顔を上げてみると、温泉街の店舗はことごとくシャッターを下ろしており、おいでませ感がまるでありません。
道にも人っ子一人おらず、観光地にしては、いささか静かすぎるというもの。
まあ、訪れる時間帯が早すぎたのでしょう。
仕方がないので、まずは持参した魚肉ソーセージで小腹を満たすことにします。
飲み物を確保すべく、近くにあった自販機の麦茶のボタンを押すと、何故か、おしるこが出てきました。
そこで、今度はおしるこのボタンを押してみます。が、またおしるこが出てきました。
おしるこを両手に立ち尽くしていると、追い討ちとばかり、ネコが、お腰につけた魚肉ソーセージを盗っていきました。
「泥棒ネコ!」
ちょっとはずんだ声で言いながら、私はネコを追いかけました。
しかし相手はネコなので、容易に追い付けるものではありません。
やっとのことで追い付いてみると、ネコは既に魚肉ソーセージを平らげ、のんびりと毛繕いをしていました。
私はその様子を、20分ばかし眺めました。
さて、そろそろシャッターも開くころかしらと思って腰を上げると。
予想に反し、まだ全然開いていません。
私は、周囲に人が居ないのをいいことに、心のサンバホイッスルを吹き鳴らしながら、自己流のステップで温泉街を闊歩することにしました。
しばらく闊歩していると。
「ナイスホイッスル」
そんな声が聞こえてきました。
空耳でしょうか。
「ナイスホイッスル」
空耳ではありませんでした。
声の主は、何処からともなく現れた、梅干しみたいな顔のお婆さんでした。
「我が心のホイッスルが聞こえたのですか」
私の問いには答えず、お婆さんはゆっくりと、小さな店舗のシャッターを開け始めます。
その店舗にするりと滑り込み、にゅっと中から顔を覗かせると、
「いらっしゃい。ここは饅頭屋じゃよ」
と言いました。
私は質問を変え、
「この辺りの店は、何時に開くのでしょう」
と尋ねました。
「…………」
無言。
「……この近くの、おすすめの宿なんかも伺いたいのですが」
「………………ここは饅頭屋じゃよ」
お婆さんは、壊れたラジオのように、先ほどのセリフを繰り返します。
その瞳からは、「饅頭を買わない人間とは会話をしないぞ」という、強い意志が感じられました。
そこで私は、饅頭を10個買い。
それを、私が3個、お婆さんが4個、ネコが3個食べました。
「ここらの店は、土日はどこも開かんですじゃ」
口の端についた餡を拭いながら、お婆さんは残念な事実を告げました。
それから。
「温泉宿なら、ここから30分ほど歩いたところに、"じゃぶじゃぶ館"というのがありますじゃ」
そう教えてくれました。
私は、じゃぶじゃぶ館を本日の宿と決めました。
お婆さんが宿に電話を入れ、いつでもチェックインできることを確認してくれたので、さっそく出発です。
じゃぶじゃぶ館に着いた私を出迎えてくれたのは、なんと、先ほどのお婆さんでした。
でも、それはおかしいのです。
私は途中で追い抜かれた覚えもないし、お婆さんがテレポート能力を有しているはずもありません。
つまりこれは、秘密の抜け道か、双子のトリック。
私はそう推理しました。
それを話したところ、お婆さんは全く反応せず、私をさっさと宿泊部屋へ案内し。
「ごゆっくり」と言って、出ていってしまいました。
後でよくよく考えてみると、私は道中で、20分ばかしイヌを眺めており。
その間に、お婆さんに追い抜かれていたのでした。
お婆さんは、饅頭屋と女将と、二つの顔を持っていたのです。
それはそうと、じゃぶじゃぶ館はとても素敵な宿でした。
児童向け水遊び施設のような名前とは裏腹に、由緒正しい温泉宿という感じの雰囲気が建物全体に漂っており。
宿泊部屋も、きれいで落ち着いていて広々。
畳のほかに、小さい板の間のスペースがあり、そこのイスからのんびりと庭を眺めることができます。
私は、とりあえず荷物を置いて腰を下ろし、宿の案内の冊子を読もうとしました。
すると、ノックの音がして仲居さんが現れ、「温泉に入れるのは15時からです」と教えてくれました。
あと約5時間もあります。
なかなかの長さですが、まあそれは良いのです。
それよりも、他に気がかりなことが。
「あの。この辺りで、昼食を食べられるお店とかって」
「無いですね。土日はどこも閉まっております」
これはショックです。
すると。
「冷凍のうどんくらいなら、うちで提供できますが」
と仲居さんが言ってくれたので、私は、是非いただきたいですと答えました。
「3千円になります」
数分後、温めたうどんを手にした仲居さんがそう言うので、私は泣く泣く3千円を支払おうとしました。
「冗談です。これはサービスです」
私はほっとして礼を述べ、うどんの椀を受け取りました。
大変おいしいうどんでありました。
その後、私は、部屋に備え付けの浴衣に着替え。
案内の冊子やテレビのチャンネルを一通りチェックしてしまうと。
あとは、板の間のイスに座り、持参した『日本妖怪大全』をひたすらに読みふけりました。
気づいたら15時を少し過ぎていたので、大浴場に向かいます。
脱衣所でさっと浴衣を脱ぎ、なんとなく体重を計ってから、いざ浴場へ。
べらぼうに広くはないですが、良い感じの広さ。露天風呂もあります。
そして、源泉掛け流しです。じゃぶじゃぶです。
じゃぶじゃぶ館の名は、伊達ではありません。
湯船には、お爺さんが一人、浸かっていました。
はじめは石像か妖怪かと思いましたが、生きたお爺さんでした。
頭と体を洗った後。
私もいよいよ、湯船に浸かります。
はい。
……
…………
………………極楽。
この瞬間、世界には、ただ温泉と私のみが在り。
他の一切のものは、私の意識の中からその姿を消すのです。
お爺さんの、「ババンババンバンバン♪」という歌声が聞こえるのは、きっと気のせいです。
夕食です。
これもまた素晴らしいものでした。
固形燃料で温める小さい鍋のやつに、カニが入っていたり。
茶碗蒸しにもカニが入っていたり。
酢の物が三種類あったり。
デザートに、お手製あいすまんじゅうが出たり。
どれも美味しかったです。
食後はしばらく、お婆さんと将棋を指しました。
二度目の「負けました」を口にした後、私は部屋に戻り、脳内で一人感想戦をしながら就寝しました。
翌朝は、すっきりと目覚め。
これまた素晴らしい朝食をいただきました。
思いがけず登場した、焼きたてのパンがグッドでした。
宿の玄関付近で、お土産の饅頭を買います。
チェックアウトの精算のとき、仲居さんから「60万円です」と言われ戦慄しましたが、すぐに「冗談です」と言われたので、生き返った心地がしました。
仲居さんは私の反応を見て、嬉しそうに、いひひと笑いました。
帰り道でネコとイヌに会えたので、挨拶をしました。
無計画で、終始ふにゃふにゃとした感じの旅ではありましたが、なかなかどうして、良い旅だったのではないでしょうか。
【注】
この旅行記はフィクションです。
実在の人物、温泉、宿などとは一切関係がございませんので、そこのところをよろしくお願いいたします。
温泉のはなし カニカマもどき @wasabi014
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