第6話 良くないこと




 次の日の朝。



 心の支えだったその手にさえもイラつきを覚える自分がいた。



 その手首から先だけで一人の人間だと思えるくらい、自分勝手な愛と欲望を悔しいくらい上手に私の体へとこすりつけてくる。






 この手が本当に彼女の手だったなら……






 そう思うと涙がにじんできた。

 そんな私の気持ちも知らずに、腰から太ももへといつにもまして独りよがりにエスカレートして下りていくその手つきに、昨晩彼女に拒絶されたあの瞬間の記憶がフラッシュバックした。



 

 苦くて痛くて耐えられなくなった私は、とっさにその手を払いのけた。この三ヶ月、毎日受け入れ続けた手を初めて拒んだ。




 唐突な出来事にその手は少し戸惑いを見せたけれど、すぐに私の気持ちを理解したように、すーっと私の体から離れていった。




 どんなに思い込もうとしても、あの手は彼女の手じゃない。こんなことを続けても何にもならない。





 私はその朝、その手との決別を決意した。


 




 その夜、玄関前で鍵を開けようとしていると、



「あっ!中谷さんでらっしゃいますか?」



 斜め後ろの方から知らない声で話しかけられた。振り返ると、見慣れたユニフォームを着た見慣れないおじさんが、小さな段ボールの荷物を持って立っていた。



「いやー良かった!良かった!遅い時間じゃないといらっしゃらないって聞いてたんですけどね~、私もそう遅くまでは待っていられないもんですから、思ったよりも早く帰ってきて下すって助かりました!こちらさんで最後なんですよ!」



 一応『お客様』の立場の私に失礼なことを楽しそうに話すそのおじさんの話にはこたえず、どこかで予期していた不安が現実になったのかと怯えながら質問を返した。



「もしかして、三矢さんは辞めたんですか……?」



 私の口から出てきた言葉に少し驚いた顔をして一瞬固まった後、おじさんはその顔を崩して笑った。



「まさかまさか!今日は少し体調崩しましてね、急きょ早退したもんで、私が代わりに遅い時間指定のお荷物だけ預かったんです」


「……そうですか。それはご迷惑おかけしました」



 体調を崩したというのは私を避けるため嘘の可能性があるけれど、おじさんの話す内容からすると、もう完全にここへ来ないというつもりではないみたいだ。



 決して感じがいいとは言えない謝罪の言葉を口にしながら、内心私はほっとしていた。それと同時に、彼女とまた顔を会わすことを恐れている気持ちよりも、もう会えないことを恐れる気持ちの方がはるかに強いことを悲しく実感していた。



「じゃあこちら!」



 私が扉を開けるのも待たず、おじさんはへらへらとした愛想笑いで受領書を渡してきた。



「あの、今はんこ持ってきますから……」



 家の中からはんこを持ってくるその時間すら待ちきれない様子で、おじさんは自分の胸ポケットのボールペン抜き取り、ずいっと私に差し出した。



「これ!使ってもらって結構ですから!」



 私は返事をせずにそのペンでサインをし、ぶっきらぼうに受領書を渡した。



「ありがとうございます!じゃあこちら……」



 おじさんは荷物を渡しながら、



「お仕事遅くまで大変ですね!急かしちゃって申し訳ないです!少しでも早く帰って、なんとか眠る前の子どもに会いたくてね……」



 と、私の一連の当てつけには全く気づかずに、照れた素振りでそう言った。



「……間に合いそうですか?」



 私の問いかけに、目を細め腕時計をチラッと見ると



「家に着くのはあと二時間後だから……えーっと、お陰様でなんとかなりそうです!」



 こぼれそうなほど幸せそうにおじさんが答える。



 やっぱり彼女が今日ここに来なかったのは体調のせいではない気がした。昨日のことが原因で、それは私のせい。



 そのことが、何も関係のないおじさんと子どもの大切な時間を奪ったのかと思うと、ふいに後ろめたさを感じた。



「じゃあ失礼しますー!」



 ペコリと頭を下げて立ち去るおじさんを呼び止めて、私は片手にぶら下げたビニール袋から缶コーヒーを出して渡した。



「あの、良かったらこれ飲んで下さい……」


「うぁー!有難いです!すんません!」


「遅くまで本当にお疲れ様でした。あの、もし明日三矢さんに会ったら、『お大事に……』って伝えてもらえませんか? 」



 私がそう頼むと、おじさんは快く承諾をして急いで帰っていった。






***





 次の日の朝。




 いつもの時間になっても、あの手が私を求めてくることはなかった。



 昨日の私の拒絶に、向こうも心を決めたのかもしれない。




 私のしたことは間違いではなかった。




 それなのに、私の胸の中は後悔の気持ちで満たされていた。




 もしかしたら彼女は何かと理由をつけて、もう二度と家へは来ないかもしれない……。





 私はその寂しさを想像するだけでも、とても耐えられなかった。




 なのに私は、その日々を紛らす術をも自ら失ってしまった。






 乗り換えまではあと五分…






 あと三十分後にはいつも通りデスクに向かって仕事をしているかと思うと、車窓からの澄んだ青空にすらうんざりしていた。






 と、その時。






 腰の当たりにそっと手のひらが置かれた。






 その感触にいつものいやらしさはなく、まるでそんな私を慰めるようにただ添えられていた。






 私はたまらなくなり、思わず後ろに手を伸ばしその手を握った。





 突然握られた手は一瞬、驚いたように感じとれた。





 でもすぐに、私の心を包み込むように私の手を握り返した。






 五分の間、満員電車の中で顔も知らない者同士がただ繋がっていた……



 




***




 今日も来ないのだろうか……



 もう来ないのだろうか……




 もしもの時のために気取った格好をしたまま、落ち着かない気持ちでインターホンが鳴るのを待っていた。



 八時半を過ぎ、遅くとも回ることはめったにない九時を過ぎても、部屋の中にはつまらないテレビの音しかしなかった。




 今日は荷物自体届かないのかもしれない。




 九時半近くになり、ようやく諦めて着替えようかと立ち上がった時、部屋中に大きなインターホンの音が鳴り響いた。




 広くはないリビングの中、たった数歩を急いで画面を見る。そこには、たった一日ぶりなのに恋しくて恋しくて仕方なかった彼女の姿があった。



 覚束おぼつかない手でロックをひねり、チェーンをほどき、ゆっくりと扉を開ける。



「こんばんは。遅くなってしまってごめんなさい」




 元気が無さそうに彼女が謝った。




「もう……来てくれないかと思った……」




 感情を隠しきれない私の言葉に、




「お荷物がある限りお届けには来ます」




 と、少し距離を置くような返事が返ってくる。




 寂しさを感じながら、その態度も仕方ないことだと自分に言い聞かせた。




 彼女を欲するあまり起こしたあの行動は間違ったことだった。決して受け入れられることはないと分かっていたはずなのに、抑えきれない欲望で現実が見えなくなっていた。



 そのせいで彼女と話せたり、笑顔を見れたり、そんなささやかな幸せを失いかけた。



 望んだこと全てが叶わなくても、せめてこの関係は続けたい……。出来るなら永遠に……。




 そのためには、距離を置かなければいけない。




「こちらお願いします」




 まるで一昨日のことを無かったことのように、他人行儀に受領書を渡してくる彼女を見ていると、胸が痛くて辛かった。



 泣いてしまいそうになるのを必死にこらえ、無理に作った笑顔でサインをし、受領書を渡す。代わりに彼女は抱えていた荷物を渡す。



 言葉がなくても完遂かんすいするほど、お互いその応対には手慣れてしまったのに、心はまだぎこちなかった初めの頃よりももっと離れてしまった。



 このまま背を向けて帰るであろう彼女を見送ろうとすると、彼女は顔を上げ、強い目をして私に話し始めた。



「……こんなこと言うの、失礼なのは承知の上なんですが、大事なことなので言わせて下さい」


「遠慮なく言って」


「こないだのようなことは、もう私、出来ません……。だからもし中谷さんがそうゆうことを望んでらっしゃるなら……」




 最後まで聞く勇気がなく、私は敢えて彼女の言葉をさえぎった。



「もうしない!!もうしないから……!!本当に……ごめんなさい。だから、出来れば今まで通りに……お願いします……」



 彼女の目を見ていられなかった。私は頭を下げて情けないほどに懇願こんがんした。



「……顔上げて下さい。中谷さんだけが悪いわけじゃなくて……私も申し訳ありませんでした。……なんて言うか……ただ、ああゆうことは良くないことだと思って……」




 その言葉は私と彼女の違いをはっきりと表していた。私の中では『良くないこと』とは到底思えない。好きな人に対しての欲望としては何も間違っていない。

 一方彼女が『良くないこと』と思うのは、そこに気持ちがないから。あの夜の出来事を彼女は、無意味で破廉恥はれんちな行為だったと感じている。



「またいつも通り配達に来ます。これからもよろしくお願いします」


「……ありがとう」


「じゃあ……失礼します」




 90度に近いしっかりとしたお辞儀を最後に、重い鉄の扉が閉まった。




 私は彼女の置いていった荷物を抱きしめ、一人になった玄関で立ち尽くしていた。
















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