№20 かけがえのない日常
ボクシング国王杯の結果は、新聞でも大々的に報じられた。なにせ、昨日の本戦に勝って国内でもベスト16なのだ、国民的なスポーツであるボクシングの王者が誰になるのか、それは巷でも話題になっていた。
「殿下! 新聞にも殿下のことが!」
新聞に載ることなど遠い世界のことだと思っていたマリアローゼが、興奮して新聞を握りしめ目を輝かせる。
これからスパーリングを始めるところだったエディオネルは、つけかけていたヘッドギアを下ろし、照れくさそうに笑った。
「まだまだですよ」
「いえ、さすがですわ、殿下!」
「それもこれも、あなたのおかげです」
エディオネルは決して驕ったりなどはしない。常に謙虚に、常にストイックに、常に真面目に。そんな男であることは、マリアローゼもよく知っていた。
新聞を畳んだマリアローゼは、ようやく落ち着いてグラブを片手にリングに上がった。
「次はベスト8ですよ! 次の戦いまで中三日、からだづくりに専念しましょう!」
「はい! 今日もよろしくお願いします!」
ぱしん!と両のグラブを打ち鳴らし、エディオネルは勢いよく頭を下げた。
今日のスパーリングは、あくまでからだをあたためる、筋肉に血を巡らせるためのものだ。マリアローゼも無理に攻め込んだりはしないし、エディオネルのパンチも強打ではなかった。
スパーリングの形を借りた、準備運動のようなものだ。こうしてからだを慣らしていって、三日後の対戦までいい状態に持っていく。そのためには、あまり詰め込みすぎないことだ。
充分に血が巡ったところでスパーリングを終え、クールダウンにヤギの乳を飲む。少しだけ改善点などを話し合った後、いったん解散して準備をして、いつものように城下町へ繰り出すのだ。
いつもの店でバランスの取れた食事を前にしながら、ふたりは戦術について語り合った。
「先の戦いではラッシュが効きましたが、次からはそうもいきませんわよ。これからは、エディのこぶしをおそれないものばかりでしょう。おそれるふりをしてこちらの攻撃を引き出すものもいるかもしれません。エディ、見誤りませんよう」
「はい。実は前戦では私も少し熱くなってしまって……いけませんね。おそれるふり……そういうことは考えていませんでした。これも一種の挑発ですね。相手が本当に怯んでいるのか、隙が生じているのか、よく見なければ」
「罠にかかるもかからないも、すべてエディの見る目にかかっています。攻撃をする前には一瞬だけ考えること。一瞬だけですよ。そうでなければ逆にこちらの隙になります。しかし、その一瞬が大切なのです」
「こころ得ています。一瞬以上の思考はいのち取り。しかし、考えてから動く。今までさんざんマリアローゼ嬢に教わったことです」
「ええ。常に頭の隅に置いておいてください……さあ、お話は一旦ここでおしまいにして、お食事にしましょう」
「今日もうまそうですね!」
ほかほかと湯気を上げているアクアパッツァやアラビアータ、鶏胸肉の香草焼きなど、どれも高たんぱく低カロリー、野菜も肉もふんだんに使ったメニューに、早速フォークを伸ばすふたり。からだづくりも、こうしたおいしい食事だと苦にならない。
これがおいしい、これはどうやったらこんな味になるのか、など食を堪能していたふたりの間に、いつも通り顔見知りの酔っ払いが絡んできた。
「エディ! 新聞読んだぜ!」
「ベスト16か、すげえな!」
「チャンピオンまであと少しだ!」
「よーし! 今日は俺のおごり……」
その瞬間、マリアローゼの瞳が鋭く光った。猛禽類のような視線にさらされた酔客たちは、一気に酔いがさめたように散っていく。
「……エディ、わかっているとは思いますが、当分は禁酒ですよ?」
「はは、そんなに牽制せずとも、わかっていますよ」
「祝杯はチャンピオンになった時まで取っておきましょう。しばらくはヤギの乳で乾杯です」
「ええ。それでは、乾杯!」
ミルクで満たされたジョッキをぶつけて、改めて食事を楽しむふたり。
栄養豊富で美味な料理を味わったあと、会計を済ませてから、いつものようにふらりと散歩をする。のんびりと世間話をしながら、笑い合った。他愛のないジョークを交えた話だ。しかし、かけがえのない日常を、たしかにふたりは共に過ごしていた。
ふと、会話の隙間にエディオネルがつぶやく。
「……次に勝ったら、あなたに伝えたいことがあるんです」
「なんでしょうか?」
「それは、勝ってからのお楽しみですよ」
いたずらっぽく笑うエディオネルは、とてもチャーミングだ。思わず笑みをほころばせながら、マリアローゼは返事をする。
「楽しみにしておりますわ。必ず勝ってくださいませ」
「もちろんです!」
ぐっとこぶしを握って請け負うエディオネル。
マリアローゼの髪には、今日も赤い花の髪飾りが揺れているのだった。
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