第56話 寝顔

 心の準備もろくにできていないまま教室を追い出されて、少しだけ大きく脈打っている心臓を、何度か深呼吸して落ち着かせる。そもそも、アキはまだ教室に残っているのだろうか。


 終礼が終わってから数十分、帰っていてもまったくおかしくない。


 隣の教室の扉を開けて彼女の席がある窓際に目をやると、机に突っ伏すようにして寝ている女の子がいた。

 はあ、と気が抜ける。


 ――また寝てるのか。


 アキ、寝すぎじゃないかなあ。

 この前図書室で会った時も寝ていたし、私が追加課題を提出していた時も寝ていた。放課後教室に残って寝るくらいなら、家も近いんだし帰ってから寝ればいいのに。


 教室の中には、彼女のほかには誰もいなかった。

 ほんの少し空いた窓からは緩やかな風が入って来ていて、カーテンが小さく波打っている。


 私はアキの前の空いている席に座って、彼女の寝顔を盗み見た。


 ……かわいい。私はどうしようもなく彼女に惹きつけられてしまう。


 ふと気を抜けば彼女の顔を追ってしまうし、二人でいてもそれは変わらない。

 彼女にばれていなければいいと思うけれど、それも正直時間の問題のような気もしている。


 もしかしたらもう、ばれているかもしれないし。


 私の容姿は、昔からしたらだいぶ変わったと思う。

 髪も染めたし、表情も明るくなるように努めた。


 それでやっと人よりちょっとおとなしいくらいの印象だと思うけれど、昔の私と比べたらだいぶましだ。


 一方アキはと言えば、昔からほとんど変わらない。


 そりゃあ、成長に伴って変わる部分はもちろんあるけれど、表情の作り方とか、皆の前でいる時と私と二人でいる時との態度が若干違うとことか、たまにどきっとすることを言うところとか、私が笑うとそれにつられて笑ってくれるとことか、寝起きの時のふにゃふにゃの優しい声とか、言いだしたらきりがないけど、そういうところは全然変わっていない。


 そんな彼女を愛おしいと思うし、できれば、もっと素直に彼女に近づきたいと思う。


 小指で、彼女の顔にかかった髪の毛に触れる。


 んん……、と彼女から小さな声が漏れるけれど、起きようとする気配はない。

 私も無理に起こしたいわけじゃないから、これ以上触れるのは我慢する。

 黙って、彼女の寝顔を見つめ続けた。

 

 

 

 

 それからどれくらい彼女の寝顔を眺めていたのかはわからないけれど、たぶんそれほど時間が経っているわけじゃないと思う。

 十分か十五分か、体感はそれくらいだ。


 アキは時折、んーと小さな声を漏らしながら、腕の上に置く適切な頭の位置を探している。

 起きる気配はまったくない。隣の教室に、早崎さんはまだいるのだろうか。


 ポケットからスマホを取り出してみると、十分ほど前にメッセージの通知があった。


「じゃ私帰るから。本、よろしくね」


 教室に鞄を置いてきてしまったから、アキが起きたらそのまま帰れるように持って来よう。私は立ち上がって、隣の教室に向かう。


 鞄をとって戻って来ても、当然ながらアキはまだ眠っていた。

 一、二分程度で起きるわけもない。


 頭頂部をつんつん、とつつく。

 髪の中に人差し指を差し込んで、わけもなくぐりぐりといじくる。

 アキの匂いがする。


 昔と何も変わらない。

 数えきれないほどに嗅いだはずの匂いだ。いい加減嗅ぎ慣れてもいいはずなのに、私は未だにこの匂いにどきどきしてしまう。そしてそれは、だんだんと私の正常な思考を侵していく。


 ……このまま彼女の唇に触れてしまいたいなと思う。


 もちろんそんなことしないけれど、どうしてもそういうことを思ってしまう。

 もしも私が今そうしたら、どうなるんだろう。

 彼女は起きるだろうか。

 起きたら、私は問い詰められるだろうか。

 何してたの? なに考えてるの?


 そんな仮定に意味はない。私が彼女の唇に触れることはないから。


 ――そんな勇気も度胸も覚悟もない。


 はあ、と大きく息を吐いて、彼女の頭に上から額をこつん、と当てる。


「アキ、起きてよ」


 小さく呟く。

 するとアキは、うう、と唸るような声を出した。

 反応があると思っていなかった私は、驚いて顔をあげる。


 起きた?


 恐る恐る彼女の肩を揺すると、彼女はゆっくりと頭を上げた。

 そしてしぱしぱと目を開けて、ふにゃっとした目で私を捉えた。


「あれ、朱里」


 その目と同じくらいふにゃっとした声で、アキは私の名前を呼んだ。


「どうしたの?」


 寝起きでぼうっとしているのがわかる、私の好きなふにゃふにゃの声。


「……いや、早崎さんにさ。本返しててって頼まれたから。アキ、寝てたけど」


 アキは大きくあくびをしながら伸びをした。


「ごめんごめん。普通に起こしてくれてもよかったのに」

「起こせないよ。気持ちよさそうに寝てたし」


 クラスマッチであんなに動けば、いやでも疲れて眠くなってしまうだろう。

 普段からお眠りさんの彼女なら猶更だ。

 私は預かっていた文庫本をアキに手渡した。


「はい。これ」


 アキは「ああ、うん」と言ってそれを鞄に仕舞った。「ありがと」

 それから彼女は柔らかく相好を崩して、「これ、どうだった? 朱里も読んだでしょ」と言った。


 寝ぼけてるのかな。

 なんだか最近の気まずさや蟠りが消え去ったような感じがする。

 できればこのままの態度でいて欲しいと思う。


「おもしろかったよ」

「そ。ならよかった」


 アキはもう一度大きくあくびをして、私の背後にある時計を見上げた。


「もう六時前? 早いね」

「……寝すぎだよ」

「疲れてたんだよ」アキは鞄を手に持って立ち上がる。「お詫びに、一緒に帰ろう」


 それから彼女は、私に向けて手を伸ばした。

 予想外の出来事に、私は固まる。


 今までもたまに、彼女から手を繋ごうとしてくれたことはあった。

 でもそれは本当に数えるほどしかなくて、最近じゃ一緒に帰ることすら減っていたから、咄嗟に次の行動に移せなかった。


 私が呆然とその掌を見つめていたら、アキは首を傾げた。

 繋ぎたい、けど。その前に私は、彼女に言わなければいけないことがある。

 先日、変なことを言って彼女を困られてしまってから、私はまだ一度も彼女に謝っていない。


「あのさ……ごめん。この前から、ちょっとだけ変な感じになってたから」

「あーもう、その話やめようよ。今そのまま仲直りできそうだったじゃん」

「や、でも、謝っとかないとって思って」

「いいから、ほら」


 アキはそう言って私の手を無理やりとって歩き出す。

 教室を出て階段を下りる。

 足は自然と駐輪場へ向かっている。


「あーあ。こんなんだったら自転車で来なかったらよかったな」


 隣でアキが呟く。自転車で来なかったらなんなのか瞬時に判断できなくて、それから私と手を繋いで帰れるからだということに思い至って、首から耳まで血がのぼっていくのを感じた。

 私が彼女と手を繋いで帰りたいと思っているのは言わずもがなだけど、もしかしたら同じようなことを彼女も思ってくれているのかもしれない。


「……まあ、明日があるし」


 私は目を合わせられなくて、俯いたまま答えた。


「そうだね」と彼女は言って、手を離す。「あー、疲れた」

「今日アキ、かっこよかったよ」

 本心からそう言うと、アキは「それほんとに言ってる?」と返した。「恥ずいからやめてよ。全然上手くなかったし」

「そんなことなかったよ。なんか、応援したくなった。アキってあーゆーの得意だったっけ?」

「いや……体育でやったの最後だよ。今回もクラスで出たくないって人が多かったから仕方なく出ただけだし」


 そうは言っても、適当に流すこともできただろうに彼女はそうしなかった。

 私なら、きっとそうする。

 彼女も私と同じか、私より少し上くらいしか運動ができないと思っていたから驚いた。


 昔より少しだけ非社交的でおとなしくなった彼女に、心のどこかで親近感を覚えていたけれど、結局彼女はいざとなれば何の苦も無く人の輪の中に馴染んでいってしまう。


 試合が終わった後も、惜しかったねと笑いあう輪の中で彼女も自然に笑っていたし。


 嫉妬というか羨望というか、この胸につっかえた感情の正体を上手くつかめないまま、駐輪場に着いた。


 アキは私の鞄を手に取って、それを自分の鞄と一緒に自転車のカゴの中に投げ入れた。


「朱里」


 不意に名前を呼ばれて、彼女の方を見る。

 そこには困ったように笑った顔で私を見つめるアキがいた。


「仕方なないなあ」


 続けて彼女は呟いて、辺りを見回した。

 それから私が、なにが、と尋ねる前に彼女は私の背に手を回した。

 それは一呼吸くらいの時間で離されれしまったけれど、私はなにが起きたのか状況を飲み込めず、その場にぼうっと立ち尽くしていた。


「仲直りのハグ、だよ」とアキは言った。「これでいいでしょ?」

「ああ、うん」


 まだ脳の処理が追い付かないまま、残った頭でとりあえずそう頷く。


「そんな顔しないでよ」

「私、変な顔してた?」

「変っていうか……寂しそうな顔、かな。最近よくその顔するからさ。それ、私のせいでしょ?」


 困ったように彼女はそう言って、私は慌てて否定する。


「違う。そんなわけないじゃん」

「……まあ、なんでもいいけど。ほら、帰ろ」


 そう彼女は明るい声で言って、自転車のスタンドを蹴り上げた。


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