第55話 クラスマッチ
七月の上旬。期末テストが終わって、夏休みの少し手前。
今日はクラスマッチだから授業はない。
朝から教室は騒めきに満ちていた。クラスマッチそのものにそこまで関心があるわけではないけれど、いつもの退屈な授業に比べたら数倍ましだ。
私も一応卓球に出場する予定だったけれど、早崎さんに頼んだら代わってくれた。
というか、本人が代ろうか? と提案してきた。
私も運動はからきしだし、早崎さんはこういうイベントが好きだから、私は喜んで代わってもらった。そういうわけで私は、クラスの友達の競技を見に行ったり、教室に残って駄弁ったりを繰り返して時間を潰していた。
アキとは、この前彼女の家に行った帰りから、少しだけ変な感じになってしまっていた。今思えば恥ずかしいことも言ったし、なんとなくそれまでのようには話せなくて、会話はどこかよそよそしくなっていた。
そう感じているのはもしかしたら私だけかもしれないけれど、アキと目が合う回数も減った気がするし、放課後一緒に帰っても手を繋ぐこともないから、彼女もきっとそう感じているのだと思う。
でもきっと早崎さんにも穂乃香さんにも、ばれてはいない。
これはたぶん傍から見たらわからないほどに些細な変化だ。他人の一挙手一投足をそこまで観察している人なんていないだろう。
あの日アキは、私がどこかに行ってしまうそうだったと言った。
実際に私は、何も言わずに彼女の元からいなくなったのだから、そう思われるのは仕方ないかもしれない。
私はもう、彼女の前からいなくなったりしない。でも私に、私がもうどこにも行かないと証明する手段はない。
言葉でなにを表そうと、それが信じられなかったら何の意味もない。
だから結局私にできることなんて、手を繋いで少しでも彼女が安心してくれることを願うくらいだった。
そんなことを、体育館の二階で早崎さんを応援しながら考えていた。
彼女は危なげなく勝利して、対戦者の子に快い笑顔で声をかけていた。
相手の子は学科の違う生徒だったけれど、彼女の態度はクラスメイトに対するそれと変わらない。試合が解散になると、早崎さんは上を向いて私たちに手を振った。
それからしばらくして彼女は、彼女を応援していた集団に合流した。
「どうだった?」
と言いながら預けられていたタオルを早崎さんに渡すと、彼女は「ありがと」と言ってそれを受け取り、「楽勝」と笑いながら首元に滲んだ汗を拭った。
「ありがと、代わってくれて」
「ん? いいよ、全然。私から出たいって言ったんじゃん」
「だけど、私だったら即行負けてたから」
私がそう言うと、早崎さんは「勝ち負け気にするタイプじゃないでしょ」と言って笑った。
「まあ、負けるよりは勝った方がいいから」
クラスの雰囲気は勝ちにこだわるようなものではなく、男子もサッカーで勝てれば満足そうだったし、私たちも適当に楽しくやろう、みたいな感じだった。
まあでも、勝てるに越したことはない。
それから早崎さんはトーナメントを駆け上がっていって、最終的にはベスト8まで行ってしまった。
体育館のもう一方では、アキがバスケットボールに出場していて、私は早崎さんを応援する傍ら、密かにそちらの方に目を向けていた。
再び試合から早崎さんが帰って来ても、私はアキの方が気になっていて、そっちにずっと気を取られていた。
それを見かねたのか早崎さんは私に、「あっち、見てきてもいいよ」と言った。
「……ごめん、ちょっと行ってくる」
私は早崎さんを囲むクラスメイトの群れから離れて、一人で体育館の反対側に移動する。そこには穂乃香さんがいて、私は小走りで近づいて「穂乃香さん」と声をかけた。
「ああ、朱里ちゃん」穂乃香さんは私を認めて手招きする。「見に来たんだ」
私は彼女の隣に立って、柵に腕をかけた。
「うん。早崎さんの種目終わったから。……こっちはどんな感じ?」
穂乃香さんはスコアボードを指さして、「接戦だよ」と答えた。
その言葉通り、点数はほぼ互角だった。
コートの中にアキの姿を見つける。探すまでもない。私の視界では、彼女は一人だけ際立って見えている。
点数が競り合っている分、両チームの攻防も激しい。
バスケのことはほとんどわからないけれど、アキがコートの上を駆け回っている姿を見ているだけで自然と胸が熱くなっていった。
いつの間にか、体育服の袖をぎゅっと握っていた。
私は、彼女の中学の三年間を知らない。体力テストの結果を見る限りでは、彼女もきっとそこまで運動が得意な方ではないはずだ。
でも、それでも彼女はコートの上を全力で走り回っている。
頑張れ、と声を届けたいと思う。
そんなの柄じゃないけど、頑張っているアキに、できることがあるならしてあげたいと切に思う。体育館は様々な音が入り混じって騒がしい。私が少しくらい大きな声を出しても目立たないはずだ。
大きく息を吸って、震える体を静める。そしてもう一度息を吸って肺に大きく空気を取り込み、「がんばれー」という音に変換した。
隣の穂乃香さんが、それに驚いてびくっと体を震わせる。
「あ、ごめん」と謝ると、彼女は「いや……びっくりしたー」と肩を撫でおろしながら言った。
試合は佳境を迎え、選手は皆肩で息をしていた。
点数は少し負けているけれど、いつ逆転してもおかしくない。
右の手で体育服の胸のあたりをぎゅっと掴む。彼女がコートに舞う姿に目を奪われながら思っていると、隣から「がんばれー」という大きな声が聞こえた。
驚いて横を見ると、穂乃香さんは照れたように笑った。「これ、わんちゃんあるくない?」
うん、と私は頷いて、それから試合が終わるまで穂乃香さんと声をあげてアキを応援し続けた。
試合が終わって、彼女は二階の私たちのもとへやってきた。
「おつかれ」
まだ少し息が乱れているアキにそう告げる。
「ありがと。……負けちゃったけどね」
「かっこよかったよ、アキちゃん」
穂乃香さんがそう言うと、アキは「そう」と言って「二人の声、聞こえてたよ」と続けた。
「うそ」
この喧騒の中で聞こえるとは思えない。聞こえないと思って叫んだのに。
「そりゃ、あんなに大きな声出してたら嫌でも耳に入って来るよ」
「まあ、聞こえるように叫んだからね」
と穂乃香さんが言って、「ね」と言って私を見た。
仕方がないから私も、「うん」と頷く。
そんな私たちのやり取りもよそにアキは、「疲れたー、ご飯食べよ」と言って、私たちの背中を後ろから押した。
そしてクラスマッチが終わって、放課後。
私はなんの競技にも参加していないから疲れるはずはないんだけど、久々の非日常だったからか、緩やかな倦怠感が身を包んでいる。
それに、少しだけ達成感がある。
最近はアキと表面的な会話しかできていなかった気がしていたから、本当の意味で言葉を交わしたのは久しぶりのような気がした。
はあ、と息を吐いて椅子にもたれる。
アキと一緒に帰る約束はしていない。あの日以降アキが私を待っていたりこの教室にやってきたりすることはなかったら、たぶん今日も一人で帰ってしまっているだろう。私もアキ以外の人と帰るような気分ではないから、早々に下校してしまおう。
そう思って荷物をまとめ始めた矢先、隣の教室に遊びに行っていた早崎さんが帰って来て、私の名前を呼んだ。
「なに?」と問い返すと、「まあまあ」と彼女は言って私の前の席に腰を下ろした。
「朱里ちゃん、最近あんまり元気ないよね」
彼女は私の机の上に肘をついて、そこに顎を乗せて私を見ている。
「そうでもないよ?」
「まあ、今日はそうでもなかったけどさ。昨日まではなんかずっとうわの空って感じじゃなかった?」
よく見ているな、と思う。
態度にはほとんど出していないつもりだったのに、付き合いが長くなればそれだけ些細な違和感も感じ取りやすくなるのかもしれない。
「……なんでそう思ったの?」
「なんか前まですごく機嫌よさそうだったけど、最近はそんな感じじゃないから。なんか、会った最初の方と似てる感じする」
「そう、かな。別に今も機嫌いいよ?」
私は口角をあげて、笑顔を作って見せる。
「全然目元が笑ってない。不気味だからやめて」
早崎さんは両手の人差し指で、私の頬を下に引っ張った。
「……なんかあった?」
改まったような、優しい口調で早崎さんは言う。
「……なにもなかったって。勝手に決めないでよ」
「じゃあ、私があててあげようか」
彼女さんは挑発的な言い方でにやっと笑った。
あててみなよ、と言うように私が腕を組むと、彼女はそのまま「アキちゃんと喧嘩した?」と言い放った。
何も言えないでいると、早崎さんは「当ったりー」と言って私の額を人差し指で突いた。
「……なんでわかったの?」
「なんでっていうか、わかんないほうがおかしいってレベルだよ。廊下ですれ違ってもあんまり話さないし、ちょっとよそよそしいし」
彼女の言っていることはまったくの正解で、反論の余地はない。言われてみれば、思いっきり態度に出てるじゃん。まあ、喧嘩ではない、とは思うけれど。
「あー、まあ、そうだね。降参」
私はそう言って、手を天井に向けてぐっと伸ばした。
「で、なんで喧嘩したの。二人、めっちゃ仲良しじゃん」
場違いなのはわかっているけれど、他人に「めっちゃ仲良し」だと言われて思わず頬が緩む。へー、そう見えてるんだ。
「別に喧嘩って程のことではないんだけど」
些細な行き違いや不和が多すぎて、私たちの距離感は覚束ない。
私たちはまだ、適切な距離感を探す途上にいる。
「てか、早崎さん部活、あるでしょ。いいの?」
「大会終わりだから休み。話逸らそうとしてもだめだからね」
にや、と笑って早崎さんは手刀で私の額を軽く叩く。
いた、と私は目をぎゅっと瞑る。
「喧嘩かなあ、あれ。別に喧嘩ってほどでもないんだけどな」
「まあまあ、説明してみてよ」
彼女はそう促したが、話すのは難しい。
事情が入り組みすぎているし、私の個人的な気持ちを吐露するわけにもいかない。
かといって嘘を吐きたいわけじゃない。
本当のことを言わないことが嘘になるのかはわからないけれど、私と仲良くしてくれる人たちにはできるだけ正直でいたいと思う。
「この前、アキの家に行ったんだよ。一人暮らしの。そこで……、えっと。ちょっと揉めたっていうか」
「何で揉めたの?」
「それは――いろいろ」
「……そっか。まあ、じゃあ二人だけで解決しなきゃね」
と、早崎さんは少し困ったように笑った。
「うん」
「なんかよそよそしくしてるのじれったいからさ、早く仲直りしてよね」
「そりゃあ、私も善処はしてるけどさ」
ちゃんとした喧嘩じゃない分、仲直りという感じでもない。ただなんとなく気まずいだけだ。でも、だから余計にこじれている。
そんな私を見て早崎さんは呆れたように、「あーもう、ほんとに君はめんどくさいな」と言った。「じゃあ、仲直りのきっかけあげよう」
「なに、きっかけって」
私が首を傾げて問うと、早崎さんはちょっと待ってて、と言って自分の机の方へ向かって歩いて行った。彼女は机の引き出しの中から一冊の文庫本を取り出して戻ってくる。
「はい、これ」
と言って早崎さんは私にその本を手渡す。
「これって……」
表紙を確認して気づく。
これは、早崎さんがいつかにアキから貸してもらってた本だ。
あれは結構前のことだったと思うのだけれど、なんで彼女はまだこの本を持っているのだろう。
「そう。アキちゃんに貸してもらってたやつ。とっくに読み終わってたんだけど、返しそびれちゃってて。これ、アキちゃんに返してきてよ」
「え、なんで私が?」
「話しかけるきっかけになるでしょ。ほら、立って。行ってきなよ」
「え、ちょ、まって」
早崎さんは私の脇に手をやって、私を無理やり立たせる。
「や、やだよお」
声に出したはいいけれど全然抵抗はできなくて、私は仕方なく早崎さんの本を手に持って教室を出た。
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