第51話 期末テストが終わって
目が覚めてスマホを開くと、アキからメッセージが送られて来ていた。
もしかしてと思いメッセージを確認すると、「早起きしたから、歩いて学校行くね」との表示があった。
私が初めてアキを迎えに行った日から、こういうメッセージが定期的に来る。
普段彼女からメッセージをくれることはほとんどないけれど、こういうメッセージがたまにあるだけで、日ごろのそういう憂いはすぐに晴れてしまう。我ながら単純な性格だと思うけれど、そうやって少しずつ彼女から歩みよろうとしてくれているのだなと感じられることが何よりも嬉しかった。
アキが歩いてきたら、その日は手を繋いで帰る。
そして彼女が歩いて登校するのは、アキが早起きしたときだ。
だから彼女の早起きは、私の生活の質と密接に結びついていた。
慌ただしい朝の時間。自転車通学の実里が私よりも先に家を出て、私も少ししてから支度を終えて玄関の扉を開いた。お母さんの車に乗って、最寄りの駅へと向かう。
夜の間に雨が降ったせいか、気温はそこまで高くなく、久しぶりに心地のいい朝だった。深く息を吸うと、柔らかな朝の匂いがした。少しだけ、初夏にもどったようだった。
日差しもそれほど強くなくて、首許を涼やかな風が通り抜けた。
ロータリーの脇に自生している松の木に繭のように張られた蜘蛛の巣は、水滴を帯びて陽光を反射し、きらきらと輝いていた。
電車に乗り、着いた駅から歩いてアキを迎えに行く。
エントランスの前で待って、しばらくしたら眠そうな顔のアキが出てくる。いつものように手を繋いでいいか迷って、結局あと一歩の勇気が出ないまま学校に着いて、教室の前で別れた。
クラスでは期末テストが終わって、うっすらと漂っていた緊張感はすっかり霧消してしまったようだった。テストの結果も今日で全部返って来て、クラスは夏休みに向けて浮足立っていた。もっとも、夏休みまではあと一か月弱程あるけれど。
そして、いつもと変わらない一日が過ぎた。
終礼から少し経って、だいたいの生徒は下校を始めた。
私のクラスの友達も例外ではなく、部活やら塾やらで早々に下校してしまった人が大半だ。たまに一緒に帰るような友達にも、今日は予定があるという旨を告げているから、私に「ばいばーい」と手を振って先に教室を出て行った。
そうして校舎に残る人もまばらになったタイミングで、私は教室を出た。
別に、人が多いからどうというわけではない。
お昼ご飯だって大勢の中で隣の教室に入っているわけだし、それが咎められる謂れもない。ただなんとなく私の中で密会のような気持ちがあって、だからアキと会うのに少し人目を忍んでしまうというだけだ。
扉を開けて、隣の教室に入る。
本を開いているアキの前の席に座ると、彼女は本から目をあげて、私の方を見た。
「来るの、遅くない?」
彼女は本を閉じて、それを鞄の中に仕舞った。
「そう? あんまり考えたことなかった。次からは早く来るね」
「……別に、いいけどさ」
アキは最近、やけにそっけない。
具体的には、テスト前に電話したあの日から。
自分から仲良くしようとしてくれていることがわかる代わりに、彼女の態度自体は以前より難しくなった気がする。
私の隠しごととそれに伴う思いを、とりあえず彼女は受け止めてくれたように思える。私を忌避しているようには見えないし、私に対して怒りや明確な不信感を抱いているようには思えない。
ただ私に対しての接し方を決めかねているように見える。
でもそれは全部私が蒔いた種で、つまるところ時間をかけて私がどうにかしていくしかない問題だ。だから今すぐどうにかしなきゃという焦りはない、と思う。
「それでさ」と私は言う。それよりも今日は、私にはしなきゃいけない話がある。「テスト、全部帰ってきたでしょ」
私はアキの前の席に座って鞄の中のファイルを取り出し、その中からテスト用紙と全教科の平均点が書かれた用紙も取り出す。そしてアキの机に一枚一枚並べて見せる。
「どう。みて」
アキは平均点の書かれた用紙を持って、それと私のテストの点数とを一つ一つ照らし合わせた。全ての点数に目を通したあと、アキは顔をあげて私の目を見ながら呟いた。
「……すごい。どうしたの、これ」
「すごいでしょ」
と私は鼻にかけて言う。
「ほんとにすごいよ。……数一、私より高いし」
「早崎さんに教えてもらったのも大きいかも」
「それでもすごいよ。物理基礎は?」
「それは、もう。死に物狂いで」
「死に物狂いって」彼女はふきだした。「なんでそんな。そんなにご褒美欲しかったの?」
アキはそう言って、にやっとした顔で私のことを見つめた。
改めてそう言われると恥ずかしいけれど、実際そうだったのだから仕方ない。
私はこくりと頷いて、あのさ、と続ける。
「嫌だったら、いいんだけど」
「なに? ご褒美のことだよね」
アキは私の目をじっと見つめたままだ。
私は小さく頷いてから、目を逸らす。なんか、思っていたよりもアキが喜んでくれたから、どんな顔をしていればいいのかわからない。
アキがくれるご褒美。私の勉強のモチベーション、というか目的。私が最近ずっと考えいたこと。
「アキの家、行きたいなって」
「私の家? そんなの、今朝も来たじゃん」
「そうじゃなくて、部屋のなか、入ってみたくて」
「え、なんで?」
きょとんとした表情で、アキが小首を傾げる。私からしたら彼女の家に上がりたいというのは自然な感情だけれど、彼女からしたらそうじゃなかったのかもしれない。
「だめ?」
「だめじゃないけど……。なにもないよ?」
「いいよ。行ってみたいだけだから」
「そんなことでいいの?」
と、アキはまだなにか言いたいことがありそうだったけれど、とりあえずは頷いてくれた。
もちろん、と私は返す。
「そういえば、アキの点数も見せてよ」
「いいけど、別にみてもしょうがなくない?」
「いや、私今回結構頑張ったから。もしかしたら勝ってるかもと思って」
「……まあ、そこまで言うなら見せるけど」
アキはがさごそと鞄の中からテスト用紙を取り出すと、私の前に広げた。
その点数は、ほとんど私のものよりも高かった。
数一だけは彼女の言っていた通りわずかに私の方が高かったけれど、それも四点差で、誤差みたいなものだった。
「やっぱりすごいね」
「まあね」
何でもないことのように、アキは言い放つ。
「なんか悔しい」
「そう思うなら、この調子で勉強続けなよ。いい点数とるの、案外悪くないでしょ」
「まあ、またモチベーションがあったらね」
そう言って私は机の上に広げたテスト用紙を鞄の中に仕舞い、立ち上がった。
「そうと決まれば、さっそくいこ」
「え、今日来るの?」
「だめ?」
「いや……、だめじゃないけど」
「よし、じゃ、早く」
私が急かすと、アキは下校の準備を手早く済ませて立ち上がった。
教室を出る。
今から彼女が、私が頑張ったご褒美をくれると言う。
どうせだからと思って私は、彼女の手を取ってぎゅっと握る。
頑張ったんだ。これくらい許されてもいいと思う。
何も言わないアキの横顔を盗み見ると、彼女の顔は至っていつも通りの表情をしていた。拒絶されたわけじゃないけど、驚いたり文句の一つでも言われたりするかなと思っていただけに少し拍子抜けだ。
……まあいいや。手を繋いだまま歩きだす。
校舎にはまだまばらに生徒が残っている。
私たちの知り合いはいないはずだけれど、それでもアキは人目を気にしていないわけじゃないと思う。彼女は時折辺りを見回したり、いつもより少しだけ早足になったりしているから。
最初に手を繋いでから、片方の指に収まるくらいの回数しか手を繋いでいないけれど、繋いだ時には必ずアキはそういうことを感じさせるような仕草をした。
嫌なんじゃない、とは思うんだけど。
「なんで、何も言わないの?」
私が問いかけるとアキは、「もう、いい加減慣れた。それに、今日はご褒美の日、なんでしょ」と答えた。
ご褒美の日。
アキの口から放たれたその言葉の甘美な響きに、胸が詰まりそうになる。
まるで、ご褒美だったらなにをしても許されるような。
実際そんなわけはないのだけれど、私の脳裏にはアキの唇に触れる光景がよぎった。
私とアキとのこれから。
何度も繰り返した疑問。
どうしたいか、どうなりたいか、どうなるべきか。
それぞれの問いには、それぞれ違う形の正解がある。
私のこの気持ちが、彼女に届かないことくらいはわかっている。
だけどきっと、考える自由くらいは私にもあるはずだ。
いやいや、と首を振ってその雑念を飛ばす。でも少なくとも今は、そういうことを考える場合じゃない。
「ん? どうかした?」
そうやって自分の思考に夢中になっていた私の顔を、アキが覗き込む。
「いや、なんでもないよ」私は笑顔を作ってごまかす。「アキの部屋、楽しみだなーって思って」
「そんな期待されても、ほんとに何もないからね」
「ま、行ってからのお楽しみってことだね」
正門を過ぎて、いつもとは違う場所を目指して歩く。
「どれくらい勉強してたの?」
「んー。一日四、五時間くらいかな」
期末テストの範囲は中間テストの範囲も兼ねるから、みんながあまり触れないで大丈夫な箇所も一から勉強しなければならなかった。
「すごっ。受験生くらいするじゃん。……家で?」
「まあ、家だったり、図書館だったり」
「図書館? だったら誘ってくれればよかったのに」
「それじゃ意味ないし。それに、あんまり頑張ってるとこ見せたくなかったし」
「なんで?」
なんでって、そういうもんじゃないだろうか。
「なんか、恥ずかしいじゃん」
まして、その目的は不純そのものだ。
「ふーん。そういうものかな」
「そういうものだよ」
点滅して、赤に変わろうとしている信号を指さして、アキがその歩みを早める。私もそれに手を引かれながら慌ててついて歩く。
「じゃあ、次のテストは一緒に勉強しよう」
渡りきった先で、少しはにかみながらアキが言った。
「……うん」私は大きく頷いて、にやけそうになるのを堪えた。
それがばれたら、きっと彼女は照れるか拗ねるかして、きっともう同じようなことを言ってくれないだろうから。
話しているうちにあっという間にアキの住むマンションの前に着いて、私はアキとともにエレベーターで上階へと向かった。
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