第50話 勉強教えて
鞄を持って二階に戻った私は、そのまま机に向かって座り教科書と問題集を広げた。一度ベッドに行ってしまったらきっともう机に向かうことはできないから、ベッドに飛び込みたくなる心をなんとか抑えて、椅子の上に座った。
今日教室から出る前、私は早崎さんと話して勉強を教えてもらう約束をした。
私の苦手教科である理系科目は、彼女の得意科目だ。
理系科目はクラスの友達の内海さんも上野さんも、アキだって得意だけど、クラスでは早崎さんが一番仲がいいから彼女にお願いした。
アキに教えてもらうのは、本末転倒だし。
今はテスト期間で、早崎さんの部活も休みなのだ。
頼めば彼女は、快く引き受けてくれた。もう、家に帰っているだろうか。
電話をかけると、五コールほど鳴らした後に彼女は電話に出てくれた。
「もしもし」
「もしもし。帰ってた?」
「今帰ってきたところ。ちょっと待ってて、今準備するから」
「ゆっくりでいいよ」
そう告げて、その間に問題集に目を通す。
ここ最近はずっと数学の勉強をしていた。だから基礎レベルの問題はだいぶ解けるようになってきている。
今日早崎さんに教えてもらいたいのは、もっと応用的な問題だった。
何かしているのか、少し遠くから彼女の声が聞こえる。
「そう言えばさー、朱里ちゃん」
「ん。どうしたの?」
「急に勉強教えてなんてどうしたの?」
その質問は私が事前に想定していたもので、私は用意していた回答を彼女に伝える。
「この前赤点だったの、お母さんに怒られちゃって。平均点超えないとお小遣い減らすって言われちゃったから仕方なく」
これは本当のことじゃない。お母さんは私の成績には無関心だ。アキにご褒美をもらうためなんて、恥ずかしくて言えなかった。
「なるほどねー。それじゃあ私が教えて進ぜよう」
早崎さんの声が近くなる。
「それで、どこがわかんないの?」
わからない問題の載っているページと問題の番号を彼女に伝えると、「あー、これはねー」と言ってから教えてくれる。彼女には学校でも時々こうして教えてもらうことがあるけれど、そのたびに丁寧にかみ砕いて教えてくれるから、先生に聞くよりもよっぽどわかりやすい。
部活もしているのに、すごいな。
私は部活動に入った経験はないからわからないけれど、それでもきっと大変なんだろうと思う。実里だって帰ってきたら疲れてすぐに眠ってしまうことがある。高校の部活ならなおさら大変だろう。それなのに早崎さんの成績は悪くない。小テストレベルでも、それはわかる。
「なるほどー。わかった、ありがと」
自分で解いていてわからなかった問題はだいたい聞き終わって、私は凝った腰をひねって伸びをした。電話の先からも、大きなあくびの声が聞こえてくる。
「早崎さんって、いつ勉強してるの?」
「いつって、普通に夕飯食べた後とかだけど」
「でも、疲れてるでしょ?」
「疲れてるけど……。まあでもずっとそう言う感じだから、もう慣れたかな」
「部活、中学校からだっけ」
「そう。もう習慣っていうか。だからもう、そういうもんって感じだよ」
「朱里ちゃんは? 今はあんまりかもだけど、一応中学では勉強してたんでしょ?」
今度は私の予想していた質問ではなかったから、どう答えていいものか少し狼狽えた。……本当のことは言えない。
アキと一緒の高校に通うために必死に勉強してました、なんて。
継続的な勉強なんてほとんどしていない。長期的な一夜漬けみたいなものだった。
できるだけ嘘は吐きたくないから、「いやー、まあそうだねー」と適当に濁す。
「そう言えば、朱里ちゃんって中学桐野でしょ? 内部進学しなかったんだね」
「うーん。してもよかったんだけどね。……この高校の方が楽しそうだったし」
これは、嘘じゃない。正確には、アキがいるから、という条件付きだけれど。
「なるほどねー。てか、朱里ちゃんの中学時代の話とか聞きたいなー。なんだかんだ、あんまり聞いたことなかったし」
「なんで、別に普通だよ」
「いやー気になるよ。朱里ちゃんってなんだかんだ秘密主義者的なとこあるし」
なんとなく、そう言う早崎さんの顔が頭に浮かぶ。きっと今は、少しだけ唇を尖らせている。
秘密主義者。そういう言い方はなにか、私が見ないようにしていた部分に触れられているような気がして、胸がそわそわした。
「……別に、そういうつもりじゃないんだけどね」と言って居住まいを正す。
「まあ、いいんだけどさ。私好きなんだよね、友達の昔の話聞いたりするの」
私の中学時代のことを、一言で表すのは難しい。捉えようによっては、中学生活それ自体が大きな欺瞞だった。アキへの気持ちを確かめるための壮大な舞台装置。
あれはあれで楽しい生活だってけれど、いつも一歩引いて歩いているような心地がしていた。だから、全体的な記憶の色は希薄だ。
それでも、話せることなら話した方がいいのかもしれない。
少しの逡巡の末、私は早崎さんに言う。
「なにが気になるの? 私も隠したいわけじゃないからさ……、ちょっとなら話すよ」
「え、いいの? てっきり流されるのかと思ってた」
「まあ、ちょっとくらいなら。勉強教えてくれたお礼も込めて」
なにより、嘘ばかりついてしまっている罪悪感がある。
「よーし。それじゃあさ」
彼女はそう言って、気になってたのであろう質問をいくつか口にした。
部活入ってたのか。
それじゃあ委員会とかしてたのか。
成績はどうだったのか。
友達はどこの高校に行ったのか。
――恋人はいたのか。
想像の数倍の量の質問が飛んできたけれど、幸い答えられるものが大半だった。質問に答えるたびに、もう知り合ってから三か月くらい経つのに、私が自分のことをほとんど話していないことを思い知らされた。
私は早崎さんの部活の話も成績の話も恋人の話も知っているのに。
きっと、私があまり自分のことを話したくないタイプだということを察して、聞かないでいてくれたのだろう。
彼女はそういう些細なところで気が回る。明るい上に、そういう気配りまでできるんだから友達が多いのも当たり前だ。
クラスの他の友達だって、早崎さんが繋げてくれたようなものだし。
今回私に聞いたことだってきっと、「勉強を教えたから」というエクスキューズがあったからで、彼女なりにそういう機会を窺っていたのだろう。
「えー、じゃあ、ずっと恋人いないの?」
その言葉に、意識が現実に戻される。
恋人についての質問に対して、私がいないと答えたから、そこからいつからいないのかという話になったのだ。
「まあ、そうなるね」
「なんか意外だね」
「そう?」
傍から見たら、私は恋人がいそうに見えるのだろうか。
私は後にも先にもアキしか見えていないから、恋人、と言われてもアキが隣にいるイメージしかできない。
「あんまり、そういうのよくわかんないから」
「初心かよー」
「早崎さんは――確か、ちょっと前まではいたんだよね」
「まあね。高校離れるからって言って別れちゃったけど」
「じゃあ、喧嘩別れみたいな感じじゃなかったんだね」
早崎さんのイメージからして、確かに喧嘩別れというのは考えにくいし。
「そ。環境変わってさ、だんだん疎遠になっていくの悲しいから、それくらいならここでお別れしとこうって言って、卒業式の日にお別れしたの」
それは、お付き合いのあり方として一つの理想形のような気がした。
彼女の声の調子もいつも通りで、その思い出は綺麗なままラベルを付けられて記憶の底に仕舞われているんだろう。
遺恨や悔恨も残さず、お互い笑顔でさよならできるのなら、それはきっと一番いい別離の形だ。かつての私の行為は、それとは程遠い。
「でもあんまりないよね、円満に別れるのって」
中学の友達にもお付き合いをしている人がいたけれど、その大半は円満とは言えない別れ方をしていた。私も、それが普通だと思う。
友達の数に制限はないけれど、恋人は一人までしか作れない。その分入れ込んでしまうのは当たり前だし、好きだからこそ期待してしまって、それが裏切られたら感情的になってしまうのも仕方ない。
たぶん、恋人というのは契約みたいなものなのだと思う。
誰よりも大切にするという契約が、あなたはもう大切にするに値しないと言って反故にされたら誰だっていい気はしない。
「言われてみたらそうだねー。今思えば、けっこう淡白な付き合い方だったのかも?」
「今は、気になる人とかいないの?」
「いないよ、全然。今は部活で精いっぱいって感じかな。朱里ちゃんは?」
突然そう問われて、言葉に詰まる。
そのせいかいかにも意味深長な間が生まれてしまって、苦し紛れに「いないよ」と返すけれど、生まれてしまった間は誤魔化しようがなかった。
「……え、もしかして、いるの?」
「いないよ」
「えー、怪しかった。今の間」
「怪しくないって」
「えー、弁明を求む」
「や、急に聞かれたから戸惑っただけ」
「むむ、苦しいですね」
「苦しくない苦しくない」
「ほんとかなー」
あからさまに訝しんでいる早崎さんに「逆に私、好きな人いるように見える?」と問う。
「いないようにも見えるけど、でもなんか、いる気がするんだよなー」
気がする程度で見透かされたらたまらない。
私のこの気持ちは、誰にも話すつもりはない。たとえそれがどんなに私に良くしてくれる友達であっても。
「実際どうなの?」
「ん、秘密だよ」
適当に切り上げようとそう言えば、彼女は「それ、いるって言ってるようなもんだよ」と言った。
「……その理論ずるすぎる」
私がぼやくと、早崎さんは「へへ」と言って笑った。
結局早崎さんが、私に好きな人がいるのかどうかの確信を持ったのかはわからなかった。
多分、私はそれなりにポーカーフェイスの上手い方だ。だからきっと、私がアキのことを好きなのは、私が相当なへまをしない限りばれないと思う。
それから三十分くらい勉強を教えてもらったあと、パートから帰ってきたお母さんに呼ばれる声が聞こえた。
「ごめん、お母さんに呼ばれてる」
「お、わかった。じゃあまた。お小遣い減らされないように、頑張ってね」
「うん、ありがと」
私がそう言って少ししてから電話が切れて、私は一階へと向かった。
お母さんの声からして、それなりに大事な用かもと思ったけれど、蓋を開けてみれば、食器洗浄機の中の食器を棚に直してというただそれだけだった。
「勉強教えてもらってたんだけどー」
「あらごめんなさい」と、私の成績にあまり関心のないお母さんは、買い物バッグの中身を冷蔵庫に仕舞いながら言う。「今回は頑張ってるのね」
勉強しなさい、と言われたことはない。言われなさ過ぎて、逆に不安になるくらいには。期待されていない、というのは気が楽なようでどこか寂しい。
私は食器洗浄機と棚を往復しながら、「まあねー」と呟く。「お母さん、あんまり私の成績とかに関心ないよね」
「なに、気にしてほしいの?」
「そういうわけじゃないけど……。なんでかなって」
「あなた、普段ぽやぽやしているようで、頑張るときはちゃんやるじゃない。高校受験の時だってそう。だから大丈夫だろうなって思ってるのよ」
それがどうかしたの? と不思議そうに私を見つめるお母さんに、なんでもない、と首を振って答える。
少しだけ首元が熱くなったのには、気づかないふりをした。頑張ろう、と密かに思った。
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