第44話 梅雨入り
六月初旬のある朝。
私は珍しく、目覚ましよりも早く起きてしまった。
なんとなく二度寝をするような気分にもなれなくて、しょうがなく私はベッドから降りた。
顔を洗って、食パンを焼く。
時間に余裕があるから、スクランブルエッグとウインナーも添える。テレビをつけて、習慣のように朝の情報番組にチャンネルを合わせた。
朝食を食べながらぼうっと眺めていると、アナウンサーのお姉さんが「気象庁の発表によりますと」と言って、梅雨入りしたことを報じた。
一週間の天気予報には傘のマークが一面に並んでいる。
朝から気分がどんよりとする。
今はそこまで暑くはないけれど、これからどんどん蒸し暑くなっていくんだろう。憂鬱だ。洗濯物も外に干せなくなるし。
テレビの画面に表示された時刻は、まだ学校に行くまでに余裕があるから、もう少しだらだらしていようかと思うけれど、先日の朱里との会話のこともある。
たまに歩いて登校しようかなとは言ったものの、あれからそれを実行したことはない。
歩いてきた、と言ったら露骨に意識しているみたいで恥ずかしいし。手を繋ぐために、なんて言っているようなものだ。
そもそも、朝早く起きるのは苦手なのだ。
結局、あの後彼女が手を繋ぎたいなんて言ってくることはなかったし、なんなら彼女はその話をすることを意図的に避けている節がある。
それにこの前なんて、他の友達と一緒に帰るとか言って、先に帰ってしまった。
別に、私は彼女と毎日一緒に帰る約束をしているわけじゃないし、彼女がクラスの友達より私を優先する義理なんてないんだけど。
――クラスが違う、というのは思っていたより大きな問題らしかった。
四人でお昼を食べている時に、朱里が早崎さんと二人の話題で盛り上がっていたりすると、なんともいえないような気分になる。私も穂乃香との間でしか伝わらないような話を二人の前でしてしまうこともあるから、私にそういうことを思う権利がないことくらいわかっているけれど。
……なんだか気分が重くなってきた。
窓の外に広がる曇り空みたいだ。
まあそれも、いつまで保護者面してるんだって話かもしれない。
朱里はもう立派に一人で歩けるみたいだし、私が彼女にしてあげることなんて何もないのかもしれない。私のために同じ高校に来たというわりには、私の知らないところで彼女は学校生活を謳歌しているように見える。
はあ、と大きくため息をついて、歩いて学校に行くか自転車にするか両者を天秤にかける。
歩いて行くなら、そろそろ準備しないといけない。
わずかに天秤が左側に傾いて、私は立ち上がって食器を下げる。
……早起きしたし。せっかくだしね。
身なりを整えて、衣替えが終わったばかりの制服に身を通す。
姿見で不自然な点がないか確かめて、鞄を持って家を出た。
そこまで暑くはないけれど、湿気が多く肌に纏わりつく空気に嫌な不快感がある。自転車なら少しはましなのだろうけれど、それはまあ仕方ない。
雨は降らなさそうだから、傘は持たなかった。
いつもこの通学路は自転車で通るから、歩くのは久しぶりで新鮮だった。
いつものように道すがらコンビニによって、パンを買う。
コンビニから出て、何人かの生徒とすれ違う。
私は歩くのが少し遅い方だから、ゆっくりと後ろから越されていく。
突然、とん、と肩に何かがぶつかる感触がして振り返った。
「アキちゃん」穂乃香が眠そうな声で言う。「おはよ」
「おはよ」
「今日歩きなんだね。珍しくない?」
「まあね、たまにはと思って。なんか早く起きちゃったんだよね」
大きなあくびを噛み殺してくぐもった声で、穂乃香は問う。
「何時に起きたの?」
「五時半くらい」
「二度寝すればよかったのに。寝たのは?」
「覚えてない。ドラマ見てたら寝落ちしちゃって。十時くらいだったかな」
「じゃあ、漢文の宿題とかしてないの?」
「漢文? そんなのあったっけ」
漢文……昨日の国語の時間。あー、確かに聞いていなかったかもしれない。
「あったよ。教科書のやつの書き下し文と現代語訳書いてくるってやつ」
「うえー、やってないや。……穂乃香」
私は無言で彼女の目をじっと見つめる。
「……わかったよ。ジュース奢りね」
「やった」
私は小さく胸のあたりで握りこぶしを作る。
「アキちゃんって、真面目装って実は結構抜けてるよね」
「そんなことないよ。結局どうにかなるしさ。穂乃香が助けてくれるから」
「甘やかしすぎたかなー」
教室に入って、穂乃香に漢文のノートを見せてもらう。
国語は一時限目だから、そこまで時間に余裕があるわけではない。
書き下し文は考えなくても書けるから、現代語訳の部分を写していく。ホームルーム中にもこっそりと手を動かして、授業が始まるまでには何とか写し終わった。
「ごめん、穂乃香。ありがと」
穂乃香の背中をつんつんとシャーペンの先でつつく。
穂乃香は振り返り、私の手に持ったノートを受け取った。
「間に合ってよかったね」
「うん。危なかった」
授業中に先生が回って来て、宿題のチェックがあった。
私の席は穂乃香の後ろだから、現代語訳をしっかり見れば、訳が全く一緒だという不自然な点がばれたかもしれないけれど、幸いそんなことはなかった。
四限目が終わって、私と穂乃香は約束を履行するべく一階の購買へ向かった。
穂乃香は「ごちそうさまです」と言って、オレンジの天然水を手に取った。
「じゃあ、私もそれ飲もうかな」
購買のおばちゃんに同じジュースを二つ渡して、代金を支払う。
おばちゃんは「いつもありがとね」と言って微笑んだ。
私たちもそれに「また来ます」と返して、教室へ戻った。
教室に戻っても朱里たちは来ていなかった。
……ああ、今日は来ない日なんだな。
せっかく歩いて学校に来たのに、彼女と話すとっかかりを失ってしまった。
意地を張ったって仕方ないのはわかっているけれど、なんとなく自分から声をかけづらい。それに朱里は、なんだかんだ基本誰かと一緒にいるから、気軽に話しかけるのは難しい。
朱里のクラスの友達の事なんて私は何も知らないし。
彼女が声をかけてこないと、基本的に彼女と話すきっかけはなくなってしまう。
結局、穂乃香と二人で机を囲んだ。
彼女はお弁当を広げて、私が昨日見ていたドラマの話をした。
話をしながら、視界の端に見知った顔が通りかかるのが見えた。
朱里が、私の知らない人と談笑しながら廊下を歩いている。
いつも朱里が隣のクラスで一緒にご飯を食べている人だ。
その姿を、無意識に目で追う。
楽し気に隣を歩く女の子に笑顔を向けている。
その横顔を眺めていたら、彼女の目がふと私の方に向けられて目があった。
慌てて私は目を逸らす。
ばれただろうか。ばれただろうな。
「アキちゃん?」
彼女に呼ばれて、私はううん、と首を振る。
「そう言えば、梅雨入りしたらしいね」
と、強引に話題を逸らす。
「ああ、うん。らしいね」
「やだね、湿気」
「なんか前髪うねる」
「天気予報見た?」
「見てない」
「ずっと傘マークだったよ」
「最悪」
結局午後の授業が終わっても、朱里が私に声をかけてくることはなかった。
まさか、今日一日彼女と話せないとは思わなかった。
当初私は彼女と一緒に下校するつもりで学校に来たけれど、このままじゃそれも厳しそうだ。
一人で歩いて帰るのは寂しいし、できれば朱里と帰りたい。
……まだ、彼女は教室にいるだろうか。
鞄を持ち、席を立つ。
廊下に出て、隣の教室の扉を開こうとしたところで、そこから出てきた人影にぶつかりそうになった。
「わ」
思わず声が漏れて、目の前の人の顔を確かめる。
――見覚えのある顔だ。
今日お昼に朱里の隣を歩いていた女の子。いつも朱里と一緒にご飯を食べている。
「ごめっ。大丈夫?」
私とぶつかったその子が、身を軽く後ろに引きながら言う。
ここまで近くの距離で顔をみるのは初めてだけれど、改めて見ると整った容姿をしているな、と思う。
ハーフアップにまとめられた髪、大きな瞳は人当たりのよさそうな印象で、その声も明るく快活だ。
昔の朱里ならまず話さないようなタイプだ。
今はこういうタイプの人とも仲がいいんだな。
「あれ、アキちゃん、だよね」
その子が、私の名前を口にする。
なんで私の名前知ってるんだろうと思ったけれど、よく考えたらもう入学してから二か月だ。
隣のクラスの人の名前でも、知っていたって不思議ではない。
朱里が私のことを話しているのかもしれないし。
むしろ、目の前の女の子の名前を知らない私の方に問題があるかもしれない。
「ああ、うん」
朱里いるかな。
そう言おうとしたところで、その子の後ろから人影が一つ覗く。
「あれ、アキ?」
朱里が私の顔を見て、少し驚いたような声を出す。
「どうしたの?」
彼女が小首を傾げて髪を揺らす。
どうしたの、じゃない。
私は朱里と帰るためにここに来たのに。
教室には私がぶつかった女の子と朱里と、まだほかにも数人の生徒が残っている。
彼女らも、見覚えがある。たぶん、朱里の友達だ。
彼女らは鞄を両手で持って、所在なげにぶらぶらと揺らしている。とりあえず、突然現れた予想外の来訪者の様子を観察している、というような感じだ。
この状況を鑑みて、朱里がこの女の子たちと一緒に帰ろうとしてたことは明白で、そう考えたら私は明らかに邪魔ものだ。
こんなのを見せられて、朱里に「一緒に帰るために自転車で来た」なんて言えるわけない。それに、じゃあ一緒に帰ろうよ、なんてことになったら目も当てられない。
「いや……」
私は目を逸らして、ごまかすための言葉を探す。
だけど頭がうまく回らなくて、いい言い訳が見つからない。
「べつに、大した用じゃないから」
「三上さんの友達?」
さらに教室の後方から、別の女の子が朱里に話しかける声が聞こえる。
「うん。隣のクラスの」
「ああ、たまにご飯食べに行ってる」
「そう」
彼女たちの会話が聞こえていないふりをして、私は朱里に告げる。
「じゃあ、また明日ね」
踵を返して、早歩きで階段を下りた。
朱里がなにか言う声が聞こえた気がしたけれど、私はそれを無視して階段を下りた。
このままでいたら、私の精神衛生上よくない。
名前も知らない誰かに対する負の感情が心を支配してしまいそうだった。
朱里の友達。
それも一人だけじゃなかった。
……別に、彼女が私と一緒に下校する義理なんてない。
まして約束していたわけではないし。
私が勝手に歩いて登校して、歩いて下校する。
結果だけ見ればそれだけのことで、だから朱里に言ったように大したことではない。
何度も何度も自分にそう言い聞かせる。
だけどそれでも、渦のように出口のない思考は止まってくれなくて、心臓の右側がずきずきと痛んだ。
その痛みが波及するようにして涙が滲んで、私は俯きながら早歩きで帰り道を進んだ。
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