第17話 看病

 二月が終わって、三月になった。


 二月は短くて、月が終わるときは止つま先で転んだように感じた。

 三月になっても、依然として風は冷たくて、夜は冷え込む。


 三寒四温と言う言葉をテレビで聞いた。早く暖かくなってほしいな、と思う。


 そんな中私は、風邪をひいてしまった。


 熱は三十八度後半くらいまで上がって、やむを得ず私は学校を休んだ。

 お父さんは私が風邪を引いたとわかると、珍しく仕事を休んでくれた。


 お父さんは普段ほとんど仕事を休まないから、こんなこと思うの本当はよくないのだろうけれど、ちょっとだけ嬉しかった。


 風邪をひいてよかった、なんてこっそり思った。


 そして、私が学校に来ないし、恐らく担任の先生が告げたのだろう、朱里はその日のうちにお見舞いに来た。


 私がぼうっと天井を見ていたら、突然インターホンが鳴って、お父さんがそれに応じる声が聞こえた。その後お父さんが二、三言話す声がして、しばらくしてから玄関のドアが開く音が聞こた。


 私の部屋へと向かう足音が徐々に大きくなって、私は少し上体を起こす。


 こんこん、と軽くドアをノックする音が聞こえる。


「はい」


 私は口に出したけれど、それは喉に引っかかって上手く声にならなかった。


 朝お父さんと話してから私はほとんど声を出していなかったから、喉がびっくりしたみたいだ。


 私は小さく咳き込む。


 その間に扉がゆっくりと開かれ朱里が入ってきた。


 学校帰りの制服姿。


 その手にはビニール袋がぶら下げられていて、中にはプリンやスポーツドリンクが入っていた。そういうところ彼女はちゃんとしている。


「お見舞いきた」


 朱里はそれを私に見せるように持ち上げ、それを机の上に置いた。


「ありがと」私は言って起き上がろうとしたけれど、朱里は「いいよ、寝てて」と言って私の肩を押した。

 そして、そこらへんに転がっているクッションを手に取り床に敷いて、その上に座った。


 私はまた一つ咳をした。


「調子、どう?」朱里は私を見て言った。

「見てわかるでしょ。辛い。咳苦しい」

「何か食べる? 買ってきたけど」


 朱里はそう言って袋の中をあさり、プリンやゼリーを取り出した。


 私はプリンを指さして、「それ、食べたい」と言った。


 朱里は、うん、と言って頷く。

 そしてプリンの蓋を剥がしてスプーンを持って、私の方に向けた。


「ありがとう」


 私はスプーンとプリンを朱里から受け取ろうと手を伸ばすと、朱里はそれを避けた。


「ん?」

「口、開けて」


 ん? 私は少し首を傾げる。


「私、自分で食べれるよ」

「いいから」


 朱里の有無を言わさぬ口調に、私は少したじろぐ。

 だけどそこまで抵抗する気力もない私は、黙って口を開いた。

 朱里が手に持つスプーンが、私の口の中に運ばれる。

 それを食んで、朱里を見つめる。


「おいしい?」


 うん、と私はうなずく。

 プリンと私の口との間でスプーンが何度か往復され、プリンのカップの中は空になった。


「これ、飲む?」

「うん」


 朱里がスポーツドリンクを手に取って私に差し出す。キャップを取り、喉に流し込む。


「ほかに、何かしてほしいことある?」


 朱里は私を見つめて言った。


「キスしてほしい」

「やだよ。馬鹿じゃないの」

「なんで」

「風邪うつるじゃん」

「うつしちゃだめ?」

「だめにきまってるじゃん。風邪で頭やられたの?」

「冗談。そこのタオルで、汗拭いてほしい」


 私は少し上体を起こしながら、目線で机の上にあるタオルを示した。


 朱里はそれを手に取る。

 そして私が寝ているベッドに身を乗り出して、私の額の汗をぬぐった。

 優しい手つきでタオルを私の頬に這わせ、そして汗ばんだ首許を拭った。


 朱里はそのまま、もう少し下の方まで拭おうとしたから私は、「顔はもういいよ、ありがとう」と言った。「背中、お願い」


 私は朱里の手を借りて上体を起こす。

 朱里は私のパジャマをめくって、背中をタオルで拭った。


「いい感じ?」

「うん。冷たくて気持ちいい」私は私の鎖骨のあたりに添えられた彼女の手を取って、それを自分の額に当てた。「手も冷たい。気持ちいい」


 朱里は私の背中を拭う手を止めた。


「そんなことができるなら、大丈夫そうだね」

「そんなことないのに」


 私は呟いて彼女の目を見た。

 風邪をひいて弱っているのだから、ちょっとくらい甘えても許されると思ったのだけれど、どうやらそれは見当違いだったらしい。


「他は?」朱里は言う。「他にしてほしいこともうないの? ないなら帰るけど」

「んー。ちょっと疲れて眠くなっちゃった」私は再びベッドに寝転んで言った。「じゃあこれで最後。私が寝るまで手握ってて」


 こういうお願いはこの状況ではあまりにありきたりすぎると思う。

 だけど私は風邪をひいているし、キスだめでも、手を繋ぐくらい、彼女は許すべきだ。


 私は右手を朱里に向けて伸ばして目を瞑った。朱里は何も言わなかった。

 だけど右手が慣れ親しんだ温度を感じて、朱里が私のお願いに答えてくれたことがわかった。


 少し冷たくて、それが気持ちいい。


「今日は来てくれてありがとね」


 私は目を瞑ったまま、呟く。


「別に。当たり前だから」そう言う声が、想像していたよりも近くで聞こえて、私は内心少しびっくりした。「て言うか、早く寝てよ。帰れないじゃん」


 存外に優しい言葉が聞こえて、できることならそれをずっと聞いていたいと思うけれど、そうもいかない。


 彼女の声と、体温と、安心感と。

 そういうものに、意識が溶かされていく。


 しばらくして、私の意識もほとんど沈みかけた頃、朱里の声が聞こえたような気がした。


 わからない。

 私はほとんど眠っていたようなものだから、それは夢だったのかもしれない。


「寝た?」彼女の声が聞こえる。「寝たよね」


 そうして一瞬、唇に何かが触れた触れたような気がした。それはよく知った感覚だったような気がする。

 それが私の想像するようなものだったのか、それともまた別の何かだったのか、もしくはただの勘違いだったのかは定かではない。


 いずれにしても私はほとんど眠っていたから、その感覚に確信を持つことはできなかった。


「うつしてもいいよ」続けて、声が聞こえたような気がした。「早く学校来てね」


 手に触れていた温度は、私のそれと溶け合っていたせいで、私はそれが離れたことに気づけなかった。

 だから私が彼女の手が離れてしまっていたことに気づいたのは、朱里の帰ったあとだった。


 少し楽になった体を起こして、部屋を見回す。


 朱里はすでにいなくて、机の上の朱里が持ってきていたものすらなかった。

 私は、キッチンへ向かい、冷蔵庫の中に入っていたスポーツドリンクを少し飲んだ。

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