もう一度


 樫の木の幹に足をかけ、ぐっと腕を伸ばして枝にしがみつく。斜面に張り出すように伸びた太い枝を這い、辺りを見回して、栗姫はほ、と息をついた。


「――着いた」


 樫の枝のすぐ先。褐色に染まった葉の向こう。

 もう日も暮れそうな茜色の光に包まれた、朱塗りの大きな宮殿が見えていた。

 皇宮のすぐ側にある山の裾だ。栗姫の住んでいた北殿や、柘榴姫のいる斎宮殿、皇太子や望月姫のいる東宮殿も、すぐ近くに見えている。


 ここまでくればもう、来た道をなぞる必要はない。下へ向かえば都に着く。見つからないように道を逸れようと、樫の木の幹を振り返った。


「おい」


 びくりと、肩が震えた。

 枝の下から、声をかけられた。しまった。もう都が近いからと、焦ってきちんと周囲の人の気配を探れていなかったか。いや、もしかしたら、待ち伏せされて向こうが気配を消していたのかも。もっと早く、道を逸れているべきだった。


 栗姫は固まったまま動けない。大人しく下りるべきだろうか。万一に賭けて逃げてみるべきか。あまり顔は合わせなかったが、これまで随分我が儘を許してくれた紫苑党の人ならば、必死で訴えればこのまま自分を都に行かせてくれるかも知れない。


「なあ――あんた、名前は?」

「え」


 栗姫は目を見開く。

 問われた内容に、ではない。


 その声が――あまりにも、聞き覚えのあるものだったから。


 あの日、皇宮の庭で、今と同じ言葉で。

 この二ヶ月間、毎日ずっと、聞き続けていた声。


「――獅子?」

「うん」


 届いた返事の柔らかさに、おそるおそる、栗姫は自分の足下へと視線を向ける。裾を切ってぼろぼろになった袴から覗く素足の、さらに、その下。

 薄茶に白が混ざって、黄金きんのように見える獅子の髪が、風に揺れた。


「迎えに来た。なあ、頼むから、もう一度俺の手を取ってくれないか、栗姫」


 そう言って、微笑みながら手を差し伸べてくるその瞳が、まるで、ほっとしたように柔らかく細められて。


 ぽた、と。

 乾いた落ち葉に、滴が落ちた。


 滴の元は、自分だった。ぼたぼたと、下瞼から熱いものがあふれて、どんどん零れていく。枝についた手の甲を、獅子の頬を、眼下のかさつく枯れ葉のうずを、栗姫の涙が濡らしていく。

 止められなかった。そんなことを思う前に、もう、あふれだしてしまっていた。


「泣くほど困らせてるのに悪いんだけど、でも、栗姫、」

「馬鹿」


 眉間に皺を寄せる獅子を見て、栗姫は枝から体を離す。差し出されていた獅子の手を取り、樫の枝から足も離すと、どさりと、獅子の上に落ちた。


「……っ」


 獅子が僅かに体をよろめかせる。

 それでも、倒れることなく栗姫を受け止めた。腰と背中を支えられ、栗姫はその肩に顔を埋める。


 自分よりまだ身長も低い。

 けれどずっと、自分の手を引いて、背負ってくれた、獅子の腕だった。落葉の匂いがする。木の実の匂いがする。獣の匂いも、乾いてぱさついた、黄金色の髪の匂いも。


「……泣いてるのに、何で」


 戸惑う獅子に、栗姫は笑った。


「馬鹿ね、これは嬉しくて泣いてるの」


 もう一度、会えた。

 追いかけてきて欲しかった。

 捕まりたくはなかったのに、こうして獅子の手を取ることが、これほど嬉しいと思わなかった。


 ――どうしよう。もう一度逃げられるだろうか。


 泣き笑いしながら、栗姫は考える。芳野と六嘉の要求は退けなければならない。代案が他にあったとして、権力のある皇后の意見をひっくり返せるだろうか……難しいだろう。今の皇宮で、皇后と同等に言い合える人物など、それこそ皇太子ぐらいしかいない。皇王陛下はどの意見にも平等だが、だからこそ、どちらかに肩入れすることもない。

 二ヶ月、皇宮が何もできていないことが証左だった。


 栗姫は獅子の肩を掴んだ手にぐ、と力を入れる。この手を離さなければいけない。今度はちゃんと、話をして。

 その時、大勢の足音が周囲を取り囲むのが聞こえた。

 獅子の肩がぴくりと動く。栗姫も体を強張らせた。大勢の足音。声。武具の音。

 紫苑党ではない。


「いたぞ! 皇女様だ!」


 がさりと、すすきの茂みを掻き分けて現れたのは、鎧を身につけ、槍や刀を手にした、大柄な男たちだった。嫌と言うほど知っている。皇宮を警備する、都の兵士たちだ。

 栗姫はぎゅ、と獅子の服を掴む。

 獅子を、獅子をどうにかして、今すぐ逃がさなければと思った。いや、このまま自分がしがみついて、この身を盾にしていた方が良いのか。どうすれば、獅子を守れる。

 獅子の身がどうにかなることだけは、絶対に嫌だった。


 緊張で硬くなった栗姫の背を、ふいに、獅子の手が撫でる。

 驚いて栗姫は獅子を見た。獅子は、片手でその薄い色の髪を掻きながら、ばつが悪そうな顔で、


「悪い。大丈夫だから、ほんと、悪いんだけど……ついてきてくれないか?」


 訳の分からない謝罪を、口にしたのだった。








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