第十九話 母の影

 よるは来る日も来る日も、お作法とダンスのレッスンと、そして石鹸の開発に勤しんでいた。

 ダンスのレッスンは難航していたが、エドゥアルトの直伝ということもあって、妥協が許されない分よるも気合いが入っていた。

 ダンス、それはよると縁遠いものだった。ポップなダンスだって、集団行動が苦手なよるは自ら率先して高校のダンス部などに所属したことはなかったのに、今回のダンスは更に難度の高い(個人の感想です。)男女が密着しての社交ダンスということになる。

(密着してるだけで緊張するのに、その状態で正確なステップを要求されるとか難易度高すぎでは!?)

 エドゥアルトは幼少の頃から叩き込まれているせいなのか、涼しい顔でやってのけている。だが付け焼き刃に過ぎないよるには至難の業だ。

(男女ステップが逆って聞いたけど、サラッと両方把握してるエドが悔しいけどカッコイイ。これはポイント高い!)

 ぎゅむ。

「…よる、もう一回おさらいしようか?」

 ステップを間違え、足を踏んでしまうと笑顔でエドゥアルトはこのセリフを発する。

(何度も申し訳ない上に笑顔なのが怖い!カッコイイけどエドはエド。容赦しないって言われているとはいえ、やっぱりドS王子感は否めないなぁ。)

「ごめんね、エド。何回も間違えて…。痛かったでしょ…、!?」

 よるはエドゥアルトを気遣ったのだが、逆にエドゥアルトはよるを抱き上げ、部屋の隅の椅子に座らせた。

(お、怒ってる。のかな?)

「よるはダンスを始めて日が浅いから間違えるのは仕方ない。でも、今ちょっとうわの空だったよね?何考えてたの?」

 よるはドキッとさせられた。いくらよるに関しては鋭いエドゥアルトとはいえ、そこまで悟られていたことに対して。そしてもう一つは、考え事の内容を聞かれたことに対してだ。

「えっ、いや、その…。」

 正直に言ってしまえばどんな反応をされるか怖くて、よるは返答に詰まる。しかしエドゥアルトは追及の手を緩めない。

「俺には言えないこと考えてたの?」

 と。

(そうじゃない、そうじゃないんだけど!)

 よるは、ついに観念してポツリと言った。

「…エドが、思ってた以上にカッコイイって、思ってただけ。だよ。」

 エドゥアルトにすら聞こえるか怪しい音量でしか言えなかった。

 エドゥアルトはそれを聞いたか聞かずか、フーッと息をつくと、何も言わずに部屋を後にした。

(呆れられちゃった、のかな?はは…。)

 よるは前の世界での失敗体験を思い出し、涙さえ浮かんできた。また見捨てられるという恐怖に、逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。


 五分後ー

「よる、冷たいお水をもらってきたよ。もう少し休憩したら、もう一度おさらいから始めるからね。」

 連日の公務の合間によるのダンスレッスンに付き合ってくれているエドゥアルトには、先程までは確かに疲労の色が濃かった。そんな中、うわの空でレッスンに挑んでいたと知られて、流石に呆れられていると思っていたのに。

「?、どうしたの、よる。泣いてない?」

 過去の失敗に怯えて泣いていたとは露知らず、エドゥアルトは上機嫌に戻ってきてよるに水を差し出したのだ。

「な、泣いてないっ。」

 急いで誤魔化すよるに、エドゥアルトは囁いた。

「我慢しないで。ダンスレッスン辛かったの?それとも誰かに何か言われた?」

 どこまでもよるに対しては甘いエドゥアルトの対応に、よるの心のダムは崩壊した。

 ついに呆れられたと思ったこと。ダンスレッスンが辛かったというより、今度こそ見捨てられたのではという恐怖と戦っていたこと。など。なのにそんなに優しいエドの対応に心がついて行かないことまで全部嗚咽と共に漏らしてしまった。

「よーしよし。ごめん、よる。さっきよるが呟いた言葉が嬉し過ぎて、己を律しながらこの場を後にすることしかできなかったんだ。少し冷静になったから戻ってきたけど、そんな思いをさせていたとは思っていなかった。」

 そう、エドゥアルトはエドゥアルトで、さっきのよるの呟きをちゃんと理解し、今にもよるに襲い掛かりたい気持ちを抑えて何も言わず退場したらしい。心の中では鯛やヒラメの舞い踊り状態だったのだ。

(そりゃ想い人からカッコイイって言われたら、舞い上がらない方が無理だぞ?よるは、そういうこと素直に言えるのは美点だが、逆に危ういからな。俺も気をつけないと。)

 危ない危ない、とエドゥアルトもひとしきりよるをあやしつつ反省したところで、もうおまじないのようになったキスをおねだりし、ダンスレッスンは再開された。

 その様子を見ていた黒い影が去ることにも気づかずに。

 その後しばらくレッスンを続け、やがて夕暮れになり、少しずつでも上達しているよ、とエドゥアルトから告げられ、ありがとうと返してダンスホールを後にすると、よるは厨房へ向かう。そして暖炉の灰をかき集めると、一箇所に集める。それを水に溶かそうと勢いよく壺へ入れたところで、灰が大きく舞い上がり、タイミング悪くよるはそれを吸い込んでしまい、ゲホゲホと咳き込む。更に灰が舞い上がり、気づけばよるは灰まみれになっていた。

 流石に服は陣営で着ていたような簡素なものに着替えてきてはいるが、灰まみれになって差し支えないかと言われると、そんなことはない。基本的に汚れない方が良いのは当然だが、何かを作ろうとすると、汚れるのは必然である。

 よるが何をしているかというと、植物の灰を溶かした水から灰汁をとり、それを油脂と混ぜ合わせて石鹸を作るという、はるか古代からある伝統的な方法で石鹸を作ろうと日々試行錯誤していた。現代の個人で作る石鹸は、苛性ソーダという劇薬を使っての方法が一般的だという。しかしここではそんなものは手に入らないので、思い出したのがいつぞや実験でやったこの方法だった。

 灰まみれでうんうん唸りながら材料と格闘するよるに、近寄ろうとするものはジノ以外いなかった。ジノはジノで影から見守っていたエドゥアルトに華麗によるに近づくのを阻止されたのだが。

 更に別の影から見ているものがいたことに、エドゥアルトは気づかなかった。

(ふぅん、あの灰まみれの子が想い人ということね。なかなかに面白いことをしているようだけど、見ものね。)

 それは、他ならぬエドゥアルトの母エリーザベトである。真っ赤な唇を意地悪に吊り上げ、その場を去った。

 エリーザベトは退屈が嫌いだ。今の暮らしに退屈したことはないが、新たな楽しみにもなろうというものだ。

 何より他人に関心の薄かった我が子に興味を持たせた少女に興味があった。しかもその少女を息子は聖女と呼び讃え、今や国内では知らぬものはいないほどの有名人になりつつあった。まだその聖女としての技量に国民は疑念を抱いているものの、噂の冷徹王子が溺愛しているとあって、そのインパクトは凄まじかった。

 エリーザベトも、エドゥアルトの少女に対する溺愛ぶりを直に見て、あのひねくれ者をよくぞここまで、と感心したほどだ。

 エリーザベトも鬼ではない。我が子がせっかく愛というものに目覚めたのなら、その思いを遂げさせてやりたいとは思う。しかし立場というものも弁えなければならない。あとは他者をどれだけ納得させられるかにかかってくるだろう。

「ふふ、エドゥアルトも、あの少女も、私をどれほどに楽しませてくれるのかしらね?」

 ひらひらと軽やかに舞いながら、エリーザベトは優雅に城内を闊歩する。

 その様子はまるでダンスに苦戦するよるを嘲笑うかのように。

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