第7話

******



「あれ? ママー、香菜江かなえおねーさんいるよ!」


「あ、ダメよ、理沙りさ。静かにしていてね。香菜江さん、体調が悪いみたいだから」


「はーい」


 なんか、すごくいい夢を見ていたような気がした。


 目覚めも良い。母娘ふたりの会話が、さえずりのようにさえ聞こえる。

 現実に引き戻されてもしばらくは心地よく、ふわふわとした気分だった。


 ……脳みそが覚醒してくる。

 意識がはっきりとしてきて、五感が最初に掴んだ情報は、お味噌汁のこうばしい匂いだった。


 トントントン、と届いてくるリズミカルな包丁の音は、演奏でも聞いているかのように耳障みみざわりが良い。

 二度寝してしまおう――そう思ったところで、はっとした。


 ここ、優香ゆうかさんの家か。


 わたしは、むくりと上体を起こした。


「うっ……」


 とたん、吐き気が一斉に襲いかかってきた。

 頭も痛い。

 完全な二日酔いだ。

 優香さんの家にいるっていうのに、情けなさすぎる。


「あ、起こしちゃったみたいね……、ごめんなさい、香菜江さん。もっとゆっくり寝ていてね」


「いえ……、こちらこそ……。迷惑かけてすみません……」


 段々と、昨晩の記憶が蘇ってきたぞ。


 お酒の勢いで優香さんに想いを打ち明けてしまったんだっけな。

 んー、でも、優香さんを見た感じ、いつも通りの彼女だし。わたしはわたしで、お酒のせいでところどころ記憶があやふやだし。もしかしたら昨日のことは全部、夢だった?

 だって、優香さん、結婚したことない、って言ってなかったか?

 そんなわたしに都合の良い妄想話みたいなこと、あるわけないよな。


「目が冴えちゃったのなら、これでも飲んでみて? 二日酔い、なにがきくのかわからなくって……お味噌汁とかはテレビで見たことある気がして、作ってみたから」


 優香さん、わたしのために作ってくれていたのか。

 彼女は、テーブルにおわんを置いてくれる。

 わたしがそれを受け取ろうとして――小指同士がぶつかった。


「あっ……。ご、ごめんなさいっ」


 優香さんは不自然に慌てて立ち上がり、台所へきびすを返す。

 ――彼女の頬は真っ赤に染まっていた。


 わたしは、ぽかんと優香さんの背を眺める。二日酔いなんて、どこかに飛んでいってしまった。

 

「あれ、ママ、香菜江おねーさんみたいにお顔赤いよ? ママも風邪引いちゃったの?」


「な、なんでもないのっ。理沙も座って待ってなさい。ママは朝ご飯の用意で忙しいから」


 優香さん、声にも動揺がみられた。

 理沙ちゃんも同感だったのか、不思議そうな顔をしてわたしの隣にやってくる。


 ……夢、じゃないみたいだ。

 優香さんは、今さっき、明らかにわたしを意識してくれていた。恋する女性の横顔をしていた。

 わたしも……心臓がときめく。


 たしか、昨晩はかなり脈あり……だったよね。告白してくれて嬉しいし、理想だ、とまで言ってくれていた気がする。

 優香さんのことについては、わたしが途中で倒れてしまったせいで不明な点が多いけど。

 それでも、細かいことなんでどうでもいいって感じで、顔がニヤけてしまうのを止められなかった。


「香菜江おねーさん、ママのお味噌汁おいしい? 嬉しそうだよ」


「え? あ、うん、とっても美味しいよ。ほら、理沙ちゃんもいる? こっちにおいでよ」


 わたしは、膝の上に理沙ちゃんを乗せようと思って、おいでおいでする。理沙ちゃんは素直に小走りでやってきてくれた。


「香菜江おねーさん、元気になったの?」


「うん、ママのお味噌汁もらったら元気になったよ」


「わっ、香菜江おねーさん変な匂いするー!」


 理沙ちゃん、膝の上に飛び乗ってきたと思ったら、一瞬で逃れようともがきだした。どうやら、お酒はまだ残っているようだ。

 実際、二日酔いが完全に回復したわけではない。けれど、メンタルは人生で一番といっていいほど好調だし、横になる気分でもなかった。


「あはは、ごめんごめん。お酒はもう飲まないから、嫌わないでよ」


 まるで、本当の娘に言い聞かせているような気がして、またも頬がゆるむ。でも、家族になる可能性も高まってきたし、理沙ちゃんとの生活が続くことも想定しないといけないよね。


「飲み過ぎはよくないけれど、たまにならいいと思うわよ。お仕事、大変なんでしょう?」


 優香さんが、軽いおかずの載ったお皿を持ちながらやってきた。

 会話に入ってくれるあたり、多少は落ち着きを取り戻したのだろう。


 本当は、優香さんと二人っきりでゆっくり話し合いたいのだけど。理沙ちゃんがいる手前、気まずい話はできそうもない。かといって、まだ幼い理沙ちゃんを放っておくわけにはいかないから、チャンスをうかがうしかないか。


「仕事のストレスでお酒を飲む、ってことはあんまりないですよ。それより、今日はこのままお邪魔しちゃっていいんですか?」


 できれば一緒にいたい。そんなわたしの気持ちをみ取ってくれたのか、優香さんは首を縦に振る。


「わーい、香菜江おねーさんと遊べるー」


「今日はしいかわ持ってきてないよ。ごめんね」


 理沙ちゃんはそれでも構わないよ、と喜んでくれた。ただ、お酒臭いのは苦手なのか、しばらく近寄ってもらえなかったが……。

 娘に忌避きひされる父親の気持ち、今ならわかる気がする。


 優香さんは、わたしの体調を配慮してくれて、お昼までゆっくりさせてもらえた。わたしは仕事帰りの格好のままなのでお風呂や着替えが必要になり、いったん帰ろうかとも思ったのだけど。居心地が良いのでずるずると居座ってしまった。

 正午を迎えようとするあたりで、わたしはようやく立ち上がる。


「ちょっと着替えたりしたいので、一回帰りますね」


「香菜江さん、スーツのままだものね。あ。じゃあ、途中まで一緒に行っていいかしら? 理沙と公園行ったり、お昼何か買ったりしたいから」


「わかりました。じゃあ行きましょうか」


 早速、家を出る。

 優香さんは、よくいるママさんのような格好だ。彼女の私服姿ならいつも見ているけど、似合っている。普通のシャツに普通のジーパンなのに、本人が綺麗だから衣類まで光って見える。公園で理沙ちゃんを遊ばせている姿も、きっと神々しいんだろうな。


 さっさとシャワーと着替えを済ませて、合流しないと。


 わたしの家へ向かいながら、ちょっとした雑談が続く。理沙ちゃんは、わたしと優香さんに手を繋がれている。三人で歩くときは、これがデフォルトになりつつあった。


「今度、香菜江さんのおうちにもお邪魔させてね」


「えっ。うちですか……。ただのアパートですし、狭いからやめたほうがいいですよ……」


「うふふ。お掃除のしがいがあるといいのだけれど」


 優香さんは主婦の血が騒ぐのか、だらしない一人暮らしでも想像してくれているみたいだ。

 

「あはは、最低限は整理整頓してるつもりですけどね。ただ、どうしても平日は掃除とかサボってしまいがちです」


「じゃあ、私がいつでもしに行ってあげるわ」


 優香さんは、頬を染めながら提案してくれる。

 うぅ……完全に恋人みたいだ。今、わたしが手を繋いでいるのは理沙ちゃんなのに、緊張して手が汗ばんでしまう。


「あー、だったら、香菜江おねーさんもうちで暮らせばいいのに!」


 理沙ちゃんが突然、名案だ! といわんばかりに叫ぶ。

 わたしと優香さんは目を見合わせて、固まってしまった。


 もちろん、わたしにとって一緒に暮らすのは歓迎だし、その未来を常に妄想していた。

 だが、いくらなんでも唐突とうとつすぎる、よね。


「理沙は、香菜江さんがうちに来てくれたら、嬉しい?」


「うん!」


 即答する理沙ちゃん。

 優香さんは、その解答を受けて、ちらりとわたしに目線を寄こした。どうやら、優香さんも、まんざらでもない表情をしている。


 今すぐにでも引っ越し手続きをしたい。

 したい、が。

 優香さんの気持ちとか、優香さんと理沙ちゃんの関係とか。色々聞いてからのほうがいい気がする。


「……まあ、長話は後にしましょうか。わたしの家はこっちですので。公園はそこですよね? シャワー終わったら、合流しますよ」


「え、う、うん。それじゃあ、また後で、ね?」


 ギクシャクしたまま、別れを告げる。

 なんかもう、付き合いたてのカップルってことでいいよね? ……昨日、告白したわけだから、そういう関係になっててもおかしくはないし。優香さんの答えを直接聞いたわけではないけど、彼女の態度を見る限りOKってことでいいのか? むしろ、あそこまで思わせぶりな態度をしておいてお断りでもされたら、再びやけ酒コースだぞ。


 ……早く、優香さんたちのもとに戻りたいな。

 今は一秒でも長く、彼女たちと一緒にいたかった。


 わたしは駆け足で自宅まで戻り、シャワーと着替えを済ませるのだった。

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