妄想

笹十三詩情

妄想

 オナニーを終えると、息を付く暇もなく、俺はまた、次のオナニーを始める。黄ばんだ布団を被り直し、その中でスマホの画面に映る彼女の画像を凝視する。画面のふちに俺の、かどうかわからない、いや、間違いなく俺のものだが、陰毛のような縮れた毛が付着している。俺はそれを「彼女のものだったのではないか」、と、全く持って頭のおかしい妄想でもって「ではないか」から「間違いなくそうだ」という発想にすり替え、その陰毛らしき毛を口の中に入れる。前歯で細かく噛み切り、奥歯ですりつぶし、味わう。

「それ、わたしのじゃないよ」

 「彼女」の言葉に、「やっぱりそうか」と返して、俺は唾と一緒に噛み潰された陰毛の断片を畳の上に吹き出す。

 俺は、俺の、性欲とやらが、気持ち悪かった。気持ち悪いほどの性欲ではなくて、いや、まあそれもあるが、なにしろ俺は俺の性欲そのものが気持ち悪いのだ。確かに陰毛食ったりするのは気持ち悪い、のだが、それ以上に、俺の中に「性欲」という欲求が巣くっていることが気持ち悪い。気持ち、悪いのだが、俺はそこから逃げ出すことができない。

「なにしてんの」

 オナニーはしっかり続けつつ、気持ち悪すぎて精神的に七転八倒しながら涙と鼻水を垂れ流す俺に、「彼女」は冷ややかな言葉を放つ。

「なにって、オナニーしてるだけだ」

 だけ、ではない。全く持って、だけ、ではない。自分の陰毛を「彼女」のものだと、彼女のものだと、思い込み、食っちまうほど俺の頭は性欲で満たされている。それ故、その性欲という、世間一般で忌み嫌われる欲求が、俺の中にあることを意識させられる。その意識は、俺の人生とやらにおける、他でもないこれまでの俺の選択の結果が、この無残な人生と同義の「醜悪」極まる「オナニー」に集約されているのだと感ぜられる。と、今までの俺の艱難辛苦の歴史の全てが、この、「オナニー」という結論でしか語れず、しかもその結論が醜悪でしかないものだとしたら、と、そこまで考えて、いや、もう、そんなことはどうでもいいと、思う。思うのだ。

 俺がみじめだろうと、無残だろうと、醜悪だろうと、どうでもいい。「オナニーをする」とは、俺の性欲を刺激する全ての、良心的な「現象」「事象」「存在」を、俺の愚劣な劣情でもって消費する行為であるのだ。仮に、いや、オナニーなんてものは、誰に迷惑かけるものでもないはずだが、それでも、俺が、俺の、性欲を満足させるためには、なにかを精神的に「消費」しなければならないのだ。しなければならない訳もねえのだが、消費しているという悪意。それが意図的か、非意図的かにかかわらず、性的消費という唾棄すべき観念が俺の中にある。だからこそ、俺は死ね。その対象が彼女であれば、俺は、さらに、さらに、陰惨に死ねば、いいと、思うのだ。むしろそう懇願してしまうような心持ちでもあるのだ。が、それでも俺はオナニーが、消費が、やめられないのだ。

 そんなに嫌ならやめればいいものだが、俺は、それが、やめられぬ。やめられぬ。やめられぬのだ。なぜやめられぬ。なぜ。

わからぬが、とにかくやめられぬ。のだ。

 いや、だが、まて。これではまるで思想犯ではないか。精神検閲ではないか。これでは性欲を持つ全ての人類が犯罪者だ。いや、だが、まて。俺は、俺だけでも、性欲を超克しなければならぬ。のだ。でなければ、俺は彼女にどう接すればいいのかわからぬ。のだが。

「答えがでないの?」

「ああ」

 「彼女」は俺の思考を盗聴して語りかけるが、俺は彼女への接し方がわからず、かといって「彼女」は立ち去ってくれぬから、必要最低限の答えを返す。

「なら、問いの立て方が違うんじゃない?」

 それは全てにおける真理だった。故に、俺は何も言い返せず、何も言い返せぬ故に苛立ち、苛立つ故にふて腐れて一層激しくオナニーをする。

 しかし、その行為こそがそもそも全ての間違いの根源なのではないのか。ないのか。と思うのだが、やはり俺はその、オナニーという行為が、やめられぬ。問いが間違っているにもかかわらず、俺はその問いの立て方しか知らず、また、その問いの根源にある罪を捨てられぬ、のだ。オナニーに嫌気が差し、性欲に嫌気が差す。差してくる。のだが、俺は、オナニーがやめられなかった。結局射精。射精まで、至り、性欲が満たされると、悲しみはより一層その強さを増す。

 スマホの画面が、まともに見れない。その画面の中に写る、人物が、俺の隣に、いる。俺は彼女を何度抱きしめたかわからない。抱きしめられたかわからない。そんな関係のはずなのに、まともに画面が見れぬ。「彼女」の顔もまともに見れぬ。俺は「彼女」に目を背け、布団の上で寝転がり、天井の木目を無感情に観測する。

 俺は、俺は一体なにが欲しかったのか、なにがしたかったのか、わからぬ。もうわからなくなっていた。のだが、彼女を愛していることは確かなはずなのだ。

気が付くと、なにもかもぼやけた空間の中で、俺達は手を繋いでいた。いや、それは彼女以外のすべてがどうでもよく、俺の意識は彼女しか捉えていなかった故かもしれない。いや、間違いなくそうなのだろう。俺は、それ以上何もいらなかった。何も望まぬ。ただ、満たされた気分だけが、あった。彼女がこちらを向いて、俺に微笑む。俺はもうそれだけでよかった。ここで死んでよかった。死ねればよかった。「俺なんぞ死ねばいい」と思い、同時に彼女のためなら死ねると思う俺は、死を希求する。が、軟弱な俺は、それでも死ねなかった。俺は、彼女のための死が迫っても恐らく死に際に「死にたくねえ」とほざくだろう。故に、故に、俺は生きたい。未来永劫生きていたい。生きていたいが故に、俺は彼女のために全てを賭けて、未来永劫の人生という「永遠」を彼女のために使いたかった。

 のだが、俺には死も永遠も手に入らなかった。

「目は覚めた?」

「ああ」

 あれは、全て、夢だった。あの満ち足りた時間は夢であったのだ。俺は仰向けで下半身丸出しのまま布団に寝ていた。尻には布団の布の感触。脚やら腿には流れる空気の温度が感じられる。彼女は俺を見下ろしていた。「彼女」に触れようとした。触れたかった。触れたかった。触れたくて、どうしようもなかった。

 のだが、触れれば「彼女」が消えてしまうことはわかっていた。

「さわってていいの?」

 その言葉に、俺は返事が、できなかった。「彼女」とは、彼女の幻影。昔別れた彼女を愛し、恋し、想い過ぎた結果、俺の脳内妄想が生み出したイマジナリーラヴァー。「彼女」に触れる、ということはつまり、現実を知ることに他ならない。妄想の産物である「彼女」には実体なんぞというものはない。触れられない、という現象を直視すれば、俺の妄想は現実というやつにとどめを刺され、「彼女」は消えてしまうだろう。その確信があった。故に俺は「彼女」に触れられぬ。

 それはわかっている。わかっている、のだが、俺は「彼女」に触れたかった。手を繋ぎたかった。抱きしめられたかった。抱きしめたかった。が、それをすれば「彼女」の存在は霧散する。それでも、いやしかし。だがそれでも。それでもそれでもそれでも……。と、そうやって、それを繰り返すだけで、俺の日々は過ぎ去っていく。

「たばこでも買いに行ってみれば? 散歩でもしながら」

 「彼女」のその言葉に俺はまた「ああ」とだけ返し、彼女ならば決してそんなことは言わないだろう、と思いながら、ズボンを履き、部屋から出る。

 八月の熱気にやられながら、数百メートルの道を、歩いて行く。俺は「彼女」に触れられぬ。彼女にも、な。その思いだけが、脳の中にこびりつき、蒸し暑い気温によって焼け焦げていく。俺の脳にはそれだけを考える余裕しかなくなっていく。いや、この熱気によって、そのことを考える余裕すらなくなっていく。全てが薄れていく。詳細がぼやけ、薄まっていく。にもかかわらず、なにか強い、強烈な、感情だけは、残っている。その感情が、愛なのか、それすらも、わからなくなっていく。が、とにかく強烈な感情だけが、あった。

 コンビニにたどり着く。クーラーが効いた店内だが一度朦朧としてぼんやりしちまった俺の意識は、少し店内をうろついたくらいでははっきりしない。レジでたばこの番号を言ったはずだが、何番と言ったか自分でもわからない。

 そんな、おぼろげな、俺の意識がたまたま、本当にたまたまだが、店員の名札に書かれた名前を捉える。

 そこには、彼女と同じ名前が書かれていた。隣を見る。「彼女」は、彼女の方をじっと見ている。

「五百八十円です」

 その声を聞いて、「彼女」にあれは彼女ではないと言って欲しくて、また「わたしじゃないよ」と言って欲しくて、隣を、「彼女」に縋るような視線を向ける。が、「彼女」は無言のまま、俺の方を見なかった。

 何がなんだかわからぬまま、思考とやらがさらにまともに働かなくなった俺は、それでも代金を払ったらしく、それでも歩いて帰ったらしく、部屋でヤニ吸いながら、また布団の上にいた。

「なあ」

「なに?」

「手。手を繋いでくれないか」

「いいの?」

「頼む」

「うん」

 俺は「彼女」に最後の懇願をした。「彼女」は彼女ではないことはわかっている。触れられぬことも、わかっている。十分にわかっている。それでも、それでも、それでもそれでもそれでも……。

 俺は布団から起き上がり、あぐらで座る。「彼女」がその隣に座って、「彼女」の香りが、した。記憶の中の彼女と同じ香り、が。

 手を、繋ぐ。繋ごうとする。俺達は、手を、つなごうと、した。途端、「彼女」は消え、残り香だけが、あり、俺は一人、きたねえ部屋に残されていた。

 彼女も、「彼女」も、俺は失い、泣き、鼻水を、たらす。その鼻水によって息ができなくなる。俺は俺の掌でもってその鼻から垂れ流された鼻水をかむ。

 それをじっと見つめていると、その鼻水が彼女の、「彼女」のもののように思えてくる。いや、間違いなくそうだ。そうなのだ。世迷言であることはわかっているのだが、またしても俺のふくらみすぎた妄想によってそれが現実のことだと思い込みを思い込ませる。

 俺は彼女の、「彼女」の鼻水を、舐める。

 そうか、と、俺は気付いた。愛する故の性欲、愛する故のオナニー、という言い訳も消費も真実ではなく真理でもなく「お前の鼻水を舐めたい」。そんな欲求こそが性欲も消費も超克した「愛している」の真実であり、真理であったのやも、しれぬ。

 たばこを取り落し布団の焼け焦げる匂いに上書きされ彼女の「彼女」の香りが消えていく。俺は掌の鼻水を、布団の布にこすりつけて拭いた。

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