三題噺 井沢早紀の話

Licca

第1話 蠱毒 錦鯉 老父

 物心ついたときからずっと希死念慮を抱えて過ごしてきた。死にたい自分が常で、それを感じていないときの自分がいるときなんてなくて。

 自分を曝け出すだけ無駄だと思って、他人には何も相談しなかった。一人で抱え込む自分を生み出したのは、他でもない自分なのだけれど、そういう自分を創ったのは父親で。

 父子家庭で育った。それも、虐待を受け続けるような家庭で。そんな父親を持っていて、ただでさえ異性というだけで相談し難い事柄は多いのに、自分の核心をつくような事は、自分に害を成す人には何も話せるわけがなくて、気付いたときには塞ぎこんでいた。

 塞ぎ込んで、その上卑屈で、そんな性格になってしまった私だから、学校に行っても友達といえる関わりの人間はいなくて、孤独で、周りの“普通”で“当たり前”の家庭で育っている同い年の子たちを見ると空しくなってしまって、中学1年生の夏休みを境に行くのを止めた。

 20歳になった今、学校にも在学せず、ただ部屋に引きこもってインターネットの海を漂い過ごすだけの自分に嫌気が差してきたところ。

 昼過ぎに目覚めて、SNSを巡回してすぐ、夕方には帰ってくる父親のためと、自分のその日を生きるための食事の用意をする。

 散らかってしまったままの2LDKの我が家。台所に立ち、父が適当に買ってきたであろう食材を眺める。今日は何が作れるだろう? 金曜日、終末にしか買い物に行かない父だから、冷蔵庫に残った食材は残り少なかった。自分だけ食事を取るのであれば、正直食べられればなんでもいいのだけれど、そういうわけにもいかないから。

 父は、食事にも煩い人で、ありもので作るのはいいとしても、あまりにも適当なものを作ると、手すらつけずにそのまま放置して、腐らせるような人だ。

それだけならまだいい方で、手をつけられなかった食事は明日自分が食べて片せば済む話で、そのときの父の機嫌次第では、皿ごと私に投げつけて、そのまま父の鬱憤のままに殴られ蹴られの暴力を受ける。

 学校にも行かず、就職もせず、ただ引きこもっているだけの私だから、せめて、最低限の家事はしないと、いつ家を追い出されるか分からない。

「味付けが気に入らなかった」

 と、先日殴られた腕の痣を見ないふりしながら包丁を握る。年季の入った調理器具は、新調して欲しいものも多いけれど、父の裁量でしか調達してくれないから何もいわずに使い続ける。


「ただいま」

 食事の準備が丁度終わったときに父が帰宅する。

「おかえりなさい」

 私たちの会話はほとんどなくて、食事を共にする事もない。じゃあいつ自分が食事を取っているかというと、父が寝静まってから。

 なんでそうするのか、それは、食事を取ったあとに暴力を受けて吐いてしまったら食べたものがもったいないし、掃除をするのは私だから。

 父はスマホで動画を見ながら食事を進めている。私は台所に戻って、調理器具たちを洗ってしまう。

 片付けが終わって私は部屋に戻って、横になりネットを漂う。

キラキラした世界は嫌いだった。だから、リア垢なんて引きこもりになった時点で消したし、同年代のインフルエンサーは見つける都度ブロックしてきた。

 インターネットには、自分より年上で、自分よりみすぼらしい人が多くいて安心できた。そんな人たちだけと繋がって、この世の掃き溜めのようなところだけが私の居場所だった。


 夜も更けて、時刻は深夜の2時を回ろうとしていた。父はさすがに寝たのではないだろうか。それを見計らって、コソコソと食事を取りに向かう。

 部屋のドアを開けようとしたそのときだった。私がドアノブに手を掛けようとしたタイミングで、ドアが開き、酔っているのか赤く爛れた顔をした父が私の部屋に乱入してきた。

「わ!」

 目が合った瞬間父に押し倒される。酒を飲むと人が変わるような人だから、あまり好んで飲むタイプの人ではないはず。会社かなんかで何かあったのだろう。ここまで深酒した父は久しぶりに目にするし、これから何が起きるかも察して、私は目を瞑って自分を手放し無になった。


 次に自分を取り戻したときには、自分の秘部に嫌な滑りを孕んでからだった。あぁ、結局また。

痣だらけになった体を見て嗚咽する。

もうこんな生活は嫌だ。死にたいと願い続けるだけで何もできなくて、結局父の好きにされ続ける自分も嫌だ。

 数ヶ月前にも、同じ事はあった。思い返せばそれ以降生理は止まっている。

まさかね。そんな事、あっちゃいけない。

 不安になった私は、父の財布から金を竦めて24時間営業のドラッグストアへ駆け込み検査薬を買い、ドラッグストアにあるトイレですぐに検査をする。

 そのまさかだ。検査結果は陽性。私は実父との間に子供ができてしまっていた。

 絶望、その一言に尽きる。一瞬わけが分からなくなっていた頭が冷静さを取り戻したとき、私の中の何かがプツンと切れてしまった事にも気付く。

 ふらふらとした足取りでドラッグストアをあとにして、たどり着いたのはオートロックのない高層マンションの最上階。

 もう死んでしまおう。

15階の高さなら即死だろう。飛び降りてしまおう、そう思って身を乗り出す。

「何してるの? 君」

 泣きながら決心を待っていたところで、フロアに住んでいるだろう住人らしき男が偶然出てきたようで、声を掛けられる。

「死のうとしてるの? 止めなよ」

 そう言うと男は、否定しようとした私の服を引っ張って、助け、無理矢理自分の部屋へ連れ込む。

「いっぱい泣いていいよ」

 男は、玄関で倒れ込んでいる私を起こし、抱きしめる。

 人の温かみに触れるのは、いつぶりだろう? もしかしたら初めてかもしれない。

「大丈夫?」

小一時間泣き続けた私を黙って抱きしめたままいてくれた男は、見た感じ若く、自分と年が近いように思えた。

「立てる? あっちにソファがあるから、そこで一旦休もう?」

 介抱するように私を優しく立ち上がらせ、ソファまで手を引く。

一人暮らしなのだろうか? 適度に散らかっている部屋は私にそう思わせた。テレビもない部屋には、ソファとテーブルだけがあり、寝室は別にあるようだった。

 ソファへ腰掛けてぐったりしている私に、男は水を差し出す。

「ごめんね、お茶とかジュースがあったら良かったんだけど」

「……」

「ところで、何があったの?」

 男のその問いに、落ち着いていた感情の波がまた荒くなり、再び涙を流す。

「ゆっくりでいい、聞かせてよ」

 私をまた、優しく抱きしめた男はそう言う。

嗚咽交じりに、事の経緯を全て話す。聞かれてもいない、自分の生い立ちや現状まで、時間を掛けて話しきってしまった。私が話している間男は、私の言葉に相槌を打つだけで、否定もしなければ男自身の話も何もしないでいてくれた。


「しばらくウチにいなよ、僕は雅臣って名前。好きに呼んで。君の名前は早紀ちゃん、で、合ってる? 話の節々から察するに」

「え、はい。合ってます。でも、ウチにいていいって、そんなの悪いですよ」

「いいんだよ、どうせ行く場所なんてないんでしょ? それに、僕普段はほとんど家にいないから。気楽にいれると思うよ」

「……? なんで家にいないんです?」

「学校と仕事かな。僕の事なんていいから、とりあえずお風呂入って、顔と体洗っておいで」

 部屋を出て右側、そう言われた場所にあったバスルームは、悪い意味で綺麗で、さっきまでいた部屋も然り、生活感があまりなかった。

 シャワーを浴びるも、体中にできた痣に水が当たるのが痛かった。それに耐えて、風呂をあがると、バスタオルと、部屋着が用意されていた。

「あの……、部屋着までありがとうございます」

「あぁ、いいんだよ」

 音楽を流しながらタバコを吸っていた雅臣は、こちらにニコリと微笑みかける。

「疲れたでしょ? 僕はソファで寝るから、早紀ちゃんはベッド使い~」

「さすがに、申し訳ないです。私がソファで寝ますよ、なんなら床でも大丈夫なんで」

「えー、それは僕が嫌。じゃあ、一緒に寝る?」

「え……」

「うーん、それがいいね、そうしよう! 行こうか~」

 抱きしめられたときの感覚が正直心地良くて、否定できなかった。雅臣に手を引かれるまま、一緒にベッドへ潜る。

「いっぱい辛かったね」

 そう声を掛けるものの、こちらには背を向けて眠ろうとしているのは、雅臣の気遣いなのだろうか。

「あの、引っ付いてもいいですか……?」

「うん、いいよ、好きにしな」

 雅臣の背中にぴたりと引っ付いて、目を瞑る。抱きしめて欲しい、だなんて欲張りな事は言えないけれど、背中伝いに感じ取る雅臣の体温が心地良い。

 父から不意に暴力を受ける事もない。独りで嫌な事を考える事もない。

安心。

 安心して眠りにつく事ができる。普通の人なら当たり前のことなのに、私にとってはすごく幸せな事に感じた。


 目が覚めたのは相変わらず昼過ぎの事で、隣には雅臣の姿はなかった。

月曜日か。そう言えば学校と仕事で家にほとんどいないと言っていたっけ。少し寂しさを感じながら、スマホを眺める。そういえば、妊娠していたと思っていたけれど、雅臣に連れられて産婦人科に行って、きちんと検査をし直したら、検査薬の誤診だと分かった。

 人の家でダラダラと過ごすのは申し訳なさも感じるけれど、勝手に掃除をして家を漁るのも気が引ける。

 よし、雅臣が帰ってくるまで寝よう。音楽を聞きながら目を瞑る。


「早紀ちゃん、ただいま」

「ん……おかえり、なさい」

 ずっと眠っていた私の頭を撫でる雅臣の目は少しトロンとしていて、酔っているようだった。

「僕ね、言ってなかったけど、昼間は専門に行ってて、夜はホストしてるんだ」

「そうなんだ、たくさん飲まされるの?」

「毎日、しこたまね」

「へぇ……」

 初めて会ったときの雅臣はメイクも何もしていなかったが、ホストというだけあってか、今はメイクをしていて、印象が違った。ただでさえ、整った顔立ちをしているが、それを際立たせるメイクで、かっこいいというよりは、美しい。そんな印象を持った。

「早紀ちゃん、何も食べてないでしょ。冷蔵庫の中、何も減ってないんだもん」

「いや、なんか申し訳なくて」

「好きに食べていいよって、言っていれば良かったね。何か食べる? こんな時間だけど」

 スマホをつけてみると、時刻は深夜2時を回っていた。確かに、ホストならこの時間には終わって帰ってくるのか……。

「ねぇ、早紀ちゃん、一緒にご飯食べようよ、僕は疲れたから出前になるけど」

「うん」



 雅臣の家で過ごすようになって2ヶ月が経って、雅臣が家にいない間私は家事をして過ごすようになったけれど、生活に掛かるお金は全て雅臣持ちにさせている事が罪悪感で、求人を見る事が増えた。

 学歴も何もない私だし、バイトもした事がないから、どこでも働けないのではないだろうか? そんな不安があって、それは久々に抱いた負の感情だった。

 父に暴力を受けながらでも、せめて学校には行っていたら、奨学金を背負ってでも高校まで出ていたら。

 高卒だったら、今からでも遅くない。通信制高校に行くなり、大検を取るなり、手段はある。でも、仮に、借りるとしても最初のお金は雅臣に出してもらう事になる、と思うと踏み出せない。

 学歴不問で、私でもできそうな仕事……、コンビニは覚える事が多いっていうし、スーパーとかアパレルも怖いし。……考えは最初から決まっていた。

 風俗に手を出すきっかけは、風俗落ち、なんて言葉もあるくらいだから、それこそホストや借金がきっかけの女の子が多いのだろうか、だなんて思う人は多いと思うけれど、SNSを見ていたら、意外と自分のために始める人も多い事を私は知っていた。

 色んな話を聞いてきたからこそ、楽して稼げる仕事ではないのは理解している。けれど、自分にできる仕事は、今はこれしかないと思って。

 風俗の求人に目をやる。どうせなら、雅臣がいない時間は私も働いていたい。勿論家事もするけれど。それを考えると、デリヘル、になるのかな。時間帯的にも。

 自宅待機ができる店舗を探す。福岡は地味に都会というだけあって、自宅待機ができる店舗はたくさんあった。自分のスペックに合う店に絞って、面接と体入の日程を組む。

 今夜も雅臣はいないから、今夜飛び込みでいけるところにいこうか。


 デリヘルの仕事は、正直、性に合っていた。父からの仕打ちがあったからこそ、ハードなプレイにも耐える事はできたし、嫌な客がきたときに心を無にする事もできた。

 送迎に女の子と同乗したときに話をするときもあるけれど、ホストクラブに通っている事がこの仕事を始めたきっかけの女の子はちらほらいた。

 そうやって、ホストクラブの話を聞いたり、SNSで見た情報だったり、色んな事を知っていく内に、ホストに興味が出てきたというか、働いているときの雅臣を見てみたいと思うようになってきている自分がいた。

『ねぇ、今日、まさの働いているお店に遊びに行っていい?』

『急にどうしたの』

 雅臣が大学に行っている時間、私の待機中、思い立ったが~な自分だから、今日行ってみたいと思った。から、メッセージを送る。

『ダメ?』

『うーーー、別にいいけど』

 雅臣は、同居を続けるにも関わらず、私が稼いだお金には一切手をつけなかった。私が自分で自分の買い物をするために使うお金以外は全て、貯金として残っていた。

『じゃあ行く』

 それから、何通かメッセージをやり取りして、同伴して初回指名で雅臣の働くホストクラブに行って見る事になった。


「早紀ちゃん!」

「おかえりなさい!」

 私を迎えにくるために一旦帰宅した雅臣は、少し心配そうな顔をしていた。

「店にくるのは全然いいんだけどさ、正直言って、今日だけにして欲しいんだよ」

「なんで?」

「早紀ちゃんはさ、こういうところにハマってしまいそうで怖いんだ、そのためにお仕事するってなったら絶対辛くなると思うし。今まで早紀ちゃんが辛い思いをたくさんしてきたの、僕は知ってるから、新しく辛い思いをする日々を送る事にはなって欲しくないんだよ」

「そっか、そんなとこまで考えてくれてたんだ、でもさ、まさは私の稼いだお金を生活費には当てないし、なら、せめてホストとしてのまさに使って、それで少し助けになりたいよ」

「うーーーー、とりあえず、今日だけ。それからの事は今日が終わってから一緒に考えよう」

「分かったよ」


 20時の繁華街。コロナ渦が過ぎてから人通りは多くなってきていて、中洲は賑わっていた。

「お店はもうオープンしてるけど、どうしよっか? ご飯はおうちで一緒に食べちゃったし、一緒にカラオケでも行く?」

「ううん、大丈夫」

「そっか、分かったよ、行こう」

 雅臣の隣を歩く。そう言えば、少し一緒に買い物に行く事はあったけれど、デートはした事ないよなぁ、なんて。ただこうやって一緒に歩いてホストクラブに行くだけなのに、デートのように感じるなんて、自分は少し可愛いのかもしれない。

「「いらっしゃいませーーー!!」」

 少し暗くて、それでも華やかで、気分が乗るようなBGMのかかった店内は、王子とお姫が特別な時間を過ごすためにあるのだと感じる。

「ね、ここでは、おみくんって呼んでね」

「分かった」

 ホストとしての雅臣は、普段私に見せる顔とは違っていて、話も盛り上げてくれるし、お酒を飲んでいる事も相俟って今までに感じた事のない、楽しい時間を過ごす事ができた。

 ホストにハマるかもしれない、そう言った雅臣の気持ちが分かってしまった。正直、ついてくれた他のキャスト指名だったら分からない。雅臣だから、というのはあるだろう。

 深夜1時、一緒に帰ろう、と言われて店の近くで待っていた。

「早紀ちゃん! お待たせ!!」

「んーん、お疲れ様」

「帰ろっか」

 二人でタクシーに乗り込み、帰路につく。

タクシーの中でぐったりとはしているが、スマホで色んな人にメッセージを送っている雅臣。嫌な感情なのだろうが、雅臣は人気があるのだと、思い知った日になった。

 なんのイベントでもない日なのに、同時に5卓被ったのだから、否応なしに思い知らされる事。

 同じ屋根の下にいるのは私なのだけれど、それでも、たくさんの時間を一緒に過ごせているわけではないし、今こうやって返信に追われている雅臣は正直見ていたくない。

「まさ、あのね」

「うん?」

 メッセージを送る手を止め、私の目を見て答える雅臣。

「やっぱり私、時々、お店行きたいよ。もっとまさと一緒にいる時間、増やしたい」

「うーーー、嬉しいよ、ホストとしては、毎日でもきてって言うべきなんだろうけど」

「ダメ、なのかな、私は私なりに、まさのこと支えたいよ」

「……分かったよ、ただ、絶対の約束をして」

「なぁに?」

「辛くなったら通うの止めて」

「うん」

 私の手を握り、真剣な目で言う雅臣は、本気で私の心配をしてくれているのだと感じた。


 それから、週2~3でホスクラに通う生活が始まった。

雅臣はナンバーに入るような人気のあるホストなのだと、通うほどに思い知らされる。私が卸すシャンパンよりも高いシャンパンを卸す被りもいれば、毎回のように、何時に行っても被りがいる。

 私は一緒に住んでいるんだ! そう自分に言い聞かせても、嫉妬が自分の中で渦巻いて募っていく。

 私は、雅臣の事が好きなんだ。

出会って最初のうちは、ただの優しい人だと思っていた。でも、一緒に過ごしていくに連れて、大切な人だと思うようになって、今まで気付いてなかったけれど、独占欲が湧くくらいには、雅臣の事を好きになっている自分がいたんだ。

 ホストクラブは、半ば蠱毒のようなものなのかもしれない。たくさんの被りが喰い合って、一番お金を使えた人が最後に選ばれるような。そうとは限らないケースもある事は知っている。でも、それでも、私がエースにならなければ、誰かに水揚げされるかもしれない。こわい。

 移動のタイムロスすら惜しくなって、店舗型のヘルスに移籍して、ホスクラに行かない日は、オープンからラストまでで出勤するようになった。

 デリヘルのときは、家事もしていたのに、今は仕事で疲れて帰ってもただ食事と風呂と睡眠だけ。

隣で雅臣が眠っている、それだけで、至福だった。アフターに行っても、枕営業はせずに、必ず家に戻ってくる、私の居場所でいてくれる、そんな幸せが大好きだった。

 だからこそ、誰かに取られてしまう恐怖を覚えてしまった私は、必死になるしかなかった。

 ホスクラが蠱毒と例えたが、それは、真を言えば、被り同士での戦いと言うよりは、自分の中に渦巻く感情の蠱毒。こわい、辛い、止めたい、逃げたい、続けたい、色んな感情を戦わせて、残った感情の呪いに縛られる。

 私の蠱毒で残った呪いは、雅臣の隣に居続けたいって感情。だから、仕事は辞めないし、ホスクラに通う事も止めない。

 ただ、本当はね、もうとっくに苦しいよ。

君に言われた絶対の約束、こっそり破ってしまって、本当にごめんなさい。


 自分の中で渦巻く感情と戦いながらの暮らしに慣れてきたころ、ひょんな事から、実家に帰らなければ行けないタイミングがあった。

 ただ、必要になったものを取りに帰るだけなのだけれど、今現在、父はどう過ごしているのかと気にはなっていた。

 仕事が終わって、時刻は深夜1時前。実家についてどこか懐かしさを感じながら鍵を開け、中へ入る。

「……ただいま」

 なんとなく、ただいまと言う。父はもう寝ているようだった。私がいなくなってこの家は酷く荒れていた。テーブルには食べたあとの弁当の空や、空き缶がたくさん残されていて、散らかっていた。赤カビだらけの風呂場とか。

 そっと、父の寝ている寝室を覗くと、父の顔はまるで老父のように老けて見えた。たった半年会わないだけで、こんなにも人は変わって見えるのか。それともこれが本当の父の姿だったのだろうか? 実家で過ごしていたころの私は、正直、父の顔なんて良く見ていなかったし、見たくなかった、から。そう思うのかもね。

 印鑑やら通帳やら。必要なものを取ってそっと実家をあとにする。



 実家を出てから、1年が経とうとしていた。私は相変わらず、雅臣のために身を削る生活をしていた。きっと、雅臣は、私が辛くなっている事、気付いているだろう。でも、どうせ言っても聞かないから、何も言ってこなかった。ただ、一緒に眠っているときは、初めとは違って、必ずこちら側を向き眠って、ずっと手を繋いでみせた。

 私は、幸せなの? ちょっとした興味でホストクラブになんて行かなければ、誰かに取られてしまうんじゃないかとか、そんな恐怖心を抱かずに雅臣の傍にいれたはずなのに。例え、取られてしまって捨てられても、また、この世に絶望して、今度こそ自殺に踏み切れていたに違いないのに。

 平日の昼間。箱ヘルでの待機中、電話が鳴る。

「もしもし?」

「あ、こんにちは、県警の者なんですけど、井沢早紀さんのお電話で間違いないでしょうか?」

「はい、そうですけど」

「大変申し上げ難いのですが、昨晩、早紀さんのお父さんがですね……」

「あぁ」

 事故死だったらしい。酷く酒に酔った父が、トラックに跳ねらたらしい。

父子家庭で過ごしてきた。確かに暴力は数え切れないほど受けてきたけれど、ここまで私を手放さないで育ててくれた父には感謝している。私に当たらないといけない何かがあったのだろう、そう思うし、何があったとはいえ、私は、父は、少なからず互いを愛していたはずだし。


 後日、葬式で寺に出向いた。庭園の池に泳ぐ錦鯉は、美しかった。

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