壊れ物の連星

蛸田 蕩潰

壊れ物の連星

憂鬱や不安というものが、明確な実態によってもたらされるものではないことを、身をもって私が知ってから、幾度か春が来て夏が過ぎ秋を通り冬に包まれて、そのうち私は色んなものを募らせていきました。

時に終止符を希う心を押し殺し、時に生を望む本能を裏切ろうとし、そのような日々に、本能と衝動の狭間で精神はすり減ってゆくばかりでありました。

そうして摩耗した精神は、時にこの手首に五線譜あるいは碁盤の目を刻み、その傷口からは苦痛が黒い熱となって流れ出ていくのです。

私という意識から切り離された、私自身の優しさを私に対して出力する誰かを製造し、それは時に命令に反して私を刺し貫くのです。

味覚情報の受信不全を放置するのです、くすみゆく世界から目を背けることを決定していくのです。

こうした事象をひた隠し、健全さをこの面に描き演じることもまた、精神の磨耗を加速させました。

ありふれた苦しみであることは、理解していました。

それでも、苦しいことには変わりないのです。

私よりも苦しんでいる方がごまんといるという言葉は、慰めにはなり得ないのです。


やがて、ぱきゃりと何かが割れる音が、この頭の奥で奥で響きました。

逃げよう、そう思いました。

その後のことなど一切考えずに、私は自室の窓から、この人間世界から逃げ出しました。

無明の闇の中、ただ歩きました。

その辿った道筋は、さてカオスによって描かれるもののようであったかと思われます、そう考えますと、あの運命的な出会いは果たして偶然でありましょうか。


当てなく歩いたその先で、私が終ぞ疲れ果てて倒れ伏して間もない頃に、ある女性が、私を見出しました。

彼女を、Eさんとしましょう。

Eさんもまた、真綿で首を絞めてくる世界に目を閉じるばかりの日々を送っておられました。

そんなEさんに、私は拾われました。

Eさんは、地に伏す私に救急を呼ぶでもなく、家に連れ帰ってくださいました。


そうして、Eさんのおうちで目を覚ました私の目に初めに映ったのは、Eさんの美しいそのお姿でした。

黒い長い髪は流れ星の尻尾のような情緒を纏い、月のように白い肌は、世界からぽつりと浮いたようで、諦念を帯びたその瞳は、夜空のようで。

「お目覚めかい」

問うEさんの手には、一本のペットボトルがありました。

「これ、経口補水液。脱水かなにかで、倒れてたみたいだったから」

手渡されたそれは、冷たいはずであるのに、どこか、温かさを感じました。


私は、Eさんのおうちに居候させていただきました。

私が、Eさんに拾われた日の暮れに、お暇しようとした折り、「いいよ、居て。帰りたくないんでしょ」と、言っていただいたのです。

私は、帰りたくありませんでした。

あの家に、ではありません、人間世界というものに、です。

Eさんのおうちは、秩序立った混沌でした。

平積みされた本の塔は、動き回りながらその構成要素を取り替えてゆき、机上の紙には散文詩とインクの染みが乱立するのです。

「Eさんは、なんのお仕事をされているのですか」

居候を始めさせていただいて、少したった頃に、そう、お聞きしたことがありました。

「ん?…無職、なんか、精神に毒をやらかして…社会に、本当に適合できなかったんだ…Sちゃん、多分、君と同じ」

私が名前を呼んでいただいたのは、この時が初めてでした。

それから私たちは、急速に親密になってゆきました、正しく水魚の交わりでございましょうか。

水には魚があらずとも問題はありませんが、それで言うならば、私たちはお互いが水、お互いが魚でありました。

主星であり、伴星であり、masterであり、slaveでした。

傷を舐めあって、満たしあって、安心しあう、癒着するような共依存の中、それは起こりました。

気まぐれにEさんがつけたテレビのニュース、そこには、私の捜索が難航していることが報じられていました。

当然です、私はまだ子供なのですから。

子供が失踪すれば、大人は探すものだと、そう聞きます。

そのニュースに、焦燥するように目を奪われるEさんの手から、そっとリモコンを抜き取って電源ボタンを押して、リモコンを置き、ソファに座るEさんの首に手を回し、私はこう言いました。

「Eさん…画面の中より、本物の、私を見てください…」

そんな私を、Eさんはぎゅっと抱いて、言うのです。

「S…もう、貯金、ほとんど、ないんだぁ…あと、車は、あるんだけど…でも、車があれば…」

震える声を漏らす口を、私の唇で塞いで、私は言いました。

「ええ…そうしましょう、大丈夫、みなまで言われずとも…」

私たちにはもう、この選択肢しか、残っていなかったのです。


Eさんの車に揺られて、夜道を行きました。

時計を見ていませんでしたから、どれ程の時間が経ったのかはわからなかったです。

ただ夜の山の、車で行ける範囲で最も高いところに来たと、Eさんは仰りました。

「なにか、聴きたい曲はある?」

糾さんは、車にあったCDをいくつか見せてくれまして、その中から、私が昔に聞いた事のある曲を見つけたのです。

確か穏やかな曲調で、歌詞はなく、優しい曲であったのを、覚えていました。

「…これ、ですかね」

「私はねぇ…」

伸ばされたふたつの手は、同じひとつに向かいました。


ぷち、ぷち、シートから錠剤を取り出して、飲ませあいます。

私がひとつ飲み込む度に、Eさんは私に、よしよしと、してくれまして、糾さんがひとつ飲み込む度に、私はEさんに、えらいねと、するのです。

「S、私、もう…」

「はい、E、さん…わたしも」

意識が朦朧と溶けゆきます、煙に巻かれて、ゆめうつつのなか、ふたりだけの、空の向こうへと。


濃紺の世界は、地平線の端から来る光に淡く青くその色彩を破壊されます。

また日が昇り、朝が訪れます。

焚かれる夜の、声ならざる悲鳴が、耳でなく、脳に届くのです。

昇り来る陽にサヨナラを告げて、流れゆく夜とともに、この目が、私の隣で眠るひとの目が、覚めませんように。

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