第14回空色杯

かみひとえ

Summer vacation Boy and Ecosystem Girl meets in the Miniature garden

 灰色の空と錆び付いた瓦礫に覆われた荒涼とした世界の中で。


 せわしなく落ち着かない様子で自身の手を引く母の背中に、ひっそりと隠れるように立つ彼の視線は、目の前に現れた見たことのない景色に釘付けだった。


「陽太、もうすぐだよ。おじいちゃんの箱庭に着くからね」


 母の言葉に、陽太は小さくうなずいた。


 度重なる紛争や環境汚染、それに急激な気候の変動に耐え切れなくなった地球は力なくあっさりと荒廃した。


 自然界から緑が失われ、それでもなお、世界の終焉を人類は受け入れなかった。


 唯一地上に自然が残る所謂、箱庭、に向かう12歳の陽太は、まだ見ぬ場所への期待に胸を膨らませていた。箱庭、というシステムは、つい先日亡くなった彼の祖父が設計した。


 外部の有毒な汚染物質から完璧に隔絶され、徹底的な環境管理によって守られた場所で、ここの自然保護を司るアンドロイドと、このシステムに組み込まれるように生きるごく少数の人間が共生している、小さな世界。


 箱庭に着くと、箱庭の住人と何かを言い合っている母から逃げるように、さっそく陽太は森へと足を運んだ。防護スーツを着なくても地上を自由に歩き回れる。それだけで胸が高鳴る。これが緑の匂い、大きく空気を吸った陽太はそのまま勢いよく走りだした。


 雨と太陽の季節、この時期の小さな箱庭の森は設定された汗ばむような高温と湿度に包まれ、じわりと緑の芳醇な香りが漂っていた。陽太は森の中を歩きながら、彼がもっと小さな頃に祖父の話していた「小暑の木漏れ日」の美しさを確かめたかった。


 森の中ほどに差し掛かると、木々の葉が揺れ、陽射しがキラキラとこぼれ落ちるように地面に舞い降りた。太陽の光が葉の隙間から差し込み、足元に輝く模様を描いていた。涼しい風が吹き抜け、葉がさやさやと音を立てる。その美しい光景に心を奪われて、彼はふと足を止めた。


「木漏れ日、こんなにきれいなんだ……」


 陽太がつぶやいたその瞬間、ふいに小さな影が視界に飛び込んできた。驚きながら視線を緑の中に向けると、そこには、白いドレスを着た少女が立っていた。この森にいるには少し不自然で、だけど、その姿はまるで一枚の絵のようにこの風景と見事に調和しているようにも思えた。


 白いドレスの少女は陽太よりも幼く、8歳くらいに見えるが、その無垢で大きな青い瞳はどこか怜悧としていて不思議な光を湛えていた。


「こんにちは、キミはだれ?」


 陽太は少し緊張しながらも思わず声をかけた。少女は少し戸惑った様子で、ぎこちない笑顔を浮かべた。さらりとミルクティーブラウンの長い髪が揺れる。


「こんにちは。わたしはIVY。あなたは?」


「あ、ぼくは陽太。ついさっきここに来たんだ」


「まあ、箱庭の外からやってきたのね、珍しい。よろしくね、ヨウタ」


「うん、よろしく、アイビー。ところでキミはどうしてここにいるんだ?」


「わたしはこの森を守るためにここにいるの」


「森を守る……? キミもここの住人なの?」


「ううん、わたしは生態維持管理用アンドロイド。自然を守るために作られたの」


 陽太はこんな小さな少女から難しい言葉が出たことに驚きながらも、IVYの透明なガラスのように純粋な眼差しに引き込まれていた。「アンドロイドなのに、こんなに人間みたいなんだね」


 少女は少年の言葉に少し困ったように微笑んだ。ちょこんと首を傾げる仕草なんて、彼から見ればまるで本物の人間そのもののように見える。


「わたし、きっと人間みたいに見えるだろうけど、まだ人間のことはよくわからないの。でも、あなたと同じようにこの森は大好きだよ」


「どうしてぼくが森を好きだってわかったの?」


「あら。だって、あなた、さっきからずっと笑っているんだもの」


 陽太は思わずハッとして口元を隠して顔を逸らした。自分が笑っているなんて全く気付いていなかった。なんとなく気恥ずかしくて顔が真っ赤になってしまう。


 しかし、IVYは陽太の様子に気付くことなく笑顔で話を続ける。この森の奥に続く小道の両側に咲く可憐な花や、小川のせせらぎについて楽しそうに語る彼女の声は、少し無機質ながら明るく、自然の美しさに対する愛情が溢れているように見えた。


 陽太は少し戸惑いながらも、赤面した顔の熱を冷まそうとしようとして彼女の話に熱心に耳を傾ける。


「そうだ、わたし、まだ作られたばかりでこの森のことよく知らないの。ねえ、一緒にこの森を歩かない?」


「う、うん、いいよ!」


 陽太はためらうことなく、IVYと一緒に森の中を探索することにした。IVYと一緒にいるのはなんとなく心地いい気がした。


 森の中は深緑の木々が茂り、人工的な光が木々の間から差し込んでいる。雨上がりだろうか、しとりとほのかに濡れた小道の感触はやわらかくて、慣れない陽太には少し歩きにくい。時折バランスを崩す陽太を、IVYは微笑みながらそっと覗き込んでいた。「大丈夫?」「へ、平気だ!」


 ふたりは静かに歩きながら、この箱庭の自然に包まれていた。彼らの周りに広がる景色について話しながら、彼らは草原や小川を歩き回り、様々な植物や動物を観察した。


 しばらく歩いた後、IVYが急に立ち止まり、小さな苔の群生を指差した。


「ヨウタ、見て。これ、すごくきれいだよ」


「これは苔っていうんだ」


「わあ、ヨウタは物知りなのね」


「IVYはアンドロイドなのに知らなさすぎじゃない?」


 陽太はしゃがみ込み、IVYの示す苔をじっと見つめた。その微細な葉が光を受けて輝いている様子に、彼は目を奪われた。そして、それをじっと見つめる傍らの少女の長いまつげにも。


「ねえ、ヨウタ、こんな小さな植物もこの箱庭の自然を守る鍵なの?」


 陽太は頷き、IVYにこの小さな植物の重要性を説明した。「苔は、箱庭の生態系のバロメーターなんだ。微細な環境の変化にも敏感だから、苔の状態を観察することで、この箱庭の健康状態がわかるんだよ」


「すごいね、ヨウタ、なんでも知ってるのね」


「おじいちゃんから教えてもらったんだ」


「それじゃあ、わたしはこの苔を守ることにするわ」


「なんだかキミには苔よりも、こっちの白い花の方が似合いそうだけど」


 それから、陽太はIVYに会いに毎日森へと足を運んだ。母は相変わらず箱庭の住人と言い争いをしていて、彼のことに構っている余裕もないようだった。陽太にとってそれは寂しくもあり、しかし、なんとなくIVYのことは秘密にしておきたいような気がして、それはそれで好都合でもあった。


 IVYと苔を眺めながら色んなことを話した。陽太がIVYに教えてあげたり、その逆だったり(あまりなかったけど)。その傍らには、IVYが、わたしが守っているのだ、と主張する小さな苔がひっそりと佇んていた。


 そして、いつもと変わらないそんなある日、陽太とIVYは苔の中に異常を発見した。苔が部分的に茶色く変色し、枯れ始めていたのだ。IVYが心配そうに陽太を見つめる。


「ヨウタ、ねえ、これって、どういうことかしら?」


 陽太は眉をひそめ、右手の装置から祖父のノートを目の前に映し出す。


「おじいちゃんのノートによると、これは箱庭の環境管理システムに異常が発生しているサインかもしれない。箱庭の外からの影響で、システムが狂い始めているのかもしれない」


「箱庭の外? そんなのはありえないわ、この箱庭の管理システムは完璧なのに」


「……ぼく達が外から来たからだ」


 箱庭、というシステムは完璧で、だからこそ外界からの異物を許さない。もしかしたら、母がここの住人と言い争っていたのはこのためだったのかもしれない。


「ぼくはここが好きだ。だから、この異変をどうにかして止めたい。そしたら……」


「……ヨウタ?」


「行こう。この異変をぼく達で止めよう!」


「ええ!」


 こうして、祖父の遺したノートを手掛かりに、陽太とIVYはこの箱庭の中心に向かうことにした。


 箱庭の中心には、この箱庭の外殻のような無機質な銀色の建物があった。


 そして、それには、銀色に輝く建物の壁面にはこの箱を守るように無数の太い蔦が絡まっていた。その蔦は静かに建物を包み込み、豊かな濃い緑色の葉が何事もないかのように穏やかに風に揺れている。


「……アイビーだ」


「どうしたの、ヨウタ?」


「あれは蔦だ。蔦はすごく強くてさ、どんな環境でも他の木や壁があったらどんどん成長するんだ。それに蔦には空気をきれいにする力がある。もしかしたら、おじいちゃんがこの蔦を改良して箱庭の自然を守ろうとしていたのかも」


「それなら、どうしてヨウタが来ただけでシステムがおかしくなっちゃったんだろう」


「中に入ってみよう。何かわかるかも」


 扉のようなものは見つからなかったけど、陽太とIVYが近づくと壁の一部がふたりを招き入れるように開いた。ふたりは恐る恐るゆっくりと建物に入っていった。


 遠い時代に失われてしまった、かつての夏の暑さの始まりを告げる時期、村は調整された高温と湿度に包まれ、植物が最も活発に成長するように設定されている。


「この建物を覆う外壁の蔦を含めた箱庭の環境管理システムはこの季節を特に重視してるみたいだ」


「それに苔もね」


「そうだね、苔も大事なシステムだ」


 苦笑しながら陽太は足元だけを照らす薄暗い通路を慎重に歩く。そうしながら、目の前に映し出した祖父のノートを食い入るように見る。よくわからない部分が大半だったけど、もしかしたらIVYにならわかるかもしれない、と、なんとなくわかるところだけを反復してみる。


「小暑の時期はシステムが最も負荷がかかるから、この時期に問題が起きると全体に影響が出るんだ。そんなときにぼく達が来ちゃったから……」


「しょーしょ?」


「むかし、梅雨明けの近く、徐々に暑さが増してくる時期のことをそう言ってたんだって」


 IVYは理解たのかしてないのかとりあえず頷いて、それから、「じゃあ、早く修理しなきゃ」とどこか楽しそうに決意を固めた。


 そんな、今にもスキップでもしそうなIVYを追いかけるように、小さくため息と微笑をもらしながら陽太もシステムの中心に到達する。すると。


「お、おい、IVY? ま、待ってくれよ!」


 IVYはさっきまでの様子とはうって変わって、無機質な人形のように真っすぐにコントロールパネルの元に向かうと、何か特別なアクセスコードを入力し、システムの制御パネルを開いた。


「ヨウタ、それを」


「え? う、うん」


 IVYは陽太が持っていた祖父のノートと不思議な形のセンサーを指差した。そのセンサーは明らかにこのノートのための物だ。でも、どうして。何か自分が鍵を握っている重大なことが起きているような気がして、陽太の手は緊張で少し震えていた。


 そんな彼の手に、IVYがそっと自分の手を添える。アンドロイドらしく無機質で冷たく、でも、やわらくてどこか優しくてほのかに温かいような、そんな不思議な感触に、彼の手の震えは少しだけ和らいだ。


「大丈夫、ヨウタ、君ならできるよ」


 にっこりと微笑むのはいつものIVYだ。それだけで彼はもう大丈夫だった。


「IVY、次は何をすればいい?」


「最後に、一緒にこの調整スイッチを回すの。それで、システムが再起動するはずよ」


 陽太はIVYとお互いの存在を確かめるようにゆっくりと頷き、そして、同時にスイッチを回した。


 その瞬間、薄暗かった建物が光り輝く。箱庭全体に新たな活力が流れ込んだように箱庭のシステム全体が再起動する。


「ねえ、見て、ヨウタ! アイビーグリーンがこんなにきれいになってるわ!」


 ふたりは歓喜に駆け出すように、建物の外へと飛び出す。空気は変わり、アイビーの濃い緑が一層鮮やかになっていた。


 環境管理システムが復旧すると、箱庭の自然が再び活気を取り戻す。箱庭の人々は喜びに包まれ、陽太とIVYに感謝の言葉を伝えた。


 陽太はあの時の気持ちを振り払うことにした。このシステムを復旧したら、よそ者のぼくは箱庭から出て行こうと、そう考えていた。


 だけど、今はIVYと一緒にいつもと変わらずに、苔の観察を続けながら、この箱庭の自然と一緒に生きていく、そんな明るい未来の方を想像しよう。


「IVY、ぼく達、これからも一緒にこの箱庭を守っていこう」


「うん、ヨウタ。君のおじいちゃんが遺してくれたこの素敵な場所を大切に守っていきましょう」


 小暑の始まりに、こうして少年と少女は箱庭で未来を誓う。

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