14:07 兄の提案
「待って、千雨」
出鼻をくじかれて千雨が嫌そうに振り返る。
「何よ?」
千晴は真剣な顔をして、妹の目をまっすぐに見つめた。
「千雨が出てこられなかったのは、犯人に殺されるかもしれないからだろう? 念のため、俺たちが様子を見てくるよ」
千雨が生きていることに犯人は気づいているだろう。しかし、千雨が突然現れたら、犯人がどのような行動を起こすかは分からない。安全をしっかりと確認した上で、千晴は千雨を外に出してやりたかった。
千雨は兄の気持ちを考慮して理解を示した。
「その必要はないと思うけど、タイミングを計った方がいいのはたしかね」
「そうだろう? だから、もう少しここで隠れていて」
「分かったわ。呼びに来る時には、何か食べ物を持ってきてくれる? もうお腹ぺこぺこで倒れそうなの」
言い方こそ冗談めかしていたが本気で空腹に耐えかねているようだ。千晴は待たせてしまうことにやや心苦しさを覚えながら返す。
「努力する。万桜ちゃん、行けるかい?」
「ちょっと待って」
ポケットティッシュを取り出し、万桜は涙と鼻水を綺麗に拭き取ってから返した。
「もう大丈夫」
「よし、それじゃあ行こう」
千雨をその場に残し、千晴と万桜は急いで離れから出た。
本館へ向かう途中で万桜が問う。
「お兄ちゃん、何か吹っ切れた感じ?」
「そうかな?」
「うん。だって普段は俺なんて言わないのに」
不思議そうにこちらを見る妹へ、千晴はふっと笑う。
「つくろってる場合じゃないだろ。それに、神谷さんだって俺って言ってた」
万桜が首をかしげるのにもかまわず、千晴は勝手口の扉へと手を伸ばした。心はもう決まっていた。
台所を抜けて廊下に出ると、やけに建物内はしんとしていた。
食堂をのぞくと亜坂が台ふきんでテーブルを拭いていた。
「他の人は?」
たずねた千晴へ、亜坂は戸惑いがちに居間を振り返る。
「円東さんなら居間にいますが、他の人は分かりません。もしかしたら部屋に戻ったのかもしれません」
その言葉通り、居間では円東がソファに座ってコーヒーを飲んでいる。周りには誰の姿もなく、千晴はどうしたものかと考える。
ここへ千雨を連れてきても大丈夫だろうか。彼女のことだから、きっと関係者を集めて推理を発表したいはずだ。
妙なところだけ現実離れしている千雨に内心呆れつつ、千晴は決めた。ちょうど確認したいこともある。行動に移すなら今しかない。
「万桜ちゃん、亜坂さんと居間にいて。俺が三人を呼んでくる」
「分かった」
全員が集まったところで離れへ戻り、千雨を呼び出せばいいだろう。そう考えて千晴は階段へ足を向けた。
五十嵐と倉本はそれぞれ三階の部屋にいた。二人とも呼ぶとすぐに出てきてくれたが、木野だけは反応がなかった。
「木野さん? いないんですかー?」
扉に向かって声をかけるが返事はこない。いぶかしんだ五十嵐が寄ってきてたずねた。
「どうしたんだ? 部屋にいないのか?」
「ええ、そうみたいです」
試しにドアノブへ手をかけると鍵がかかっておらず扉が開いた。
少々驚きつつ、千晴は「失礼します」と室内をのぞき見る。やはり木野の姿はなかった。開けっ放しのキャリーバッグがベッドの上に置かれ、荷物があちこちに散らかっている。
千晴はすぐに扉を閉めて五十嵐を見る。
「いませんね。下にいるのかもしれません」
「そうか。じゃあ、行くか」
倉本は先に階段を下りていっており、千晴は五十嵐とともに廊下を戻り始めた。
何となく胸がもやもやする――と、胸騒ぎのようなものを覚えた直後だった。階下から万桜の悲鳴が聞こえた。
理解する前に体が動き出していた。全速力で一階へ向かう。
「何してんだよ、木野!?」
倉本の上ずった声がする。居間へ入ったところで倉本が立ち尽くしていた。
隙間から室内を見ると、木野のななめ後ろ姿が見えた。窓を背にする位置に座っている円東へ向かって、彼女が耳障りな高音で叫ぶ。
「はっきりしてよ! 円東さんがみんなを殺したんでしょ!? だったら千雨ちゃんはどこ!?」
その手に何かが握られていることを察し、千晴は急いで食堂へ回った。間仕切りに身を隠しながら様子をうかがう。
円東は動揺した様子もなく、座ったまましらけたような顔で木野を見ていた。
向かいのソファ側に万桜と亜坂が立っており、彼女たちは身を寄せ合って壁際へとじりじり後退している。どうやら万桜が誘導しているらしい。
「落ち着け、木野。包丁を下ろせ」
と、必死に声をかけるのは倉本だ。その顔は恐怖と緊張でこわばっており、体も硬直してしまっている。
木野は腰が引けた中途半端な姿勢で、両手に強く握った包丁を前へ突き出していた。誰かを傷つけたいわけではないだろうが、犯人を脅してでも千雨の行方を知りたいらしい。
千晴に追従してきた五十嵐も状況を把握して息を呑む。しかし、何を思ったのか彼はそろそろと木野へ歩み寄り始めた。刺激しないよう慎重に一歩一歩、彼女との距離を詰めていく。
「巧人先輩!」
小声で呼び止めようとしたが五十嵐は立ち止まらなかった。あまりに危険すぎる。彼が何を考えているのか、まったく予想できないことが千晴の焦りに拍車をかけた。
気配を感じて木野が振り返り、手にした刃物を五十嵐へ向けた。
「邪魔しないで!」
さすがに歩みを止めた五十嵐だが、意外にも落ち着き払った口調で返す。
「脅しのつもりか?」
「そうよ! だって千雨ちゃんのこと、白状しないんだもの!」
包丁が小刻みに揺れて光を反射する。部屋の空気がよりいっそう張り詰めるが、五十嵐は少しも動じなかった。
「ああ、千雨のことが心配なんだな。分かるよ。でも、逆効果だと思うんだよな、それ」
木野が傷ついたように顔をゆがませるが、切っ先は依然として彼へ向いたままだ。
「だから落ち着けよ、木野。そいつを放せ」
「っ……嫌よ!」
再び円東へ向かって包丁を突きつける。
「犯人なら、千雨ちゃんをどうしたのか知ってるはずでしょ!? 早く教えなさいよ!」
すっかり気が動転している様子だ。神谷まで被害者となったことで、ストレスが限界を超えてしまったのだろう。すでに何度もヒステリーを起こしている木野だが、今回ばかりは対処が難しい。
たしかに千晴にとっても神谷の存在はありがたかった。リーダーシップがあったし、いてくれるだけで安心できる頼もしさがあった。劇団の看板を背負っていた神谷翔吾は、この状況においても柱だった。
「おれは知らんぞ」
円東が呆れ果てた顔をすると、木野は五十嵐を振り返った。手にした包丁の先がまた彼へと向けられる。
「じゃあ、あんたなの!? あんたが犯人なの!?」
不意を打たれた五十嵐は目を丸くして彼女を見つめた。言葉は出てこなかった。
その沈黙が答えだとでも言うように木野が包丁を握り直し、興奮のままに振り上げる。
恐怖に足を震わせながらも千晴は飛び出し、次の瞬間には叫んでいた。
「千雨は生きています!」
はっとして木野が動きを止める。五十嵐は腰を抜かして尻もちをついた。
円東や倉本、亜坂と万桜も千晴に注目していた。
「だから心配しないでください、すぐに千雨を」
「もういるわよ」
急に背後から声がして振り返ると、バゲットを一本丸かじりしている千雨の姿があった。
「なんとなく嫌な予感がしたのよねぇ。千晴に任せるのはやっぱり不安だと思って、呼ばれる前に来ちゃった」
誰もが目を丸くして千雨を見ていた。口をぽかんと開けて固まってしまった者もいる。
「というわけなので涼花さん、お願いだからそれを下ろしてください。あたしは無事です」
「ち、千雨ちゃん……っ」
包丁が床へ落ち、木野はぽろぽろと泣きながらその場に座りこんだ。
「千雨ちゃん、生きて……生きて、た……っ」
よほど空腹だったのだろう、千雨はパンをかじりながら彼女へ歩み寄った。そっとしゃがみ、優しい声を出す。
「心配かけてごめんなさい」
「ううん、ううん。千雨ちゃんが無事なら、それでいいの」
ぎゅうと抱きついてくる涼花を片腕で抱き返し、千雨はまたパンをかじった。マイペースにもほどがある。
涼花が子どもみたいに泣きじゃくるのをなだめつつ、千雨は指示を出した。
「千晴、その包丁を片付けてきて」
「う、うん」
すぐに千晴は床から包丁を取り上げ、急いで台所へ走った。
どこに置いたらいいかと室内を見回したところで、調理台の上にあるアナログの置き時計に目を留める。
二本の針は二時四十五分を示していたが、千晴の腕時計を見るとまだ四十分だ。
「ずれてる」
つぶやいた瞬間にすべてがつながった。
シンクの中へ包丁を放り、食堂を経由して居間へと戻る。
「千雨、分かったよ! 謎が全部解けた!」
ちらりと目を上げて千雨は満足そうな顔を見せた。
「最後の手がかりを見つけたみたいね。それじゃあ、挑戦状を突きつけましょう。犯人を指摘するための情報はすべてそろっている。さあ、あなたに犯人を当てることはできるかしら?」
にこりと挑発的な微笑みを向ける探偵へ、運転手は自信を持ってうなずいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます