11:44 高津千晴の武器

「そういえば、観客がどこを見てるかって音で分かるんですよ。それが自分に集中した時に台詞を言うのが、なんていうか快感で」

 神谷が深々とため息をつき、円東がにこりと微笑む。

「それが支配してたってことだ」

 千晴の耳は小さな音も残らず拾ってしまうが、舞台に立つとみんながこちらを見る。口を閉じてじっと見入っている。その静けさが千晴は好きだった。時にはおしゃべりをしているマナーの悪い客もいたが、それすらも黙らせられる演技をしようと努力を重ねていた。

 テレビドラマでは勝手が違ったものの、本番の撮影時にはやはり静寂があった。

「そうだったんですね……今の今まで、自分でも気づきませんでした」

 少しだけもったいないような気がした。もう終わってしまった――否、終わらせてしまったことなのに、もっと活かせたのではないかと思ってしまったのだ。

 うつむく千晴の隣で神谷が観念するように天を仰ぐ。

「てめぇにしかできねぇ芸当だったってわけだ。くそ、理由が分かってもムカつく」

「すみません」

「謝るくらいなら何で俳優やめたか言いやがれ」

 口が悪くなる神谷の気持ちは想像できないこともない。千晴は少し考えてから、事実を打ち明けることにした。

「一昨年の十一月末のことでした」

 亜坂が目に好奇心を宿し、黙って千晴を見つめる。

「ある夜、テレビ局の男性プロデューサーに呼ばれてホテルへ行ったんです。僕は無知で純粋でした。面識のある人だからと何も疑いなく部屋に入ると、その人はバスローブ姿で……挨拶もそこそこに、僕へ近づいてきました。それから、腰に手が回されて」

 はっとして神谷が問う。

「襲われたのか?」

「いえ、僕は逃げ出しました。そのテレビ局には二度と出られなくなり、仕事は激減しました」

 あれから一年以上が経つというのに、思い出すだけで泣きそうになる。

「ゲイの風上にもおけんやつだ」

 円東が不快そうに言い捨てる。千晴は声を震わせながら続けた。

「たった一度ですよ。たった一度、プロデューサーを拒絶しただけで干されたんです。もう何もかも嫌になって、仕事を続ける気力もなくなって、それでやめたんです」

 あの時、我慢して彼と寝ていたら、千晴は今もテレビに出て芝居をしていただろう。その未来を自分で壊してしまったことを、今でも後悔する気持ちがあった。

 神谷が千晴の肩へ不器用に腕を回して抱き寄せる。

「悪かった、高津。もういい、お前は何も悪くないよ」

 五十嵐もそばへ来ると、後ろから千晴の頭をくしゃくしゃと撫でた。

「辛かったな、千晴。悪いのはあっちだ、お前は間違ってないよ」

 千晴は眼鏡が汚れるのを嫌って、涙がこぼれる前に外した。このことで泣くのは初めてだった。


 どれくらいの時間、泣いていただろう。いくらか落ち着きを取り戻した千晴は「顔洗ってきます」と洗面所へ立った。

 居間の方はしんとしていた。自分が空気を悪くしてしまった気がして、千晴は蛇口を強くひねった。

 勢いよく流れる水を両手に満たし、涙の跡が消えるまで何度も顔を洗う。

 ようやく気が済んで顔を上げると、離れたところから声がした。

「千晴さん」

 振り返ると亜坂が入口のところに立っていた。すぐ後ろには万桜の姿もある。

 前髪から水が滴るままにしていた千晴へ、亜坂が芯の強さを感じさせる声で言う。

「わたし、がっかりなんてしてません。ダサいとも思いませんから」

「……」

「そういうことがあったならしょうがないと思うし、千晴さんが逃げたのは正解だったと思います。大事なのは、千晴さんの心なので」

 優しくにこりと微笑まれて胸がぎゅっとなる。

「だけど……いえ、だからわたしは、これからも千晴さんのこと応援します。もしかしたら重いって思われちゃうかもですが、ずっとファンでいさせてください!」

 ぺこりと頭を下げられて、千晴はまた目頭が熱くなった。

 視線をそらすように顔の向きを戻し、再び蛇口をひねって水を出す。涙をごまかすためにまぶたへ水をかけてから、ぎこちなくのどを震わせた。

「ありがとうございます……」

 亜坂はほっとしたように息をついた。

「はい」

 こんなに優しいファンがいたなんて知らなかった。千晴は自分がいかに恵まれているかと考え、あらためて彼女に下心を抱いている自分が嫌になった。

「あと、昨日言おうと思っていたんですが……眼鏡をかけた千晴さんもすごくかっこいいです」

 ドキッとして振り返ると、亜坂が背を向けるところだった。ほんの一瞬、頬が赤くなっているのが見えた。

「戻りましょう、万桜ちゃん」

 そそくさと亜坂たちが居間へ戻っていき、千晴は鏡に映る自分を見つめた。あの頃のような輝きはもうない。気が弱くてついおどおどしてしまうダサい男がいるだけだ。

 しかし彼女にこれ以上、情けない姿は見せたくないと思った。一朝一夕にできることではないだろうが、あの頃のようにかっこよくありたい。


 居間へ戻ると倉本がみんなに紅茶を淹れてくれていた。昨夜飲んだのと同じアールグレイだったが、今回はよく冷えたアイスティーだったおかげでごくごくと飲めた。

「耳がいいなら、あの粘着テープの音を聞いてないか? 引き出す時に音がするだろ?」

 落ち着いたところで神谷がたずね、千晴は首をひねった。

「さすがにそれは……最近はあんまり音のしないやつもありますし」

「そうか。悪い、別に本気で聞いたわけじゃないから気にするな」

 言いながらも神谷はため息をついた。

 仮に粘着テープを使う時に音がしたとしても、犯人につながる情報にはなり得ないだろう。使用者の性別やその他の情報を、テープを引き出す音から入手できるとは思えない。

 だが、犯人はおそらくそれを持ち歩いている。

「そういえば昨夜、妙な音を聞きました。遺体が発見されるちょっと前、上の階から人が倒れるような音が」

 神谷が目を丸くして「上の音が聞こえたのか?」と千晴を見る。

「ええ。でもその時は、まさか事件が起こっているとは思わなかったので、ちょっと気になる程度で流しちゃったんですが」

「そうか。やっぱお前、すごいな」

 あらためて褒められるとそわそわしてしまう。身内以外にすごいと言われるのは久しぶりで、ましてや年上からの褒め言葉にわずかだが緊張もした。

「他に気になる音はなかったか?」

「うーん……あとは特にない、ですね」

 桁山が殺害された時に千晴はベッドで眠っていた。大井の殺害時にも外にいたと考えられるため、提供できる情報はない。

 神谷もそのことを思い出したのか、少し眉間にしわを寄せてから吐息混じりに言った。

「まあ、いい」

 しばらくの間、沈黙が続いた。考えこんでいた神谷がふとひらめいた。

「他に探してないところは、車くらいか?」

「ああ、そうですね。まだ車の中は見てません」

 盲点だった。千晴は本館と離れのことしか頭になく、車のことなどすっかり抜けていた。

「それじゃあ、鍵取ってこないと。すぐ戻ります」

 話を聞いていた五十嵐が立ち上がり、千晴はグラスを手にたずねた。

「車、二台ありますよね。誰と誰が運転してきたんですか?」

「ワゴンは五十嵐、軽の方はおれだよ」

 円東が答えてポケットからキーケースを出してみせた。

「ああ、そうでしたか」

 残りの紅茶を飲み干してテーブルへ戻す。

 気づいた倉本が空になったグラスを回収しながら言う。

「もう昼だ。昼食を作りに行きたいんだけど、いいか?」

「ああ、そうですよね」

「お願いします、倉本さん」

 千晴と神谷が返し、倉本はグラスを重ねて台所へ持っていった。

 入れ替わりに五十嵐が車のキーを手に戻ってきた。神谷が腰を上げながら言った。

「それじゃあ、見に行くか」


 さえぎるものがないため、直射日光が容赦なく照りつけている。

「外に出るなら、日焼け止め塗っておけばよかった」

 木野がぶつくさと漏らすが返事をする者はない。暑すぎて反応するのが億劫なのだ。本館から離れると日陰は一切なく、車までわずか十数メートル歩くだけなのに汗が出てきた。都会にくらべれば幾分か空気は清々しいものの、やはり暑いものは暑い。

 まず確認したのはワゴン車だった。劇団が所有する車で、衣装や小道具などを運搬する際に使っているものだ。

 キーを持っている五十嵐がロックを解除して扉を開ける。車内に千雨の姿はなく、後ろのリアゲートも開けて見たが空だった。

 次に軽自動車に移って同様に内部を調べるが、いなかった。この暑さだ、もしも車の中にいたら熱中症で死んでしまう。そうした意味では安心する気持ちもなくはなかった。

 最後に千雨の大事にしていた愛車、赤いシビックタイプRの中を探したがやはり見つからない。

「ダメか」

 神谷が険しい顔でつぶやき、千晴は何も言えずに息をつく。

「お姉ちゃん、いったいどこに行っちゃったんだろう」

 しょげる万桜を亜坂が心配そうに見つめ、木野はまた思いつきを口にした。

「隠し部屋とかないの? 隠し通路とか、小説によくあるじゃない」

「あるわけないだろう。隅から隅まできっちり探したんだ」

 呆れる神谷に木野は物言いたげな視線を送る。

「でも……」

「言いたいことは分かるけど、現実を見ろよ」

 五十嵐が苛立ち紛れにさえぎると木野はぎゅっと口を閉じた。円東はどこか神妙な顔で両者を見ていた。

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