翼で包んで、愛し愛され

ナルコスカル

Overture

プロローグ・そして彼らはいなくなった

「ナルコスカル師匠! ナルコスカル師匠!」


 ボクを呼ぶ「彼」の声で、ボクは仮眠から目を覚ました。ボクの耳に届くまでに、アトリエの中を通って小さくなった「彼」の声は、ボクにとっていい目覚ましだった。


 ボクは体を起こすと、わずかに頭を屈めながら歩き出した。「前世界」の図書館だった廃墟をほぼそのまま再利用しているボクのアトリエは、ボクの体格に合っていない。それでも、魔法を使うにしても大々的に改築するのは億劫だから、いつまでも気乗りしない。ボクがここに持ち込んだ蔵書や本棚、その他のボクに必要な道具類以外は、「前世界崩壊」とその後の荒廃から手つかず同然だ。


 ボクは、小綺麗な場所は落ち着かない。だから、この姿と師匠の資格を得て以降、「累卵楼るいらんろう」には一度も住んだ事がない。「五賢師ごけんし」の「第一翼」、つまり「翼正会よくせいかい」の頭領である、あのダイヤモンドクレールは累卵楼を「己の威厳の象徴」として気に入っているけど、ボクはあの場所があまり好みではない。むしろ、好みの正反対だ。今回の騒動で、居城である累卵楼と同じくクレールの矜持にもヒビが入っただろうから、あまり悪く言わないでおこう。


 ボクは、ボクが通り抜けられるだけの大きさで開けた壁の穴を何度か通る。ボクのアトリエもといこの図書館は、かつてはいわゆる「アンティーク調」の壁紙が張られ、それに合わせた調度品が置かれていたようだ。「現世界」においてそれらは、前世界の建造物の特徴として見受けられる合成壁材と合金製骨組みがいたるところで剥き出しになって、厳かだったであろうものの成れ果てである破片が床に散乱している。


 廃墟の隙間から日の光が少しだけ差し込んでいるくらいが、ボクとっては丁度いい。ボクは人間だった頃から夜型の生活に慣れ親しんでいた。しかも、ここ二週間ほどは魔法を使い、不眠で「最後の仕上げ」に取りかかっていた。「それら」が完成したのは、つい昨晩の事だ。最近のボクには、昼間そのものが毒だ。あたっ。合金の骨組みに頭を打ちつけてしまった。この巨体でも、徹夜は心も体も蝕むようだ。


 ようやくボクのアトリエから出ると、出入り口の穴に面した小広い中庭の木漏れ日の中で、「彼」は枝の重なりの奥にある天に向けて両腕を掲げていた。背中に特殊繊維で作られた大きな灰色のバックパックを背負ったまま、両手で何度か弧を描く。どうやら、出発前の準備運動のようだ。


 同じく「彼」が纏う特殊繊維でできた灰色の登山帽やローブ、バックパックいっぱいに詰められた道具、腰に隠した護身武器も含めて、「彼」の全ての装備は「MRCマシナリーリバイバーズカンパニー」に、断られる事を承知で依頼した。意外にもMRCからの答えは二つ返事で、すぐにこのアトリエへ採寸の使者を送り、請求書を手渡してきた。


 もちろん、その費用は全てボクが負担した。それが「彼」を引き受けたボクの義務だからだ。「彼」には隠したが、クレールのように魔法流派の頭目でもなければ、フリッシュのように裏社会に詳しいわけでもないボクにとって告げられた金額は大きく、「金庫」からその一部にあてる為の借入金を受け取った。念の為、アイゼンフォーゲルに請求書を見せたところ、前世界科学技術系個人装備一式の金額としては適正の範囲内らしい。


 「彼」に釣られて、ボクも両方の翼をゆっくりと開いた。前世界崩壊から手つかずの雑木林になっている中庭では、ボクが翼を完全に開くだけの余裕しかない。ボクは翼を畳みながら、体がすっかり鈍ってしまった事を実感した。まずは今夜にでも、大空に向かって羽ばたくべきなのだろう。


「本当は、挨拶せずに出発しようかと思いました」


 そう言いながら振り返った「彼」は、苦笑いを浮かべていた。違う、そこに含まれた様々な感情と苦悩の片鱗を、ボクは知っている。


 ボクはあれからしばらく「彼」の面倒を見ていたけど、本質的にボクは傍観者だった。ボクは目を背けた、臆病者で卑怯者だ。翼正会の師匠の資格を持つボクより、自らの運命に対峙し、そして歩き出そうとしている「彼」の方がよっぽど気高い。ボクは反射的に、ボクを見つめる「彼」の視線から顔を逸らしてしまった。


「君が望むなら……もうしばらくここにいてもいい……」


 泳ぐ視界を必死に押さえつけようとしながら、ボクはクチバシからそう絞り出した。


「『ボクの直弟子になってもいい』とは、言わないんですね。やっぱり師匠って、とことん人間嫌いですよね」


 ボクの視界の外、木漏れ日の中の特定の場所からボクに向けて突き立てられたその言葉で、ボクが見ている世界が滲んだ。傍観者だったボクよりも、当事者だった「彼」の方が何倍も辛く、苦い経験だった。それなのにボクは、「彼」に対してまともな慰め一つさえ口にする事を躊躇ってしまう。「彼」の痛みを感じ、ボクの惨めさを呪うと、ボロボロとこぼれ落ちる涙が止まらない。


「これくらいの皮肉で泣かないでくださいよ! 師匠の方が俺よりも何倍も長生きしてるんでしょ!? これじゃあ、どっちが弟子でどっちが師匠か分からないじゃないですか!」

「だって……君があまりにも健気で……ボクがあまりにも弱くて……」

「俺だってそんなに強くはないし、師匠の意気地なさも知ってます! これでも感謝してるんですからね!?」


 ボクはしばらく、「彼」に尾羽の付け根をさすってもらいながら、メソメソと泣き続けた。ボクの毛並みを撫でる「彼」の手つきは、粗く、ぎこちなく、それでもボクへの優しさに満ちていた。


 ようやくボクのひとりよがりな涙が止まると、「彼」はボクの巨体を迂回して、ボクの目の前でボクを見上げた。目尻にまだ涙がかすかに残っているボクは、それでも逃げずに「彼」と視線を合わせた。


「俺、これから出発するんですよ? もう誰も師匠を慰めてくれませんよ?」

「はい……分かっています……気をつけます……」


 そう言ったあと、ボクは大きく鼻をすすった。そんなボクを見て、「彼」がもう一度苦笑いを作った。


「本当にナルコスカル師匠は、あざといくらいしょうもないですねえ。でも、感謝してるのは本当ですよ? 師匠のお世話になったここしばらくは、どちらかと言えば楽しかったです」

「ボクも……君に感謝している……君とボクで作ったものは……必ず守り通す……!」

「本当に? もしもクロー師匠かフリッシュ師匠かクレール師匠あたりが『燃やせ』と脅してきても、絶対守り通してくれますか?」

「うぅ……ごめんなさい……やっぱりボクは弱い……」

「だからすぐ泣かないでくださいよ! これじゃあ本当に弱い者いじめしてるみたいじゃないですか!?」


 サタンズクローやフリッシュやクレールの足に首元を地面へ押さえつけられて、簡単にひねり殺されてしまう想像で涙が止まらないボクに対して、「彼」は近づいて、ボクに向かって右手を伸ばした。ボクはそれを受け入れる為に、瞳を閉じながら涙が止まらない顔を下げた。


「ナルコスカル師匠、お元気で。大変お世話になりました」


 ボクの額の一部を撫でながら、「彼」が別れの挨拶を口にした。こんなにも凛々しく健気な子へそれでも「直弟子になってほしい」と言い出せないボクは、やっぱり悔しいほど涙が溢れ出てくる。


「君が新しい住処を見つける事を……君が君にとっての幸福を見つける事を……心から祈っている……ヴォン・ヴィアッジョ……」


 ボクはクチバシから、なんとか必死に返答を口にした。臆病者で卑怯者だけど、これはボクの本心だ。


「……汎用語のあとの言葉、それなんですか?」

「旧イタリア語で……『よい旅路を』……」

「……旧フランス語だと?」

「ボン・ヴォヤージュ……」

「原アメリカ語だと?」

「アイ・ウィッシュ・ユー・オール・ザ・ベスト……」

「だいぶ言葉の響きが違いますけど本当に合ってますか?」

「たぶん……」


 涙が止まらないボクは、雑草が生い茂る中庭の地面に思わず腰を下ろしてしまった。「彼」の手がボクの額を離れた。ボクは、ボクの全身全霊をもって顔を上げ、決して目を逸らさないようにボク自身の全てに力を込めた。


「翼正会での事も、ナルコスカル師匠の事も一生忘れません。本当に、お世話になりました」


 「彼」は、バックパックと同じく特殊繊維製の帽子を胸に当てながら、ボクへ小さく頭を下げた。それから踵を返すと、ボクに背を向けて歩き出した。


「ボクの方こそ、君を忘れない……」


 ボクの涙声に対して、「彼」は振り返らなかった。「彼」は無言のまま右手を小さく掲げて振ると、図書館の一部だった瓦礫を踏みしめ、そして森の中に消えていった。


 「彼」の姿が完全に消えると、ボクは大声を上げて醜く泣いた。「彼」の出立ちは、まさに生まれ育った巣から飛び立つ若鳥のようだった。「彼」はこれから、現世界の厳しさという嵐に翻弄されながらも、きっと自分の居場所を見つけるのだろう。それを考えると、やっぱり涙が止まらなかった。


 ボクが落ち着いたのは、木漏れ日が橙色を浮かべ始めた頃だった。ボクはようやく立ち上がって、中庭の木々を避けながら、その中心を目指した。すぐに噴水だったものに辿り着いた。


 昨晩の雨のおかげで新鮮な水面にクチバシを近づけて、そして掬い、喉に通す。しばらくそうしていると、さらに落ち着きを取り戻した。一息ついたボクは顔を上げる。反射的に、水面に視線を落とした。


 そこにはボクを見上げている、体は茶色と黒のまだら模様で、頭は黒一色で、顔に人間の髑髏を模した仮面を被った、体高約4.8メートルにもなる大ミミズクがいた。それはボク、翼正会に所属する巨鳥の大魔術師の一羽であるナルコスカルの鏡像だ。癇癪めいた衝動に従って、ボクは足の爪でボクを引き裂く。そのあとに、アトリエの出入り口をくぐった。


 ボクのアトリエ、つまりは元々は図書館だったこの廃墟の最も大きな部屋は吹き抜けで、そこだけはボクの身長よりも天井が高い。元々は整頓された本棚が並んだ図書閲覧室だったのだろう。ボクがここを見つけた時は、かつての本棚も蔵書も瓦礫の一部になっていたが。


 ボクは、ボクが持ち込んだ壁際の本棚が並ぶ列の前、そこだけ小綺麗にしたにも関わらず埃っぽい床に胸とお腹を着けて、うつ伏せに寝そべった。年甲斐もなく泣き疲れてしまった。恥ずかしい。


 ボクはかすかに頭を持ち上げて、ボクの視線の先にある人間用のテーブルの上に置いてあるものを見た。そこには製本されたばかりで真新しい重厚な三冊の冊子と、三枚のカード型デジタルメディアが鎮座している。


 「彼」とともにボクがまとめた、今回の騒動の記録だ。可能な限り客観的な視点を重んじ、信頼できる情報を選んだつもりだが、どうしてもボクや「彼」の創作的な表現が色濃い部分も存在している。だが、彼らは過ぎ去った。今更調べ直す手間をかけるなど不可能であり、これらが記録として保管される事が決まっている。一冊と冊子と一枚のカードメディアをひと組みにして、ボクのアトリエと、累卵楼の保管庫と、「金庫」の貸金庫にクレールの名義で納められる。


 先ほどは「彼」の前で醜態を晒してしまったが、ボクたちの成果物が焚書される心配は無用だろう。今は「四賢師よんけんし時代」とは違う。人間の唇にも巨鳥のクチバシにも鍵をかけられない。そもそも、その中心となった翼正会の内外に、サタンズクローとフリッシュのそれぞれの思惑に巻き込まれた者は多い。これは過去の記録のそれ以上でも以下でもなく、騒動が既知である者には得られるものがない。そうでない者の瞳に映るのは、「全てが過ぎ去った、翼正会における騒動」でしかない。傍観者であるボクは巨鳥たちのクチバシから聞いただけで自分の目で確かめたわけではないが、「あれ」は永遠に失われたらしい。


 加えて、この編纂はサタンズクローとフリッシュを除く五賢師の第一翼から第三翼、ダイヤモンドクレール、エターナルキャリバー、グアンダオストームの連名でボクに命じられた。彼らとは別に、アイゼンフォーゲルからも報酬を受け取っている。


 ボクはゆっくりと息を吐きながら目を閉じた。今のボクに必要なものは手早い休息だろう。深夜まで眠ったあとは、久しぶりにこの森の大空を飛んでみようか。今晩は月が出るだろうか。簡単な予知魔法すら気怠く感じるほどに、今のボクには疲労が溜まっている。


 出ないならそれでいい、小腹を満たすのに都合がいい。ボクはこれでも猛禽の端くれだ。他者の目から隠れ、闇夜の中で生きる為の行為を済ませる。いつかボク自身が誰かのご馳走になる恐怖を想起しながら。もしも月が出るなら、「彼」の為にもう少しだけ泣きたい。


 本当に情けないが、それはボクの為でもある。待ち望んだ孤独が、日常の風景に戻ったアトリエが、こんなにも寂しいのだから。

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