『なにもしない日』
『なにもしない日』
決めた。今日はなにもしない日にしよう。
そう思い至った雛菊香の行動力は凄まじかった。
まずスマホを手に取り、メッセージアプリの通知をオフにし、ブラウザのウインドウをすべて閉じる。それからテレビのリモコンを手に取り、電源をつける。番組を流しっぱなしにするのが、なにもしない日の風流だろう。
四角い画面の中では、見たこともない人が大して面白くもない話をしていた。少し注意して聞いてみると、レギュラーメンバーが体調不良で代役をしているということを、回りくどい言い方でお笑いに変換しようとしていた。
次に、部屋の明かりを消してカーテンを閉める。居留守だ。なにもしない日に勧誘など来られては、たまったものではない。
こんなこと誇れたものではないが、故郷から上京して大学に通っている香は1Kの部屋に住んでいる。居留守をしかけるのには簡単すぎる、手ごろな狭さと言えよう。
さらになにもしなくていいようにするには、どうしたらよいか。香は思案した。なにもしない日のはずなのに。
思案した結果、食事を簡素化することを思いついた。彼女は普段、お気に入りの皿と箸を使った自炊を嗜んでいる。
が、今日は違う。紙のコップと皿を惜しげもなく使い、ジャンクフードを貪ってだらだらする。
それこそが、なにもしない日というものではないか?
そう思った香は、部屋着のTシャツから着替えることもせず、1Kの、居留守にぴったりな部屋から飛び出した。
居留守が、本当の留守になった。
※※※
部屋を出た途端、体中にまとわりつく濃い熱気が香の肌に襲ってきた。
今は真夏の真っ只中だ。クーラーの効いた部屋にUターンしたい気持ちを抑えつつも、香は近くのコンビニに寄ることに決めた。
金属質でところどころ塗装の禿げた廊下をカンカンと音を立てて渡り、これまたカンカンと階段を下っていく。香の部屋は、二階の角の隣の部屋だった。
外は驚くほど静かだった。車の走る音も、セミの弾けるようなやかましい鳴き声も聞こえない。
香は少し違和感を覚える。この近くには夜でも自動車の音がうるさい幹線道路があったはずなのに。セミがその生を謳歌する騒音が鳴り響いているはずなのに、と。
だがここで、思い至る。考えてしまっている、と。なにもしない日なのに、考えるという行為をしてしまっている。
余計な思考を振り払い、香は頭を空っぽにしてコンビニに急いだ。
コンビニは歩いて五分くらいだ。近いとも遠いとも言えない距離。ちょうど、先ほど出てきた幹線道路に沿った通りの途中にある。
かんかんと照りつける太陽の下、香は歩き続ける。
幹線道路に着いた。が、通りを走る車は一台もなかった。
道中の細い道もそうだったが、車どころか全く人の気配がしない。皆、暑くて外に出る気力がないのだろうか。
世界に存在するのが一人だけになったような感覚に陥りつつも、でもテレビは映っていたなとハッとする香。
香は歩く。車も自転車も、散歩する人も野良猫もいない通りを、ただ一人歩く。
コンビニに着いた。
入口から見える中の様子は、いつも通りだった。人工的な店内の明かりと雑多な商品の並んだ棚の群れが外の窓ガラスに映る。
ただ、客は誰もいないように見えた。少なくとも、窓際の雑誌コーナーを物色している人影はなかった。
香は客がいても気にしない性分だったのでどちらでもよかったが、普段は比較的人の出入りが激しいコンビ二の店内でさえ孤独を味わうことになるとは思わなかった。
まさか、店員もいないとかないよね?
一抹の不安を覚えながら、香はコンビニに入店した。
※※※
「いらっしゃいませー」
と、声。コンビニの店員が、客に対して呼びかける社交辞令。
それが聞こえた香は、安堵してレジの方に目を向ける。
そこには、もはや顔馴染みとなった店員が立っていた。なにをするわけでもなく、レジの前に佇んでいる。
その店員、彼は真面目な性格で、何度か通ううちに見知った間柄になった香に話しかけてくることもあったが、今日はそれはなかった。暑さで気力が削がれているのだろうか。
おっと、閑古鳥が鳴いてるからと言って、いつまでも入口にいるわけにはいかない。
香は店の奥に入り、とりあえず涼しいお弁当の冷蔵コーナーに向かった。
ここのコンビニの系列は売っている食品がどれも美味しいイメージがあるが、特にお弁当に力を入れている。お昼時に楽して栄養を欲する人々のニーズに応えるべく、プライベートブランドまで立ち上げる力の入れようだ。
そういう背景もあり、ご飯は美味しい。量も、値段の割には多めだ。店舗数の多い有名な会社であるのにもかかわらず、お客様に寄り添う努力をしている。
なんて、言いすぎか。
冷静でない頭を冷房で冷やしつつ、香は弁当をいくつか見繕った。
麻婆豆腐丼と、冷やし中華。隣の飲料コーナーで、エナジードリンクとお茶のペットボトルを選んだ。これで、昼と夜はしのげる。
カゴを取り忘れたので、商品を両手で握り締めながらレジに向かう。
香が食事を選んでいる最中も、来客は一人としてなかった。
やっぱり皆、家に引きこもっているんだ。
香は純粋にそう思った。
「……」
商品を受け取った彼は、無言でレジに通していく。
彼とは親しい間柄ではなかったが、顔を見ても全く言葉を交わさないことはなかっただけに、香は少し寂しい気持ちを覚える。
「1425円になります」
そう、淡々と事実を述べた彼の顔は、真顔だった。
※※※
それから家に帰るまでの間、香はやはり誰とも会わなかった。
近所のおばさんが道端で世間話でもしてるかと思ったが、いない。夏休みではしゃいでいる子どもたちも、いない。なんらかの営業に奔走しているスーツ姿の男性も、かわいいチワワを散歩させているマダムも、いない。
人っ子一人いなかった。まるで、今日が日本で定められた国民の祝日『なにもしない日』であるかのように、誰もかれもなにもしていなかった。
言われてみれば、テレビのタレントも仮病を使って休んでいたし、コンビニの彼もやる気がなかった。
だがしかし、それがなんだというのだろう。
『なにもしない日』があってもいいじゃないか。日本人は働きすぎ、考えすぎだ。もっとこういう、真に休みと言えるような休みの取り方をした方がいい。
部屋に戻って明かりをつけ、室内の暑さにうんざりしながらクーラーのリモコンに手を伸ばした香はそう思う。
「あ、アイス買い忘れた」
『なにもしない日』に限って、取り返しがつかないどうでもいいミスに後から悩まされる。
その日は結局、部屋の電気をつけていても煩わしい勧誘が訪れることはなかった。
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