怪異探偵雛菊香
@LostAngel
『台所のヌシ』
夕暮れ時。
日が沈みかけ、夜の帳が今か今かと支配しようと狙っている時間帯。なにかよくないものが暗闇から侵食してくるという畏れを込めて、黄昏ともいわれる。
そんな夕暮れの時間に、財前明美(ざいぜんあけみ)は夕食を家族に振舞っていた。
「カレー!とっても美味しそう」
新品の鍋からよそわれたこげ茶色の料理を見て、雛菊香(ひなぎくかおる)が手を打ち鳴らして喜ぶ。
彼女は自称女子大生探偵らしく、文字通り財前家に巣食うなにかを調査するために優斗(ゆうと)が招待した。
「お客さんがいるのに、特別感ないなあ」
次男の翔太(しょうた)が愚痴を漏らす。
小学三年生でも食べられるように甘口にしたのに、文句ばっかり。
明美はそんなことを思っていると、ガチャリとリビングのドアが開いた。
「悪い悪い、電車が遅れてさ。……お、この匂いはカレーだ」
長男の優斗だ。歳は19歳で、香と同い年。
同じ学科の香の評判を聞き、今日彼女を我が家に招待したのが優斗だった。
「おかえり、優斗。手を洗ってきなさい」
温かい声で出迎えたのは、夫の優一。
いい年して香の前で良い格好を見せたいのと、速くカレーを食べたい思いで優斗を急かしているのは分かっている。
最近特に帰りが遅いが、今日は休日ということもあり、朝から家にいた。
「分かったよ父さん」
「ふふふ、仲が良いんですね。お父さんと優斗」
「いえいえ、いつもは全然話しかけてくれないんですよ」
リビングに面したカウンター越しに、二人の様子が見える。
すっかり上機嫌になっちゃって。
明美は少しカレーの残った鍋をシンクの中に置くと、軽いいら立ちを覚えながらミトンを外した。
最後にサラダの盛り付けだ。うちでは、大きなサラダボウルに入れたサラダをセルフで取り分けるやり方で食べている。
そうした方が、連帯責任の心理で残されることが少ないからだ。特に翔太の野菜嫌いは深刻だから、毎日しっかり食べさせないと。
まあ、残されたとしてもあまり困らないんだけど。
だって……。
明美は頭に湧いた負の感情を掻き消し、たっぷりのカットサラダとトマトとモッツァレラチーズの乗ったサラダボウルをリビングに運んでいく。
「おお、カプレーゼ!」
香が大喜びする。
悔しいけど、料理に詳しいのね。
「さて、いただきましょう」
エプロンを脱ぎ、自分の席に着席し終わった明美は、目の前の料理たちを眺めながら声をかけた。
ゴロゴロとした具材の入ったチキンカレー、カプレーゼのサラダ、ぷちぷちのコーンが美味しいコーンクリームスープ、そして自家製の浅漬け。
お客様に出すにしては品目が少ないけれど、どれも味には自信がある。
「おいしそう」
「では、いただきます」
手を洗った優斗が席に座ったのを見て、優一が音頭を取った。
彼に続いて、皆が口々に『いただきます』を言う。もちろん、作った本人である明美も。
「いっぱいあるから、どんどん食べてね」
明美は不自然にならないよう、香に念を押す。
あれに食べられるくらいなら、彼女に楽しんでもらった方がいい。
鳥肌が立った。
「……」
鳥肌ついでに、明美はリビングの壁に描けてある時計を見る。午後六時十分。少し料理に時間がかかってしまった。
「遠慮しないでね。サラダ取り分けてあげましょうか?」
「……いえ、お構いなく。せっかく美味しい料理ですので、自分のペースで食べますね」
男性陣がすごい勢いで料理を平らげている中、香は未だにカレーを数口、口にしているだけだった。
ゆったりと舌鼓を打っている彼女がじれったい。
速くしないと、あれが……。
「そう。優斗に構わず、がっつりいっちゃってね」
「はい。お言葉に甘えて」
香は礼儀正しくそう言うと、彼女の隣に座っていた優斗のスプーンを扱う手がぎこちなくなった。
優斗の名前を出しても、全く動じた様子がない。少なくとも、今は脈なしね。
明美は対面に座る女を冷静に分析しながら、スープを口に運ぶ。
「そういえば、もうすぐ夏祭りだよなあ。あそこの公園で」
「え、夏祭りがあるんですか?」
「うん、僕は毎年盆踊り踊らされてる」
「そうなんだ、すごいね。私踊りとかダンスがてんでダメで」
「今度教えてあげる、簡単だよ」
「いいの?ありがとう。夏祭りで一緒に踊ろうね」
「うん」
香は子どもの扱いもばっちりだった。
彼女、中々悪くないじゃない。
自分の皿によそったサラダを食み、トマトの甘酸っぱさを感じる。
見ていて微笑ましいやり取りに、あれに対して悩んでいた気持ちが少し和らいだ。
※※※
夕食が終わった。カレーもスープもサラダも浅漬けも、出した分は全て完食だった。
「食後の紅茶よ。これを飲んだら歯を磨いて、二階に上がってね」
明美は香にそう言い、ティーポットから琥珀色の液体をカップに注ぐ。
「え、まだ七時前ですよ。もう寝るんですか?それにお風呂は……」
「浴室は二階にあるの。一番に入っていいからね」
「は、はい……」
最初の質問は黙殺し、入浴について事務的に伝える。
優斗、まだあのことを伝えていなかったのね。
「詳しいことは明日話すから、今日はもう上がって」
でないと、あれが……。
「分かり、ました。今日はありがとうございました」
「いいのよ」
明美は心の闇を振り払うようにして、香との会話を打ち切った。
※※※
夕食を食べ終えた香は、階段を上ってあてがわれた部屋に戻った。
ピンクの地に黒のふりふりで縁取られたタンス。窓のレースにも、同様の柄のものがかかっている。ベッドの掛け布団も薄いピンク色で、かわいらしい。赤いハートの形をしたクッションもキュートだ。
部屋に入ると、そのファンシーな色調の家具に反して、少しよどんだ空気が彼女をもてなした。
優斗によると、使っていない物置部屋を最近客室にアレンジしたらしく、そのせいで殺風景な辛気臭さが抜けていないのだろう。
着いてすぐ荷物を置きに来たときに、窓は開けていたんだけどな。六月の湿った空気を喚起したところで、ほんの気休めにしかならなかった。
「一番でいいって言ってたよね」
大きなバッグから着替えと下着、洗顔料と化粧水を取り出し、一式を色つきのビニール袋に入れて持っていく。
きい、と微かに音の鳴るドアをゆっくりと開け、香は不気味なほどに静かな廊下に出る。
この家、財前家は家族の部屋が全て二階にあるそうだが、今は全く物音がしない。
それもそのはず。夜、家族はそれぞれの趣味を静かに楽しんでいるそうだから。
父親の優一はクラシック音楽を聴くのが趣味で、毎晩ヘッドホンで適切な音量を流して楽しんでいる。食後にリラックスして聴くと仕事のストレスがすーっと消えていくと、さっき食卓で話していた。明美は早くお風呂に入ってほしいと冗談交じりに言っていたが。
母親の明美は特に趣味について話していなかったが、優一を邪魔しないように瞑想するのが日課らしい。主婦の彼女は優一と子どもがいない昼間にテレビを見過ぎてしまうので、誰かさんが静かなうちにデトックスしたいと、これまた愚痴っぽく言っていた。
長男の優斗は、読書が趣味だ。というか、香と同じ現代文学科に通っているのだから趣味じゃないとおかしい。もっぱら社会派の推理、ホラー、サスペンス小説がお気に入りとのこと。こちらも、熱中するあまり明美に早く風呂に入れとどやされることが多いらしい。
最後に、次男の翔太。彼は小学三年生でありながら、ゲーミングPCでゲームをするのが趣味だという。メジャーなタイトルからインディーズの小規模なタイトルまで網羅し、遊び尽くすのが快感らしい。ただ視力が下がり気味のため、最近は自重しているそう。
財前家は皆、一人で楽しめる趣味を持っている。それでいて数か月に一度は旅行やレジャーに行くらしいから、インドアというわけではない。
ただ単に家の中が好き、一人が好き。でも家族で遊ぶのも好きな平凡な家庭、ならよかったんだけど……。
優斗の部屋、翔太の部屋、優一と明美の寝室のドアを通り過ぎ、一階へ降りる階段の奥。
一直線の廊下の突き当たりに、ぴかぴかのバスルームがあった。
「きれい……」
香は脱衣所手前で立ち止まり、中に見える浴室の白さに驚いた。
少し年季の入った家屋の内装とは裏腹に、浴室と浴槽は新品みたいだった。
恐らく、明美が丁寧に手入れしているのだろう。それも、ただ普通に掃除しているのではなく、カビや黒ずみを発生させないような、科学に基づいた清掃を心がけている。
香は脱衣所に入った。
正面が浴室、左が着替えやタオルを置いておく収納スペースだ。そして右側には、蛇口と小さな流し台、それとピカピカの大きな壁張りの鏡で構成された洗面台がある。
「緊張してきた」
ふと、謎の緊張感を覚える。入浴していいはずなのに裸になるのが憚られるような、そんな緊張感。
いや、警戒感?
「……なんでもない」
気のせいかと思い、振り払う。
木の繊維を編んで作られた、ホテルの大浴場に置いてあるようなベージュ色のかごに脱いだものを入れていく香。
そういえばこの部屋、洗濯機がない。洗濯は一階でやるのだろうか。
そう、とりとめもないことを考える。
「ふう」
大丈夫。あの家族が覗きなんてするはずない。
一糸まとわぬ姿になり、さあ湯船に浸かるぞと意気込む。
洗面台に体を洗うボディスポンジのようなものが干してある。これを使っていいのかな。
「スタイルが……」
前にかがんで、ひっかけてあるボディスポンジを取ろうとすると、否応なしに反射する自分の裸体を見せつけられる。
恋愛に興味はないものの、香も女だ。
もう少しダイエットした方が……。
その瞬間、誰かの視線を感じた。
「えっ!?」
誰!?誰かいるの!?
香は一瞬にして恐慌状態に陥る。
脱衣所と廊下を隔てる扉は、入るときに閉めた。
となると、収納スペースの衣類の間?
「カメラとか、覗き穴とか……」
必死になって探してみる。
カメラで盗聴されているかもしれない。この家が特殊な間取りで、脱衣所の壁に穴が空いていて、隣に覗けるような部屋があるのかもしれない。
女子大生探偵を自称する彼女の頭はパニックになりながらも、その可能性があることを導き出していた。
「ない」
部屋中の衣類をひっくり返しても、カメラも穴もなかった。それどころか壁や天井に視線を這わせても、シミ一つなかった。
じゃあ、この視線はいったい?
「……入ろっか」
考えてもキリがない。
香は周りに影響されやすい性格を自覚しているが、切り替えが速い女でもあった。
彼女はボディスポンジを強く握りしめたまま浴室に入り、扉を勢い良く閉めた。
※※※
「上がったよ、翔太くん」
三度のノックの末、ドアを開けて香が入室してくる。
パソコンでネットサーフィンをしていた翔太は、急に入ってきた彼女にどぎまぎする。
「急に入ってこないでもらえると……」
「あ、ごめん。なにかしてた?」
「大丈夫」
もう遅い。別に、いかがわしいことを調べてたとかじゃないからいいけど。
翔太はぎいぎい音を立てる学習椅子から立ち上がり、着替えが入っているタンスに近づく。
タンスは出入り口のすぐそばにある。必然的に、香と距離を詰めることになった。
「……」
シャンプーの良い香りに、思わず酔ってしまいそうだ。まだ未成年なのに、半ば反射的にそんな思いを抱く。
「お風呂はどうだった?」
「とっても気持ちよかったよ」
微笑みながら頷く香。
赤く染まった顔でやられると、ドキドキする。
「ならよかった。兄の友達どころか、お客さんすら来たことなかったから」
「でも……」
たちまち、彼女の顔が曇った。
「脱衣所で着替えているとき、誰かの視線を感じたの。私を観察するような……視線が」
「それって、覗かれてたってこと!?」
年甲斐もなく驚いてしまう翔太。
思わず想像してしまう、目の前の女性の裸を。
耳が赤くなるのを感じた。
「うん、でもなにもなかった。カメラとか覗き穴とか」
「そ、そっか。勘違いってわけじゃないんだよね?」
「それは間違いないと思う。確かに見られてた」
香は確信した面持ちで言う。
確かにそこになにかいたという感覚が脱衣所からすることは、翔太も痛いほど分かっていた。
「じゃあやっぱり、あそこにはなにかいるんだ……」
「やっぱり?翔太くんなにか知っているの?」
下を向いて呟いた一言に、香が食いつく。
「……詳しくは明日母さんが話してくれると思うけど、僕も脱衣所から視線を感じてた。毎日」
「毎日?原因は分からなかったの?」
「分からない。父さんにも母さんにも兄さんにも言ったんだけど、気にするなって」
翔太はある雨の夜、どこかから見つめてくるあの視線を思い出していた。
翔太の言葉を聞いた香は、うーんと考え込む。
「そっか……。それなら、そのことを話したときのご両親やお兄さんの様子はどうだった?」
「すごい動揺してた。皆もそうだったから」
「そうだったって、見られてるみたいに感じてたってこと?」
「うん」
はっきりと頷く。
気づけば尋問されていた。
目の前の華奢な女性が探偵だとは思えなかったが、こうした話の聞き出し方は流石だなと、翔太は心の中で思った。
「分かった、ありがとう」
香はその場で数十秒思考を整理させた後、翔太に礼を言った。
あんまり待たせても、他の人がお風呂に入れなくなる。
「分かってると思うけど、上がったらお兄さんに入るように言ってね」
「うん。……香さん」
「なに?」
「一階には下りないで」
「え?」
「夜七時を過ぎたら、一階には下りないで、って言われたんだ。お母さんに視線のことを話したら」
「……」
二年前、小学一年生に上がったばかりの頃だった。
一人でお風呂に入れると言って無理に入浴しようと、何者かの目を感じて母親に泣きついたとき、言われた。
『お願いだから……。
「夜七時を過ぎたら、一階には下りないで』、ね。分かったよ」
香は右手を斜めに額にかざし、『了解』のポーズを取って廊下に出ていった。
「はあ……」
香が部屋を後にしてから数秒後、翔太は大きくため息を吐いた。
緊張する。家族でもない大人の女性と話すのは。
「はやく入ろう」
溜まっていた生唾を飲み込み、タンスから着替えを用意する。
そのまま両腕で抱えて、廊下を歩く。
財前家では、各々の服は各々の部屋の収納スペースにある。だからこうして、自分の部屋から着替えを持っていく必要があるのだ。
「……」
そんなことを考えながら、廊下を進んでいく。
一歩、また一歩と進んでいく。
「……」
あれだけ食べたはずなのに、ふとお腹が鳴る。
階段の脇に差しかかった。
「……」
翔太は気づいた。
ふと嗅覚を研ぎ澄ませば鼻をくすぐる、カレーの香りに。
せっけんとボディソープの香りで、香は気づいていなかった。晩ご飯に提供されたカレーの匂いが廊下を支配していたことに。
もう一度。今度は大きく翔太のお腹が鳴った。
「……」
『お願いだから、夜七時を過ぎたら、一階には下りないで』。
数分前に香に言っていた言葉が、翔太の頭の中に反芻する。
なんで?なぜ下りてはいけない?
「……っ」
また唾液が出ていた。
ほとんど無意識に、体が階段の方を向いていた。
グラデーションをかけて光の届かない段々たちが、規則的に下へと伸びていた。
少しだけ。
もう少しだけでいいから、カレーを食べたい。冷えたご飯に乗ったルーを啜って小腹を満たしたい。
そんな思いが、翔太の頭に去来していた。
「……」
きっとこの思いは、お風呂に入ってさっぱりすればうやむやになるだろう。
空腹感などどうでもよくなって、眠気が訪れるはず。
そう、頭では思っていたのに……。
「……」
なぜ、下りてはいけない?
もう一度自分に問うてしまった翔太は、一階へと下る足を前に踏み出した。
※※※
ドンドンドンッ!!
ガチャガチャガチャッ!!
ドンドンドンドンドンドンッ!!
翌朝。
未だまどろみの中にいた優斗は、ドアを激しくノックする音とドアノブをしきりに捻って開けようとする音のハーモニーで目が覚めた。
ベッドサイドのデジタル時計を見ると、時刻は六時十三分。一限を一切取っていない優斗が起きるには、あまりにも早すぎる時間。
「だれえ?」
おしとやかな香がこんなことをするはずがないし、どうせ明美だろう。
そう思って、けだるげでやる気のない声で返答する。
「私です!雛菊香です!」
飛び起きた。
急いで寝間着から着替えて、ドアの鍵を開ける。
途端、香がなだれ込むかのような勢いで部屋に入ってくる。
「どうかした?」
「翔太くんがいないんです!」
「えっ?」
この家で、家族がいなくなった。
優斗の額に冷や汗が浮かぶ。
「昨日お風呂上りに少し話して、変な様子だったから気になって、それで朝になって部屋に行ったら誰もいなかったんです!」
「下は?」
見に行ったの?
ありえないとは思うが、聞く。
「……まだです。翔太君が夜七時になったら一階に下りるな、と言っていたので」
それを聞いた優斗は、苦いものを噛んだかのような表情になる。
翔太、そこまで話したのか。
今日、改まって打ち明けようとした、財前家の忌まわしきあの話を。
「じゃあ探そう。もう大丈夫だから」
今は廊下の窓から注ぐ日の光が、優斗たちを優しく包み込んでいる。
もう、あれに怯える時間帯じゃない。
優斗は香を連れ立って、廊下を出る。
「母さんと父さんに、この話は?」
「まだです。下にいるんならお騒がせしてしまうかなと思って」
「なら行こう」
もう眠気はなかった。
今はただ、一人になった弟の安否を願う思いしか、頭になかった。
※※※
一時間後。
飛び起きた両親とともに家中をくまなく探したが、翔太の姿はどこにもなかった。
外も探した。外の入口からしか入れず、七年前のあの日以降鍵を失くして開かずの間になっている地下室の前も探した。家の前の道から通じている雑木林の中も、家の裏手の斜面も探した。
が、いなかった。
「どこへいっちゃったの?」
香が消沈した声を漏らす。
「……」
対して、明美と優一は青い顔をしていた。
警察に行方不明届を出すかどうかを話し合うため、今は一旦リビングに集まっている。
「父さん、母さん……」
黙り込んだ明美と優一に、優斗は話しかける。
「分かってるわ、話さなきゃいけない……」
返ってきたのは、悲痛に染まった声だった。
「あと探していないのは地下室だけですが、鍵がないんですよね?翔太くんが鍵を持っていて、もしくは複製した合い鍵を持っていて、地下室に忍び込んだという可能性はありませんか?」
「ないわ……。翔太が学校に行っているときに部屋を掃除してるけど、怪しい鍵はなかった。それに、地下室の合い鍵なんて作ったことないし、翔太が一人で頼んだとも思えないわ」
「そうですか。翔太くん賢いから、もしかしたらと思ったんですが……」
絶望しているが、香の質問には流暢に答えられる。
そんな変な用意のよさ、気持ちの固まりようが、優斗には気持ち悪く思えた。
「失礼ですが、諦めていませんか?」
香が唐突に発した一言に、その場が一瞬にして凍りつく。
彼女は言いたいことをズバッと言う性格だった。
大学のゼミでもそうだった。優斗のプレゼンテーション能力はいまいちだと、面と向かって言われたことがある。
「もう翔太くんが帰ってこないことに、心のどこかで気づいている。諦めがついている」
「……」
「なぜですか?明美さん」
「……」
「なぜ、諦められているんですか?」
それは翔太くんに寄り添わないことを責めているというより、なぜ諦めているのか純粋に問うているようだった。
「なぜですか?優一さん」
「……」
「なぜ、夜七時を過ぎたら一階に下りたらいけないんですか?」
「……」
香が話すと、黙る。また香が一言発すると、黙る。
重たすぎる沈黙が、財前家の食卓に下りていた。
「私が一泊明かした部屋が女の子の子ども用の部屋だったことと、関係があるんですか?」
言った。
雛菊香がまた言った。
明美の顔が悲哀に歪んだ。
「……っ、…………っ」
明美が無言で嗚咽を漏らし、泣き崩れたのを見て……。
「……俺が説明しよう」
数十分かと思う沈黙の後、優一が口を開いた。
※※※
「あれは七年前のことだった」
優一が話し始める。
「財前優香という七歳の子がいた。俺と明美の長女で、生きていれば今頃十四だ」
涙で潤んだその瞳で、香をしかと見つめる。
遂に話す。財前家の呪われた過去を。
「優香は元気で、人一倍好奇心が強かった。家の近くの雑木林で遊ぶのが好きで、いつもドロドロになって帰ってきた」
あの朗らかな笑顔が、優一の脳裏に浮かび上がる。
「地下室も好きだった。本当の物置部屋にしていたあの部屋は、彼女にとって宝の山だった」
「そんなある日。異変が起こった。優香が雑木林で、大きな虫を見たというんだ。とてつもなく大きく、背丈は樹木ほどもあったという虫を」
「虫はなにかを話していたというんだ。食料を欲していた。有り余っている我が家の食べ物が欲しいと」
「だから優香は招いた。招いてしまったんだ。『台所のヌシ』を」
「ここは田舎だ。キッチンに虫が出ることは一度や二度じゃない。でも、そんなのとはわけが違った」
「俺や明美や、優斗は信じなかった。子どもの世迷いごとだろうと思って、気にも留めなかった。だが、いたんだ」
「優香が変なことを言い出してから、一週間くらい経ったくらいか。昨晩と同じように、明美がカレーを作りすぎて冷蔵庫にしまい忘れた夜、台所でうごめく黒い影を俺は見たんだ」
「違う夜、明美も見た。しかも襲われた。無我夢中で腕を払いのけて、走り回って二階に上がったら事なきを得たらしい」
「それから、夜は二階で過ごそうと決めた。午後六時に夕食を摂って、浴室を二階に作って、着替えはそれぞれの部屋に保管して、一人で耽ることのできる趣味を探した」
「食料がないとヌシが二階に上がってくると思った。だから、わざと料理を多く作って台所に置いておくようにした。事実そうしないと、翌朝一階の至るところにあるコードが噛みちぎられていた」
「引っ越すとどうなるか分からなかった。ヌシがついてくるのか、それともさっぱり終わりになるのか」
「そんな毎晩が続いていたある夜。事件が起こった。優香がいなくなったんだ」
「ヘアバンドが、台所の床に落ちていた。俺と明美は優香が『台所のヌシ』に食われたのだと思った」
「もちろん、警察に通報した。地下室も雑木林も裏の山も、徹底的に捜索してもらった。でも、どこにもいなかった。優香の、骨さえ……、なかった」
「だから、きっと昨晩も翔太が一階に下りてしまったからなんだ。翔太にはまだ早いと思って、この話をぼかして伝えていたのがよくなかった。一度ならず二度も我が子を失うなんて、俺は父親失格だ」
優一の、ところどころつかえながら垂れ流した独白が終わった。
香も優斗も優一も、押し黙った。
ただ、明美のすすり泣く声だけが響いていた。
「その後、墓を作った。一番お気に入りだった雑木林の中心に優香の墓を作って、その次にお気に入りだった地下室の鍵を、そこに埋めた」
「地下室の鍵を失くしたっていうのは……」
「申し訳ない、嘘をついた。言えば優香の墓を暴くと思って、言えなかった」
優一の絞り出すような声。
優香のことを言うのが苦しい。かつての日々を考えるのが苦しい。そんな感情が、彼の声にこもっている。
だが、香はいても経ってもいられなかった。
「墓を暴きましょう」
打ちひしがれている優一に、香はきっぱりと言った。
「っ、それはやめて……」
明美が訴えかけるも……。
「これだけ探していないということは、翔太くんは何者かに誘拐されたか、あの地下室にいるということです。地下室にいなかったのなら、警察に通報しましょう」
有無を言わせぬ口調で、香は自分の意見を押し通す。
「だが……」
「だがもでももありません!事は一刻を争うんです。『台所のヌシ』のことは一旦置いておいて、今は翔太くんを探すのが先です!!」
香が勇ましく思えた優斗だったが、両親の気持ちも分かる。
呼んでおいてなんだが、放っておいてほしい。翔太も『台所のヌシ』に捕食、されたんだ。
そう言いかけそうになった口を、優斗は思いっきり押さえ込む。
バカ!
「明美さんはここにいて、翔太くんが戻ってきても大丈夫なように準備していてください。……優一さん、優香ちゃんのお墓まで案内してもらえますか?」
「……」
「案内してください」
「……分かった」
幼いころ、優香とともに遊んだ地下室。
優斗でさえあまり記憶にないあの部屋の中身が、今暴かれようとしていた。
※※※
「ここだ」
数十分の後。
雨が降ってきたので合羽を着てから林に乗り込んだ香、優斗、優一は、優香の墓の前まで来ていた。
「ここの石の下に鍵が埋まっている。明美は知らないが、祖父が作らせた特注の鍵だから、複製もできないはずだ」
優一は香と優斗に言って聞かせる。
軍手をはめた大きな彼の手が、こじんまりとした丸っこい石をどける。
「俺と明美は、毎月ここにお参りしている。優香を偲んで。ひょっこり、戻ってきてくれるこ……」
地面の下をまさぐる、優一の手が止まった。
「ない……」
「まさか、鍵が?」
「ああ……。ない」
篠突く雨音が、事件のクライマックスを助長していた。
※※※
「鍵がないということは、やはり翔太くんが持ち出したのでは?」
「いや、翔太が墓のことを知っているはずがない。優香のことを話してもいないのに」
「弟は根っからのインドアで、雑木林にも近づかなかったし」
香、優一、優斗であれこれ議論しながら、財前家へと戻る。
合羽の水を切り、丁寧に畳んでから家のドアを開けて室内に入る。
「明美、鍵が……」
短い廊下を抜け、リビングに入った優一の体が硬直する。
「どうしたんですか?」
香と優斗も入室した。
そこには、予期せぬ光景があった。
カウンターで隔てられている台所の辺りに、明美を羽交い絞めにして首元に包丁を突きつけている男がいたのだ。
「誰だおまえは!」
すかさず、優一の怒号が飛ぶ。
「うっせえっ!」
男の声が返ってくる。
「この家の地下に間借りさせてもらってた者だよ。こいつが床の入り口を開けてきたんで、押さえてるところだ」
男はこいつのことだと言わんばかりに、包丁で明美の頭を示す。
「優一さんたちが出て行った後、気づいたんです。そういえば、台所の真下が地下室だったなって。この絨毯の下に、なにかあるかもしれないって思って……」
「それが、あるんだよなあ!」
真相を語る明美を、男が大声で主張して掻き消す。
「台所と地下室をつなぐはしごの通路がさあ、あるんだよなあ!お前ら家族が気づかずに放置していた、地下室への第二の入口があ!」
「あなたは七年前、埋められた地下室の鍵を拾って地下室に潜伏したんですね」
とここで、香が話に割って入る。
「ああ?そうだよ!家も仕事も失って途方に暮れていた俺が、死のうと思って入った森でこいつらがなにかしてた!なんだと思って掘り返してみたら鍵が出てきたんだ!それでこいつらの後を尾けてみたらピンと来たよ!!」
「そしてあなたは、七年にも渡って地下室に住み続けた」
「その通り!バカなこいつらはなんにも気づかないもんだからよ、はしごから台所に出て盗み放題よ!」
名も知らぬ男がペラペラと話す。
「台所に出た黒い影も、ご飯の残り物を食い荒らしていたのも、コードを引き裂いたのもあなたですね?」
「あ?黒い影はもしかしたら見られてたかもしんねえけど、他はそうだよ!腹減って仕方ねえときは、怪しまれないくらいに一階を荒らしてた!気晴らしにな!」
「では、翔太くんも?」
「あのガキかあ?今頃地下室で冷たくなってるだろうよ!カレーにつられてのこのこ下りてきたのが運の尽きだったな!」
その一言を聞き、優一が拳を握り締める。
「この下衆が……」
今にも殴りかかりそうな様子の彼を、刃を突きつけた男が止める。
「おっと、どうなるか分かってんだろ?今下手なことしたらこいつをぶっ殺すぞ!!!」
一際強く脅し文句を言い放つ男。
包丁を持つ手に力を込めた瞬間……。
「もういいですよ」
「……はあっ!」
香の合図とともに、明美が肘鉄を食らわせた。
宙を舞った包丁を香が確保する。
「はああっ!」
明美はさらに、上段蹴りを男の顎に叩き込んだ。
「明美さん言ってなかったけど、本当は瞑想じゃなくて、空手の型を練習するのが趣味なんですよね?優一さんがヘッドホンをして音楽を聴いている間、明美さんは自分の部屋で稽古するのが日課だった」
「あら、どうして分かったの?主人にも内緒にしていたのに」
「食事を配膳する明美さんの、手の甲の出っ張りの部分が少しへこんでいるような気がして。気になって、明美さんが入浴しているときに部屋をお邪魔させてもらいました。そうしたら、道着や練習道具が」
「まあ勝手に!でも寝室には主人がいたはずでは?」
夫婦が使っているスペースは、寝室から明美と優一の個人の部屋に出入りできるような構造をしている。
「うたたねしていましたよ。ヘッドホンで音楽を聴きながら」
「……とんだ探偵さんね」
こうして、『台所のヌシ』は捕まったのだった。
※※※
およそ二か月後。雨の多い夏休みが明けた。
二限の授業が終わった香と優斗は、大学のキャンパス内にあるカフェスペースで話している。
「でも、男が捕まったのになんで夜七時の言いつけを守るように言ったんだ?」
優斗が当然の疑問を口にする。
長年床下に隠れ住んでいた男が逮捕された後、財前家には平穏が訪れたはずだった。男の言う通り、生活痕の残る地下室から翔太が遺体となって発見されてしまったが。
だから、もういいはずだ。のびのびと一階で夜を過ごしてもいいはずだ。
だが、香は決して首を縦に振らなかった。
「いい、優斗くん。男は、自分が家族に遭遇した自信がないという風なことを言っていたわ。『黒い影はもしかしたら見られてたかもしんねえけど……』ってね」
「確かに、そう言っていたな。でもそれがなに?」
「明美さんは、あなたのお母さんは黒い影に襲われたのよ?もし男が本当に黒い影の正体だったのなら、男の目線に立ってみて?見られてたなんて曖昧な言葉で済ませるはずがない」
「えーっと、それはつまり?」
自分の家の話にも関わらず要領を得ない優斗に、香はきっぱりと言った。
「つまり、あの男とは別に『台所のヌシ』がいるのよ。優香ちゃんは本当に雑木林でヌシと出会って、ヌシにさらわれたの」
『そうでなきゃ、優香ちゃんがさらわれたのと男が潜伏し始めたのとの時系列が合わない。二階の脱衣所の視線は、洗面台の排水溝からヌシがこちらの様子を伺っていたから』。
青ざめた顔の優斗を見て、香はそこまで言うことはしなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます