母のあさぎゃお

鬼伯 (kihaku)

第1話

                             鬼伯(kihaku)作



△(一)


「ただ、つたえれば哿(よ)し。御否応(ごへんじ)はまたず、急ぎ、ゆるらにもどれ」

 このときから茶の湯は業(はじ)まっておりました。

 この種の手法は庵主利休の癖のようなもので、取りわけ高位の方に対して表出されました。高位の方々も、利休からもたらされる判じ物のごとき言々(げんげん)をうけとるのを愉しみとしていたようでございます。

 ――おれは利休に一目おかれている、と。

 貴(あて)な族というのは他愛ないものです、まことに。

「急ぎ、ゆるらにもどれ。大鷹にのって」

 利休は一語一語をくぎるようにして使丁(してい)を送りだしました。言いまわしもこの種の奇天烈をこのみました。急ぎゆるらには、ふりかえった背中に何かを読みとられるものがあってはならぬという、何を根拠にしているのか遽(にわ)かにさっしがたい意がこめられていて、使丁は悲鳴をあげたい衝動にかられるのですが、むろんそんなことはゆるされません。

「何ごとも、平らかに、平らかにであるぞ」

 というのが、庵主利休の教えです。まァ意味は深くかんがえても仕様がなく、ゆるらは、ゆるらか、ゆるるかを、利休流につづめた物言いです。大鷹にのっては、そのような感覚でということ。仕える者はそれを直感でつかまえなければなりません。

 ――仕方ない、仕方ないのだ、何ごとも。

 このことばを生命の添え木として、使丁は今日を明日におくり明日を今日にひきよせて生きています。茶の湯はすでに業まっているのでございますから、妖魔にけどられぬようまいらねばなりません。

 使丁は聚楽第へとびました。

「今宵しずかに、利休の庭にあさがおが舞いおりてまいります。明日の朝はそれが……庭一面に……」

 そこでことばをしずめました。それも利休の教えです。あさがおが舞いおりてくるとは、あさがおは唐の国の余話から牽牛花(けんぎゅうか)ともいわれるので、牽牛星から舞いおりてくると洒落たのです。それが相手につたわるかどうかというのは利休にとって大した問題ではありません。おのれが愉悦の壺に入ることが大事なのです。

「で――」

 聚楽第の侍従は次のことばを目で催促しました。しかし使丁は腰をさらに深くおって敬意はしめすものの辞句はつぎません。

「明朝は……」

 侍従は小粒の苛立ちを立ちあげました。

「何だというのか」

 小粒が破裂しかかりました。使丁はそれも勘定にいれておりますので、腰を折ったまま後じさりし背と腹をくるり入れかえると地面をけりました。琴をひくあの嫋(たお)やかな白い指先が光ったかとおもうと、使丁の身体が風をまとい美しくうきあがり、大鷹にのったかのように見えました。

 まことにそれは、美の一撃でございました。

 侍従は呆気にとられて怒気はどこかへ吹きとびました。使丁の身のこなしの秀麗さにいわゆる墜ちたのでございます。

          

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