数字男
千織
前編
小学5年生の時。私と歩美は談笑しながら学校の廊下を歩いていた。
歩美は、窓に張られた蜘蛛の巣に、引っかかった蝶をふと見つけた。そして、羽根をそっとつまんで、その蝶を助けてやった。
なんのためらいもなく、ごく自然に行われたその行為に私は驚いた。歩美は、日頃から心が綺麗な少女だった。深く考えずに、善意で助けたのだろう。
一方、私は蝶より蜘蛛に同情してしまうような人間だった。蜘蛛もその時、巣の中にいたのだ。今日のご飯が目の前で取りあげられて、さぞかし悔しかっただろう。蜘蛛が御飯にありつけなくて死んでしまったのか、それでも生きれたのかを私は知らない。
私はそれ以来、自分が今、食糧としての蝶なのか、捕食者としての蜘蛛なのか、はたまた、歩美のような神の見えざる手なのかを考えるようになった。
♢♢♢
私は、女子大生になった。大学は山の上の方にあり、その近くの住宅街の一角にあるアパートで、一人暮らしをしていた。
その日、バイト先の居酒屋から帰ろうと、深夜に坂道を登っていた。結構な勾配なので、私は自転車を押して歩いていた。
坂道の途中で、セダンがハザードランプを点けて止まっていた。トランクが開けっぱなしで、運転手らしき男が、地べたに這いつくばり、スマホで地面を照らして何かを探している。
何の気なしに横を通り過ぎようしたら、「あの……」と話しかけられた。
「鍵を落としてしまって。すみませんが一緒に探してもらえませんか?」
街灯が少なく、男がこちらにスマホのライトを向けるものだから男の顔はよく見えない。
「すみません、急いでいるので」
私はそう言って、駆け足でその場を去ろうとした。
男に背を向けて間もなく、頭に衝撃が走った。何発か硬い棒で殴られ、私は気を失った。
♢♢♢
目を覚ますと、私は手を後ろでに縛られていて、ソファに寝かされていた。頭がズキズキと痛む。向かい合わせに置かれたソファに、私を連れ去ったであろう男が座っていた。
男は、落ち着きなく手を擦り合わせ、上半身を揺らしたり、貧乏揺りをしている。黒縁の大きめのメガネ、七三分けの髪。尖った鼻に薄い唇。シャツに、ジーンズをはいていた。
「部屋を移動する。絶対に俺の言うことをきけ。余計な真似をしたら、痛い目に遭わせるからな」
強気な言葉とは裏腹に、男の声は震えていた。むしろそのセリフは、この男が誰かに言われていたんじゃないかと思った。
男は私を立ち上がらせた。一軒家にいるようだが、自分が今いる空間は玄関ホールで、ソファの後ろ側には玄関が見えた。私は裸足にされていて、男も裸足だった。
ホールから隣の部屋に移動すると、そこはかなり広い部屋で、床に白いペンで、丸や数字がたくさん書かれていた。
「この丸の中にある数字を、順番の通りに移動するように」
と、男は言った。
私は、言われた通りにまず一番手前の、0と書かれた丸を踏んだ。丸と丸は線で繋がれていて、近くに1の丸があったので次はそれを踏んだ。丸から伸びる線は、一本とは限らず、進めば進むほど、一つの丸から出る線は多くなっていた。
手が縛られているし、頭も痛いのでふらついてはいた。が、なんとか先に進んだ。男は、スタート地点からこちらをずっと見ていたが、20の丸に辿りついたとき、そこで止まるように言われた。壁に近い場所で、すぐ目の前にドアがあった。
男も、同じように丸の上を歩いて、19まで来た。
「今から手を自由にするが、この部屋ではこの丸以外を歩くなよ。あと、必ず、数字の順番を守れ。20の次は21だし、20の前は19だ。わかるな」
それは、わかる。が、男の言っている意味はわからない。
手の粘着テープを、男はナイフで切った。そしてそのナイフをこちらに向けながら、ドアを開けて中に入るように言った。言われた通りにした。
♢♢♢
中は暗かったが、部屋の向こう側にはカーテンがひいてあり、うっすら外の光を感じた。真ん中に椅子があり、そこに座るように促された。
椅子に座ると、目の前に三脚があり、カメラがついているようだった。隣にはライトもあった。男も部屋に入って来て、ドアを閉めた。
椅子と腕が一体になるように、粘着テープを巻かれた。そして、お面をつけさせられた。どんな顔のお面かはわからない。
お面には目に穴が空いていて、お祭りの屋台で売っているような、単純にゴムをかけてつけるものだった。視界は狭くなったが、男の様子は見えた。
男は、メガネを外して近くの棚に置き、帽子のようなものを被った。帽子には、顔を隠すように布が垂れている。さらに男は、黒い服――袖口はガホッと空いていて、裾は足元を覆うくらいに長く、スカートのようになっている――を、羽織った。
男は、棚から細身のハサミを取り出した。そして、ライトをつけてこちらを照らし、カメラのスイッチも押したようだった。
男が、私の後ろに回った。
男は、私の髪を束ねると、ハサミで髪を切り始めた。一本にまとめたのを切るのだから、じゃりじゃりじゃり、と鈍い振動が頭に伝わる。なかなか歯がうまく通らないようで、結構時間がかかった。
ようやく終わったらしく、私の髪はロングからショートになった……と思われる。
男は、はあはあ、と息を切らせていた。そして束ねられた髪を持ったまま、カメラのスイッチを切りに行った。
男は、髪をビニール袋にいれ、帽子と黒いマントを脱いだ。そしてこちらに近寄ってきて、私のお面を取った。
「お前を、最小の単位にしなくてはならない」
そう、男は言った。
髪を切るのがその手始めなら、次は指だろうか。
私は男の顔を見た。まだ息を切らせていて、その目には怯えが見えた。
「いつまでに?」
「え?」
「いつまでに、私を最小にするの?」
「……い、一週間……で……」
最小とは……私をバラバラにしていって、シャーレの中で私の細胞を一個単位にする……までやるのだろうか。にしても、男のおどおどした態度からは、そこまでやれるようには感じなかった。
「トイレに行きたいんですけど」
「……少しくらい、我慢しろ……」
「生理中で、お腹がゆるいんです。ギリギリまで我慢しますけど、漏らしたらすみません」
「わ、わかった。今、連れていくから。ただし、絶対に余計な真似をするなよ。数字は、守れ」
男は爪を噛みながら言った。
♢♢♢
男は、面倒になったのか、私の手を自由にしたまま、数字の部屋を歩かせた。数字の部屋は、外に面している方は大きな窓が連なっていて、カーテンがひかれている。カーテンは、椅子の部屋と同様に、完全な遮光ではなく、外の明かりを通していた。
床をざっと見渡すと、大きな数字は120まであった。数字を遡って歩き、最初に入って来たところに戻った。後ろから、男も付いてくる。
「右手に曲がれ。突き当たりがトイレだ」
言われた通りに移動すると、トイレがあった。ドアはなかった。もしかしてこの家は、最初から監禁用なのかもしれない。
「生理用ナプキンはありますか?」
「ねーよ、そんなもん」
「今つけているナプキンはもう限界なんです。二日目なんで、レバーみたいな塊が出てくるんです。外したままだと、家を汚しちゃいます。それでもいいですか?」
「……自分のカバンには入ってるのか?」
「はい」
男は、最初に座っていたソファの陰にあった、私のカバンを持ち上げた。中を漁り、ポーチを開けて、ナプキンを取り出した。そして、無言で渡してきた。
「ありがとうございます」
私はお礼を言って、ドアの無いトイレで普通に用を足して、ナプキンを取り替えた。
男は、廊下にはいるものの、こちらは見ていない。しきりに爪を噛んでいた。頭はおかしいが、変態ではない……のかもしれない。
ズキズキと痛む頭を触ると、乾いた血が粉のようになって、指に着いた。髪が無くなって、頭が軽い。ショートヘアも悪くないと思った。
♢♢♢
トイレを済ませると、また数字の部屋に促された。0から始め、10まで進む。男も後ろから付いて来る。
私はそこで足を止めて、男と向き合った。
「な、何をしている。早く行け」
「数字を守らないと、何が起こるんですか?」
「お前は、知らなくていい!」
「私は、最小の単位になるのですよね? つまり、殺されるのかな、と思うわけです。どうせ死ぬんだから、謎を少しでも解明したくて」
「どうせ死ぬんだから、余計な真似をするな!」
「……そう言われると、やりたくなるのが性分でして」
私は、すぐ近くにあった60を踏んだ。
「やめろ!! ああ!!! なんてことをするんだ!!!」
男は、私の顔面を殴った。
鼻血が飛び散る。さらに何発も殴られる。男は、倒れた私の腹を蹴った。私は頭を抱えうずくまった。男は引き続き、背中を何度も蹴った。
「お前の!! せいだからな!!」
男は、粘着テープで私の手を後ろでに縛り、両足も縛った。そして、玄関を出る音がし、車が走り出す音が聞こえた。
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