哀星花
長月 有
花
一ノ瀬
数日前、私は事故に遭って緊急搬送された。幸いにも怪我は軽傷だったが、頭を強く打ったことで記憶喪失になってしまった。
病室の窓から見える景色を眺めると、きらきらと輝く朝露とともに、朝日が少し遠慮がちに顔を出していた。まだふわふわとする意識が早朝のくっきりした空気で少しずつ覚めていく。
「おはよう、唯花」
「わっ」
突然の声に驚き振り返ると、そこには同い年くらいの青年がいた。
「あぁ、驚かせちゃってごめんね」
透き通った白い肌、さらさらの黒い髪、痩せた細い腕。まるで雪の精霊のような、触れたら消えてしまいそうな、そんな青年だった。
「あ、えっと……。誰、ですか?」
そんな私の言葉に、雪の精霊の瞳は静かに揺れる。
「記憶喪失、なんだよね?」
「そう……みたいです」
「ごめんなさい」と私が謝ると、彼は「気にしなくて良いよ」と首を横に振った。
「僕は
藍色の藍に…………と空を人差し指で切った後、青年は「よろしくね」と目を細めた。
私は、あいとくん、とその響きを確かめるように何度も心の中で呼んでみるが、一向に思い出せる気配はない。
そんな私の心を察したのか、彼は「無理に思い出さなくて良いよ。僕は唯花の顔が見たかっただけだから」とすかさず言って再び優しく微笑んだ。
「最近学校はどう?」
そんな質問に、私は言葉を詰まらせる。記憶の曖昧な私には何も答えることができない。
「何でも良いから、適当に喋ってみてよ」
「え、?」
困惑する私を置いて、彼は話を続ける。
「今度のテスト勉強、全くしてないや。唯花は?」
「えっと……私も、してない」
「そんなこと言って、いつも高得点のくせに」
彼は「裏切りだぁ」と言って笑った。
「今回のテスト、補習あるらしいよ」
「そ、そうなんだ」
「科学と数学。もうダメかも」
彼は大げさにため息をつきながら、苦笑いを浮かべる。
「苦手教科?」
「うん。唯花も数学苦手だったよね?」
「一緒に頑張ろうね」
私がそう言うと、藍斗君は「抜け駆けは駄目だよ? 約束だからね?」と念を押す。
「課題はどれくらい終わったの?」
「全く終わってない」
やけに元気よく答える藍斗君に対し、私が「だめじゃん」と言って吹き出すと、それにつられるように彼も声を立てて笑った。
緊張、不安、恐怖……色々な感情が次第に消え、肩の力が抜けていくのが分かる。
──────楽しい。
その後も、私と藍斗君はあたかも記憶があるかのような会話を続けた。正直、まっさらな記憶から紡ぎ出される私の言葉は、元の自分とはかけ離れていたと思う。それなのに、藍斗君は心の底から楽しそうに話をしてくれる。
もっと藍斗君と話していたい。もっと藍斗君のことを知りたい。私の中ではそんな思いがぐるぐると回り始める。
あぁ、この子はすごく愛されていたんだろうな。
今、藍斗君の前にいて会話をしているのは他でもない自分自身だというのに、何故か私の胸はちくりと痛んだ。
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