28 身代わり
私は「知っていた」。ただ見ようとしていなかっただけで彼女……己音について。彼女は私を助けてくれていたのに。
頭が痛い。額を押さえて目を開けた。ベッドに横になったまま頭痛と怠さで寝返りを打つ気にもなれない。再び目を閉じた。
自分の残酷さを今更、まざまざと思い知って吐き気がする。
己音は私が切り捨てた「私」だ。
朦朧とした意識のどこかに彼女がいたような気配がする。
高さのあるビルが建ち並ぶ街を出ると草地が続いていた。更に奥へ進む。異臭に近付いて行く。明るい長閑な空の下に見えてくる。黒っぽい沼地。近付くのもためらわれる程、醜い。汚い。
そんな沼の中央に人がいる。上半身だけ沼から出して、こっちを見ている。顔にも髪にも服にも腕にも泥が付いていて酷く汚れている。だけど泥の合間から窺える肌や瞳の輝きが彼女の本質を知らせていた。
上辺を取り繕って生きている私より……ずっと……彼女は尊かったのに。
「ごめん……! ごめんね……!」
呼び掛けた。彼女は何も喋らず、ただじっとこちらへ視線を向けてくる。
今まで避けてきた。近寄りもしなかった。汚い汚い沼に入った。悲しみが胸を痛くする。
両親が二度と戻って来ないという現実を受け入れたくなかった。二人を忘れたくなかった。
明るい心で生きたいならこの気持ちも薄めた方がいいと正解風の思考が頭の隅をちらついていた時期もあった。けれど結局「私が忘れてしまったら二人は寂しいと思うよね」という考えに行き着いた。
でも、両親の事を思うだけで涙が出てしまう。その頃の私は日常生活に影響するくらい思考が暗かった。
だから彼女に預けた。……己音に私のつらくて悲しくて暗い部分を押し付けた。彼女が代わりに悲しんでくれていたから、私は罪悪感もなく今日まで平然と普通の人のフリをして生きていた。
本当に汚いのは都合の悪い部分を見ようとしなかった私だ。読書が好きなのもそうだよ。現実のありとあらゆる嫌な事を忘れて夢に溺れた。やらなきゃいけない事は山程あるのに。
短い間だったけど、両親が私を愛していてくれた記憶がある。目に映った二人の笑顔をずっと覚えていたい。幸せな記憶があるから……失った悲しみが大きい。
つらくて悲しくて暗くても…………それは失くしちゃいけない大切な記憶の傍にあるから、私の中でずっと飼い続けているんだよ。
沼を一歩進む度に、自分も汚れていく。「何であの子はおもちゃを買ってもらえるんだろう」「陰口を言われた」「私を嫌っている人たちと仲良くなんてできない」過去に考えた不満や不安や自分に嘘をついて相手に合わせた嫌悪感を噛み締める。
汚いと思っていた当時の感情は、俯瞰して見るとそうでもなかった。ちゃんと自分を大切にしたいから嫌な気持ちになったんだよね?
信頼できる人に話せていたらこんなに長く抱えていなかったかもしれない。誰にも相談しなかった。伝えられる語彙も十分じゃなかった。
本を読んで使う事のできる言葉を吸収した。私は今、あの頃より自分の状況を他人に伝えられる。頼れる人も周りにたくさんいる。
「今なら分かるよ」
両親は私に苦しんでほしくない。きっと幸せに生きてほしいと望んでくれるだろう。
だから、私は――。
手を伸ばした。彼女は沼に浸かったまま動かずに私を見ている。ドロドロで汚い姿をした女の子に触れた。自分も汚れながら抱きしめた。
たくさんある嫌いなものに埋もれていても「彼女」は宝物のように綺麗だった。
言葉にして伝える。
「ごめんね。あなたにだけつらい気持ちを背負わせてしまって。目を逸らして考えないようにしてた。本当は向き合わなきゃいけなかったのに」
涙が零れる。彼女にした仕打ちは過去に私へ意地悪してきた人たちと同レベルの行いのように感じた。幼子を慰めるみたいに彼女の頭を撫でる。自分へ問い掛けた。
「私だけ綺麗なフリをしてもダメだったね。見ないようにしていても肝心の「私」は救われなかったね」
泣きながら言った。
「あなたが生きて」
決めた意志を渡した。暫く間を置いた後、彼女が発言した。
「…………でも」
「大丈夫。私はあなたをサポートできる。傍で見てるから」
安心してほしくて明るく励ました。彼女は何か考えている素振りだった。陰りのある虚ろな瞳が私へ視線を送ってくる。
「『あの人』が好きなのは音芽ちゃんだよ」
「うん。そうだね」
微笑んで認めた。「彼」の事を考えて寂しく思う。
「心配しないで。あなたも音芽だよ」
言い置き、彼女を沼の外へ送り出した。
彼女が去った後、振り返って沼を見つめた。私はここで何をしよう?
沼には沼のいいところもあるけど……そうだなぁ。掃除して泉にしようかな。『私たち』の幸せの為に。
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